一目惚れをした。
人間はこんなにも容易く恋に落ちるのかと思った。女神様の様な柔らかな物腰と、微笑みと、立ち振る舞いが、この世の人間のように思えなくて。そんな方と話をしている自分が信じられなくて、いつもふわふわふわふわ、緊張と夢心地の中にいた。





「ねぇ先生、最近よくお姉ちゃんここに来るでしょ」


久しぶりに医院に顔を出したあかねちゃんが、お茶をすすりながらそう言った。僕はずれ落ちた眼鏡を掛け直すフリをして、頬が赤らんだのを隠す。ひとつ咳払いをすると、自分の湯のみにお茶を注ぐ。その湯気がまた、眼鏡を曇らせた。


「かすみさんは、昔からよく来るよ。最近は…そうだね。可愛い妹と義弟が家を出たから寂しいんじゃないかなあ?」


ふーん、と彼女は口を尖らせ意地悪そうに笑った。昔は『先生、先生』と慕ってくれた可愛い妹分だったが、知らない内に随分大人びた顔をするようになったなあと感慨深く思った。

あかねちゃんと向かい合うように、僕は診察室の椅子に腰掛けて、熱いお茶をすすった。

それよりどう?最近は?乱馬くんは元気にしてる?仲良くやってるの?
僕は彼女に対抗するように、心配するように、探るように質問攻めにした。


「もう!私と乱馬のことはいーんです!先生のことを聞いてるの!」

「ぼ、僕は別に何もないし、」

「かすみお姉ちゃん、自分も早く結婚したいってこの前言ってましたよ?」

「ははは、そっかあ……」


結婚かあ。もうそんなことを考える年なのかあ。なんて、湯気が立ち上る湯呑みを机の上に置こうとして、思考回路が停止した。自分でも解るくらい瞬きを何度もして、ふとあかねちゃんの顔を見た。少し困ったような顔に見えた。

結婚?結婚てなんだろう?結婚ってなんだったろうか?あれ?男女が一生一緒にいますよって誓うやつ?誰が?結婚?誰と?かすみさん?結婚?なんだっけ?結婚?

ーーーーーーー結婚!?

がっしゃーん!と音を出して床に落ちた、なんとも無様に割れた湯のみから溢れたお茶が床に広がった。でもそんなこと頭に入らないくらい、鈍器で殴られたかのような衝撃が脳みそを揺さぶって周りの風景が歪んだ。


「ーーー生、東風先生!大丈夫!?」

「かっ、かすみさん結婚…結婚するの?どこぞの国の王子か誰か、と?」


あああああ。長かった僕の初恋も終わるのかああ。そりゃそうだよなあ。引く手数多だよなあ。そりゃ僕と彼女じゃ釣り合わないし、高嶺の花なのは百も承知だったけれど、それでもどこか届くような気がして淡い期待をしてたのは確かで。

口から魂が出そうだった。もう出ていてもおかしくないんじゃないかと思うくらい頭の中は真っ白だった。

慌ただしく割れた湯呑みを片す彼女が、何か叫んでる。でもそんなのも右から左に抜けて行く。

ぱちん!

音がして、はっ!としたら、目の前に怒ったような顔をしたあかねちゃんの姿があって、両手で頬を軽く叩かれたのがわかった。どうやら、僕は現実世界に引き戻されたようだった。


「しっかりしてよ、先生!かすみお姉ちゃんが結婚したいと思ってるのは東風先生、貴方です!」

「………へ?」

「もー!お姉ちゃんも天然だけど、東風先生の鈍さにも呆れるわ!ほぼ毎日通い妻のように此処に来てるでしょ?ご飯とか、お菓子とか持ってきて!」


え、確かにそれはそうだけど。かすみさんは本が好きで、話すのが好きで面倒見がいいから、こんな僕のお世話も嫌な顔ひとつせずしてくれてる訳で。

決して僕のことを好きだとか、結婚したいとか、そんなことは一切無い訳で。そんな言葉本人の口から一切聞いたことも無い訳で。つまりそこまでいったら僕の妄想の領域になるだろう。あかねちゃんの願望の領域に入るだろう。結果やはりそれは、かすみさんの人間性ではなくて?


「かすみさんが僕と結婚ーーー……」

「あかねーえ!!」


見知った誰かの大きな声に自分の言葉はかき消された。乱暴にドアを開ける音と、慌ただしい足音と久し振りの声に僕は目をぱちくりさせた。

バン、と勢い良く開けられた扉の先には、少し見ない間に逞しく凛々しくなった乱馬くんの姿があった。


「や、やあ乱馬く、」

「実家にいねーと思ったら此処か!何処に行くかくらい言っていけよ心配したんだぞ!」


久し振りだね、と挨拶さえ言わせてくれない彼の目には僕は入ってはいないようだった。まくし立てるような怒号を、あかねちゃんは慣れたように受け流し耳を塞いで悪戯っ子の顔をした。


「みんなお前のこと心配して探し回ってんだぞ!少しは体のこと考えろ!」

「……だって久々に東風先生の顔が見たくなったんだもん」


頬を膨らませて不貞腐れたようなあかねちゃんと、息を荒げて叱るような乱馬くんを宥めるように、まあまあと言葉をかけた。しかし遂には“あんたがお前が”と言い争いになってきて、僕は宥めるのをやめた。
その光景が、何故か異様に懐かしくて微笑ましくて、不謹慎にも口が綻んでしまった。それに夫婦喧嘩は犬も食わないってね。


「ーーーーごめんください。あかねちゃん、来てはいませんか?」


直後に開いたドアの音。その柔らかな声を聞いた途端、僕の血の気が足元から頭の先まで巡ったのは言うまでもない。だってそれは焦がれて止まない女神の声だったのだから。

あ、かすみ姉ちゃんだ、と2人の喧嘩が止まるのだけは分かった。でも僕は自分で自分の声が裏返ってるのには気づかない。声が出てるのか出てないのかも、よくわからない。心臓の音だけが鼓膜に響くだけで。


「あら、やっぱり此処にいたのね。駄目じゃない、先生にご迷惑かけちゃ」

「かっかすみさん!いいいいや!!!ご迷惑だなんていいんですよとんでもない!ね、あかねちゃん」

「……先生、俺あかねじゃないけど」


まあ、先生は本当に面白い方ですね。
女神が僕に向かって笑った。これ以上光栄なことはないと、僕も合わせるように笑った。五月蝿いぞ、心臓。

流石に観念したように、あかねちゃんが渋々と帰り支度を始める。なんだかんだ言いつつも気遣うように、乱馬くんが彼女の手を取りストールを肩へと掛けてやる。大丈夫よ、と照れ臭そうに笑うあかねちゃん。僕はそれに違和感を覚えて首を傾げた。


「……あかねちゃん、もしかして」

「ああ、うん。そうなんです、先生。
今日の目的は報告に来たんです」

「まさか」

「そのまさか。今3ヶ月目に入って、今年の秋には生まれる予定なの」


まだ、性別もわからないんだけどね。
自らの下腹部を愛おしそうに撫でた彼女の顔は既に母の顔になっていて。横に居た乱馬くんは、あかねちゃんの肩を抱いてほんの少しだけ顔を赤らめて笑った。

結婚してからもその前からも、沢山色々あったけど。沢山泣いたし、沢山怒ったし、それ以上に沢山幸せなこともあったけど。

彼女はお下げの青年の顔を見てから、薄く微笑んで言った。



「ーーーー多分、今が一番幸せ」





ーーーーー………***





外はすっかり暗くなっていた。
電柱の灯りの周りに虫が集まって、遠くからケラの声が聞こえた。もう春だなあと四季を感じると同時に、自分も歳をとったなあとしみじみ思った。


「じゃあ先生、今日はありがとうございました。また、遊びにきます」

「うん、またおいで」


気をつけてね。振り向いて頭を軽く下げた3人に、僕はひらひらと手を振った。幸せそうな2人を見つめ、僕と同じような優しい目を向けているかすみさんの姿があった。
何故だかわからないけど、少しだけ胸が痛くなった。それと同時に綺麗な栗色の髪が、少し暖かくなってきた風に揺れて胸が高鳴る。

そんな僕の浅ましい邪心に気付いてか否か、女神のようなかすみさんがまた僕の方へと振り向いて、ふわりと笑った。それが僕の胸の高鳴りを最高潮にした。

春の匂いが強い風に煽られて吹き抜けていった。それが、僕の背中を押してくれてるように思えて。今日の全ての出来事が、僕の気持ちを後押ししてくれてるように思えて。



「ーーー……っ、かすみさん!」



神様仏様、僕のような人間が、女神のような彼女に触れることは罪ですか。
横で微笑んでもらうのは罰へと値しますか。もしそうならば、この人生が終わったら喜んで地獄へ落ちましょう。


だから、まだ今は。


「僕とーーーー……!!」





一目惚れをした。
それはもうずっとずっと昔のこと。
それからずっと、今日の今日のまでいつもふわふわ夢心地の中にいた。

そしてこれから先も、夢か現実か解らなくなる程の。眩暈を覚えるような感覚に溺れていくんだろう。

女神のような、そんな貴女の横でなら、そんな現実離れした感覚を一生味わうのも悪くない。

願わくば、ずっと側で。


END.
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