瞼に花を(♯)

 きっと盲目とは君でなくて、僕のためにある言葉なのだ。見えない、見えない。

「泣いているの?」
 細い指先がつう、と頬をなぞっていった。遠浅の海を溶いたような澄んだエメラルドの眸が、心配そうにこちらを見ている。
「……そんなわけは、ないよ」
ああ、何をしに来たところだったっけ。ふいに思考の深みから掬い上げられた頭は、ゆるゆると数秒、あるいは数十秒前のことを思い出そうと僕の中を手探り、手探り。二つのエメラルドの中にいる僕が、ぱたり、と閉じ込められてまた現れた。それをじっと見つめて、ああそうだった、とようやく思い出す。
「大丈夫?何かぼうっとしているわ」
「気のせいだよ、少し寝不足なだけ。それより、見て」
「?」
「今日は君に贈りたいものがあるんだ」
話題を戻すように、僕はいつも通りの笑顔を浮かべてみせた。首を傾げた彼女の、白いレースの隙間からこぼれ出ている小さな手を引いて、広げさせる。先刻頬に触れたのと同じ、少し冷たい指先はとくり、流れる水のようだと思う。不思議なくらいに心を満たすその体温が、僕は好きだ。ポケットに潜ませたそれを取り出してのせれば、彼女はまた数回、目を瞬かせた。
「これ、何?」
「月夜石のネックレスだよ。君に似合うと思って」
「私がもらっていいの?」
「当たり前じゃないか。僕には必要ない」
「どうして?」
「僕より君につけたほうが、似合うからね」
だから、と。添えていた手を離せば、彼女は自由になった手を傾けてみたり、揺らしてみたり、そのネックレスをまじまじと眺めた。天窓から降り注ぐ日差しに、銀の鎖と深いブルーの石が柔らかな光を放つ。それを見て、エメラルドは嬉しそうに細められた。
「……綺麗」
「気に入った?」
「もちろん。ありがとう」
「どういたしまして。……貸して、つけてあげるよ」
細い鎖を首にかけて、クリーム色の造花を所々に編み込んだ、長い髪をそっと避ける。ちゃり、と石の揺れる音が心地好く耳に届いた。
「ありがとう、大切にするわ」
鎖骨に触れる冷たさを指でなぞりながら、彼女はもう一度礼を言った。思った通りだ、よく似合っている。口にすればはにかむように俯く、その頬にかかった髪を一束耳へかけながら、僕は訊いた。
「今日は何かあった?」
「ええ。一昨日、絵本をくれたでしょう?あれを読んだの」
「そっか。どう?」
「とても好きよ。途中はどうなることかと思ったけれど、最後は幸せになれるのね。安心した」
「そう、それは良かった」
「ねえ、貴方は?」
「え?」
「貴方は何をしていたの?」
お伽噺の結末を喜んだのと同じ、澄んだ声がそう訊いた。首を傾げた彼女の、真っ直ぐに向けられた眼差しからそれとなく目を逸らす。
「……絵を描いてきたところだよ。綺麗な泉の絵だ」
「見てみたいわ」
「うん、完成したら君にも見せてあげるからね」
「本当に?」
「もちろん」
「忘れないでね?」
「……当たり前だよ、忘れたりしない」
「約束よ」
「うん、いいよ。……珍しいね、君がそんな風に言うなんて」
「ええ、だって」
目を逸らした僕を尚も見つめて、彼女は言った。
「貴方の絵と、貴方の話してくれる外のお話は、私の一番好きな絵本だもの」
きん、と、胸の奥がわずかに痛む。幸せな歌でも囁くように微笑んで言われたその言葉は、僕にはとても大きく優しくて、だからこそ。
「……ありがとう」
だからこそ、息ができなくなるかと、思った。
「ねえ、今日はどんなお話をしてくれるの?貴方の創ってくれる物語って、私大好きよ。海が本当にあったら、きっと綺麗でしょうね。お水はコップで何杯くらい汲めるのかしら。あの空が本当に広かったとしたら、素敵なことよ。貴方と一緒に、端っこを探しに行きたいわ」
「……うん」
「それから、もしも私達以外に人がいたなら。声を聞いて、手を繋いで、色んな話をしてみたいわね。貴方がいつも聞かせてくれるお話の世界が、本当にあったらいいのに……どうしたの?」
痛い、痛い。縋るように手を伸ばして、笑いながら語る彼女を抱き締めた。ぴたりと止んだ言葉の雨に、そっと力が抜けていく。
「……ごめんね」
「え?」
「何でもないよ、ねえ」
「?」
「君にとって僕は、どんな風に見える?」
指先に力を込めたら、そっと背中に腕が回された。暖かい、その温度にこのまま消されてしまいたいのだ。僕は。けれどそんなことを知りもしない彼女は、いつも通りの声で、言った。

「とても綺麗に見えるわ。貴方はそう、世界みたいなの」

きっと盲目とは君でなくて、僕のためにある言葉なのだ。見えない、見えない。もう何もかも。目を閉じれば、今でも鮮明に思い出せる。瓦礫の海で君を拾い上げた、あの時のこと。

―――フィーア!無事だったんだね、大丈夫かい?
―――貴方は、誰?
―――え?……僕はルートだよ。この町の絵描きの……ルートだ。
―――絵描き……ルート?それってなあに?……町って、なあに?
―――……分からないのかい?嵐が来たのは覚えている?
―――……?
―――……君、名前は。家は?
―――それは……何?
―――……いや、分からないなら無理に考えなくていい。きっと、思い出しても辛くなるからね。
―――?
―――……僕と一緒においで。何も考えなくていい。大丈夫、こんな世界はみんな、お話なんだよ。
―――……貴方も?
―――いや、僕はお話じゃない。ちゃんと此処にいる。……君と同じだ。
―――うん。

思い出せる、思い出せる。あの日から僕は、決めたのだ。
優しかったフィーア。いつだって僕の未熟な絵に、拍手をくれたフィーア。僕と同じ、瓦礫の海にすべてを落とした君に、泣いてほしくなくて。そうして決めたのだ。僕が、君の世界になろう。
君の見る世界をすべて美しいもので埋めてあげたくて、それだけだった。君が悲しい現実を思い出すことのないように。世界はすべて、僕らだけが知るお伽噺なのだ。あの海だって空だって瓦礫だって土だって、みんなみんな。みんな、僕が創ったお伽噺に過ぎない。物語は最後には幸せになれると決まっていて、けれどそこに辿り着くまでに波風は付き物だろう。みんなみんな、お伽噺の途中に過ぎないのだ。だから泣くことなんてない。君も、僕も。

「ねえ、フィーア」
「?」
「……世界をあげられない僕で、ごめんね。いつか君にも、ちゃんとたくさんのものを見せてあげるよ。だから、さ」
「うん」
 その時は僕のことも、思い出してね。そうしてできれば、今の僕を、嫌いにならないで。口に出かかったそんな言葉を、今日も飲み込んだ。僕は臆病だ。そして、最低だ。
君に辛い記憶を持たせたくない。それを逃げ道にして、君を何もかもから遠ざけて、此処に閉じ込めた。この小さな家の、四角い部屋の中。

「……泣いているの?」
エメラルドの中に、僕がゆらゆら、揺れている。
「そんなわけはないよ、だって」
「?」
「……泣いていいのは、僕なんかじゃないんだ」
頬を拭った指で、彼女の両目をそっと覆う。君の見る世界をすべて、美しいもので埋めてあげたい。僕の願いが、本当にそれだけだったら良かったのに。

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