文学少年夢日和(♭)
戀をしましたと云うからにはこの眼で見やるものは何か変わるのかと思ってずっと疑わなかったのだが、どうやらそれは間違いらしい。♯と♭に分類されて五線譜にぶら下がる僕の日常はふらふら、ほんの僅かに波風は立ちながらも、今日も変わらずパステルカラアに彩られて平和である。遠くの川辺を自転車が忙しく走っている。車輪が数回くるりと回って、やがてその姿は見えなくなった。ぼう、と鳴いた船の汽笛を僕は聴いている。
「……」
不意に止んだ風につられて止めた足をまた動かし、水気を含んだ空気が降りる朝の河川敷を目指して歩いた。水溜まりには柔らかそうなぬかるんだ空がよく似合う。あゝ云えば嗚呼、次々と目の前に連なる見慣れた風景は言い訳のように澄まして並び、こう云えば候。涼やかに通った風が、髪を崩して耳に触れた。鼓膜には呼吸とよく似た音が残る。それに混じって靴音が聴こえる。僕は目を閉じる。
戀をしましたと云うからにはこの眼で見やるものは鮮やかに艶やかに、何もかも変わるのかと信じて疑わなかったのだが、そういうわけでもないらしい。幾つの本で学んだって本当の感情は眼に見えるものではないのだよ、と当たり前のことを思い知る。僕は存外無知だったようだ。
「お早う」
靴音がぴたりと止まる。風が舞っている。僕は目を開ける。
「お早う、今日も良い天気だね」
パステルカラアが視界を染め上げる、その中心に君を置いてみる。声は半音上がる。僕は五線譜に腰を下ろした。
見慣れた君を中心に、あゝ云えば嗚呼、今日も世界は平和にくるりくるくると彩られて騒ぐのだ。あゝ戀とはなんと鬱陶しく柔らかなものでしょうか。喝采。