いろはカメレオン(♭)

 狭い路地裏いっぱいに、日傘を広げて猫と歩く。水滴のように丸く降る夏の昼下がりの日差しは細かく、日傘の縁をくるくると飾った白いレースの隙間から零れて、私の腕に斑模様を落としては過ぎた。ふうわりと揺れたワンピースの裾を、灰色の猫が横目に見て、また歩き出す。私はその濁った碧の眸を見つめてスケッチした昨夜のことを思い出しながら、セロファンのようにふらふらと向きを変える光に合わせて傘を回した。静かな路地裏には、一本向こうの路を走る車か何かの音がぼんやりと篭って、いつまでも鼓膜を震わせる。やがて見えてくる出口へ私が立つ頃には、隣に猫はいないだろう。彼はいつも、三メートル手前の塀の向こうに日陰を追い求める。

 「……」
 ぼう、と船の汽笛が聞こえて、わたしは顔を上げた。長い空想に耽っていた、そんな気がする。いや、実際にはそれほど長くもないのだろうか。変わらず防波堤を撫でては遠ざかるばかりの海を眺めて、それはここを見ている限り分からないことなのだと苦笑する。ここの景色はあの路地裏とは違って、一歩進むだけで移り変わるような細やかなものではないのだ。夕日が沈みでもすれば、話は別だけれど。
「おおい、まだか」
「ごめんなさい、今行くわ」
四つ並んだ漁船の二つ目から、叔父の声がする。わたしは頼まれた釣具と麦藁帽子を手にして、平たいサンダルでそこから駆け出した。

 「―――であるからして、ここの公式は……」
 カン、とチョークが黒板を叩く音で、波の音が遠ざかる。はっとして開けたあたしの目に飛び込んできたのは、紺のネクタイをストライプのシャツに垂らして教科書とチョークを持った、見慣れた講師の姿だった。しんと静まった教室内を、ぎこちなく見回して思う。夢でも見ていたのだろうか。そもそも眠っていたのか。うんと腕を伸ばしたいが、それは叶わない。受験を控えて夏休みをペンとノートに叩きつけるこの教室でそんなことをしようものなら、一斉に嫌な注目を浴びることだろう。昨日の課題が多すぎて寝不足だったんだ、と噛み殺した欠伸を講師のせいにして、机の端まで転がったペンを手に取る。気合を入れ直してノートを取ろうと思ったところで、自分が書きかけにした内容はもう、黒板のどこにもないことに気づいた。ここにはあの夢のように、いつどんなときも変わらず残っているものなんてないのだ。目を閉じて開くその間に、零れ落ちていくのは景色ではなくてあたし。

 「聞いてる?」
 すとん、と鼓膜のその奥に小石が落ちたような感覚。きゃ、と声を上げて初めて、それが相当大きな声でワタシを呼んだ友人の声であったのだということを理解した。
「もう、いつもぼうっとしてるんだから。ほら、行くよ?」
「え、どこに?」
「やだ、聞いてなかったの?みんなで駅前にできたカフェに行こうって、さっき話したばかりじゃない」
「え……」
「何?変な顔して」
「……あ、ううん。ごめんね、ぼんやりしてたみたい」
結ばない髪がちくちくと首の後ろをくすぐって、ワタシは今日一日、落ち着きなくそれをいじっている。友人はワタシがやっと子供っぽい二つ結びを解いてきたことに満足げだったけれど、ワタシは頭の奥のほうで、今週末の美容院は空いているかしらと考えていた。もう、と間延びした口調で言って、友人は明るく染めた髪をかき上げる。ごろりとしたピアスが光って、瞼が痛くなった。
「何か用でもあるの?」
「ううん、全然」
「そう、じゃあ行こうか?みんな待ってるんだよ、早く行こう」
ざわざわ、どこかで顔を見たけれど名前の分からない人たちで廊下はいっぱいになる。ワタシはそれをすぐに忘れていく。
「うん、楽しみ」
鞄を抱えるふりをして、ぎゅっと腕に抱きこんだ大好きな本。新刊発売の広告を鮮明に思い出せるけれど、ワタシはそれを口にするわけもない。ここにはあの理想のように、追いかけなくては見失ってしまうものなど何もないのだ。初めから、何も見つけてなどいないのだから。

 「……なんてね」
 真っ白いカーテンをそよがせた風に前髪を掬われながら、アタシはそんな言葉を呟いて、ふっと息を吐き出した。窓の外に広がりだした緑の中へ、紙飛行機をどこまでも飛ばす妄想で時間を潰す。右手は点滴が邪魔だから、左手で飛ばさなければいけない。飛ばすには紙飛行機を折らなければならない。けれど右手はろくに動かせないし、片手でよく飛ぶ飛行機を作れるほど、アタシは器用でもないのだ。
「ねえ」
誰にともなく声を落としてみる。それはどこまでも落ちていって、やがて広い緑に吸い込まれて消えた。あそこに降りることができたら、どれほど気分がいいだろう。すう、と緩んでいく頭の中の結び目を、アタシは繋ぎ止める。
「なんてね!」
ここにはあの妄想のような、くだらない話に乗ってくれる相手は誰もいないのだ。自分の意識は自分で作り続けなければ、途絶えてしまう。ずるずると押し流してくれるものは、どこにも見当たらない。

 「――――――……」
手元に広げたままの本を捲ったぬるい風で、私の思考は巻き上げられてあるべき場所に戻ったようだった。どれくらいの間、こうしていたのだろう。いつの間にか電波の悪くなったラジオから、くぐもった声で知らない歌が流れる。どこかで聴いたようで、けれどきっと初めて聴く歌なのだろう。
「……」
ぱらりと捲ったページに並ぶ活字を数行、目で追って、区切りのいいあたりに栞を挟んだ。本の中心にだらりと垂れていた、なんの飾りもない焦げ茶色の紐だ。けれどそれはページとページの間に挟まるなり、不思議としっくり収まって見えて、私は少し上機嫌にそれを棚へ戻した。窓の下を銀に光る車が走り抜けていく。ヴン、と耳についたそれはエンジン音の名残ではなく、机に置き去りにした携帯電話からだった。ディスプレイに光る文字は、ここから見えない。
どこかでぼう、と、船の汽笛が鳴いた。時刻は午後二時を過ぎて、三時に近い。誰かを誘ってカフェにでも行こうか。そう考えて携帯電話に伸ばしかけた手を、点滅する緑の光に、なんとなく引っ込める。
「それでは今日のリクエストに参ります。まずは……」
途切れ途切れに音声を流すラジオを切って、私は日に焼けた白のカーテンを閉めた。そのまま鍵を掴んで近くの鞄に押し込み、部屋を後にする。玄関を出るとき、家の電話がルルルと騒いで、やがて黙った。
 夏の風はワンピースの裾を揺らして、私の空想の破片を持ち去りながら遠退いていく。ざわめく町の中を通り抜けて、どこへ流れ着くのだろう。
「……はじめまして?」
濁った碧の眸をした、灰色の猫がいつの間にかそこにいる。私は狭い路地裏いっぱいに日傘を広げながら、彼と歩いた。

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