青の絵画(♭)

 ざあ、と濃紺の絨毯が唸るように揺れている。寄せては返すその音が、背後の道路をゆく車の音さえ遮るほどの波打ち際で、私は持ってきたキャンバスを広げた。真っ白な表面が太陽を跳ね返して、目蓋の奥にオレンジが飛び散る。じんと広がった痛みに、ああ今年もまたこの季節が来たのだ、と強く感じた。
すう、とひとつ息を吸って、体の奥深くまで潮の香りで染め上げる。乾いた砂地に鞄を下ろして、その中から一本の筆とパレット、それからいくつかの絵の具を取り出して並べる。水を持ってくるのを忘れたことに気づいて、数歩行って筆を濡らした。濃紺に見えたそこから貰い受けた滴は、どこまでも透き通った色をしている。私は少し迷ってから、ひとつのチューブを手にとって、蓋を開けた。深く、それでいて目を惹く青がパレットの上に零れて丸くなる。
「―――」
 藍色の筆先で海を描く私の指を、貴方はよく綺麗だと言って笑ってくれたものだ。躊躇いなくそれを筆先に染み込ませてキャンバスへと振り下ろしながら、私はただ思い出していた。頭の奥のそのまた奥が、自然に開かれてゆく。この一年間閉じ込めていたそれがどっと溢れ出して、このまま止まらなくなって錯乱してしまうのではないかと考える。この感覚も、もう何度目だろうか。
二度三度と藍色を貼りつけながら、私は思った。あなたならこの追憶を、どんなふうに語っただろう。言葉を作り出すのが、とても上手い人であった。いつだって口下手な私の声を補って余りあるような、繊細さも力強さも、優しさも恐ろしさも、何もかもを豊かに語れる人だった。あなたなら、今の私が抱いているこの渦巻くような感情も、まるで夜空に輝く星のような、宝石のごとき言葉に代えることができたに違いない。きっとそうして、そうだろう、違うかい、と振り返り微笑んでくれるのだ。けれど悲しいかな、あまり国語の成績が良くなかった私には、今の感情をありふれた一言、いや、二言で表すしかできない。
懐かしくて、会いたい。口にしようとしたけれど、あまりにもありきたりだと飲み込んだ。こんな言葉では、その息継ぎの隙間に落としてしまったものが多すぎる。もっともっと、私の心はせめてもう少し、複雑だ。あなたを思って絡まった糸を、こんな二言でほどいてしまえると思われるのは寂しい。だから。
(―――、)
目を閉じてそっと、呼びかける。そうして藍色を染み込ませた筆で、キャンバスに残された最後の白を塗り潰した。生乾きのその絵をひらりと広げてみれば、向こうの海と重なって、なかなかよく似た色になっていた。藍色で塗り潰しただけの、一枚の絵。絵の具はたくさん用意したくせに、今年もやはり一色しか使わなかった。園児のような絵だと、我ながらそう思う。けれどそれでいい。筆を扱い始めて間もない頃の私が描く、まだらな青でできた海をいつも見ていたあなたには、今の私が描いた光り輝く海の絵を、私のものだと見抜くことはできないだろう。
 数歩進めば、靴の中に塩辛い水が流れ込んでくる。ばたばたと羽ばたこうとする藍色のキャンバスを両手で持って、私は遠くを見つめて足を止めた。踝を撫でる水の感触に、収まりかけていた記憶の奔流がまた沸き起こる。ああ、この感情を何と呼ぼう。私にはただ、ありふれた言葉を並べるしかできない。
懐かしい、悲しい、切ない、会いたい、出会いに感謝している、悔しい、まだどこかで期待をしている、けれど現実は分かっている。懐かしい、会いたい、繰り返して繰り返して、また舞い戻る。その奥から、もう何年も口にしていない言葉が浮かび上がった。

(愛していた)

そう私はあなたを、あなたのことを。いいえ今でも、と紡ぎかけた心に目を塞ぎ、深く息を吸ってみる。行き場のない感情が、潮の香りに逃げ惑った。
藍色の筆先で海を描く私の指を、貴方はよく綺麗だと言って笑ってくれたものだ。君の指は何もない場所に始まりの場所を描くことのできる、素晴らしいものだと。私はそれにろくな返事をできた覚えがないけれど、いつだってそれだけで、明日もここで海を描こうと思えたのだ。ただ、大切だった。私にとって尊いのは、ただそこにいてくれたあなた、それだけだった。
 愛しい、会いたい、逢いたい、あいたい。押し寄せ出した感情に、私はそっと蓋をする。幼い恋であった。追ってはならない、幻想のような素晴らしい出会いと短い時間であった。

 顔を上げて一歩踏み込み、手にした小さな海をできるだけ遠くへ投げ飛ばす。くるくると旋回したそれはやがて波に落ちて、数度揺られた後に、どこにも見えなくなった。代わりにきっと、見てくれているのだろう。すべてのものが生まれ、そして還る、この広い始まりの場所のどこかで、あなたが。

ハロー、ハロー、お元気ですか。私は今年も変わらず、元気です。あなたも変わらず、優しいままでしょうか。私の中のあなたの、そのままでしょうか。今年もあなたに、私の唯一描ける手紙を送ります。大切にしていてください。いつか私が会いにゆく、長くて短いその日まで、どうか。

「―――」
唇だけを動かして、宛先を風にのせる。ざあ、と海が鳴いたのを確認して、私は踵を返した。夏を目の前にして逸るような、太陽の眩しい日であった。
ああ、また一年、あなたのいない私が巡ってゆく。

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