「すごく綺麗だ。」


机の上に飾られた写真立てを見て、俺は柄にもなくそんな言葉を呟いた。

写真たての中には、凛と華やかな真っ白なドレスを纏って優しく笑う彼女の姿があって、隣にはタキシードの似合う男が彼女の肩を抱いて如何にも幸せそうな顔で笑ってる。誰がどう見ても、幸福で理想の夫婦のようだった。


「ああ、それ?恥ずかしいからやめてって言ってるのに、どうしても聞いてくれなくて」


コポコポ、コーヒーメーカーが鳴く。穏やかな時間だけが流れ、俺は写真の彼女に魅入った。大人な顔をしてる彼女に。

綺麗だ。何度言っても足りないくらい綺麗だ。例え俺が何度言ったところで、彼女は笑って受け流して照れてもくれないだろうけど。


「あかりちゃんは元気?」

「え?あっ、はい。あかねさんに会いたいって何時も言ってますよ」


嬉しいわ。今度2人で遊びに来て。
コーヒーのいい匂いが部屋に広がって、その心地よさに酔いしれながら、俺は曖昧に返事をした。

良牙くん、と柔らかな声が聞こえて吸い寄せられるように声の方へ顔を向ける。そこに居る長い髪を結って、エプロンをかけたあかねさんを、まるで自分の奥さんみたいだと錯覚しそうになって我に返る。

まだ俺はこんな浅ましい想いを持っていたのかと、自嘲した。でもそう思わざる得ない程あかねさんは綺麗になっていた。


「コーヒー、ブラックでいい?」

「ああ、もう、お構いなく」

「もうすぐアップルパイも焼けるのよ、待っててね」


あかねさんが笑う。俺は、ギクリとする。いい意味でも悪い意味でも心臓がドキマギするのがよくわかった。嬉しいような苦しいような。天国なようで地獄をみそうな、そんな感じ。

俺の気持ちに相反して、鼻を掠める甘いアップルパイの匂いに、覚悟を決めてテーブルに腰を下ろした。

いい匂いですね、と精一杯の笑顔を振りまいてコーヒーを啜った。なんて苦いコーヒーだろう。昔はブラックなんて飲めなかったのに、俺も大人になったんだなあと思いを馳せる。剰え、あかねさんの伸びた綺麗な髪が、時の流れを感じさせた。


「そういえば、あかねさん、高校生の時ジュリエットやりましたよね。」


ふと思い出したかのように呟くと、彼女の体がびくりと震えた。

あれ、俺めちゃくちゃ見たかったのに。凄く評判でしたよね。きっと綺麗だったんだろうなあ、あかねさんのジュリエット。どれだけ急いでも、俺の方向音痴さは天下一品なもんで、やっぱり観れなかったけど。わかってたけど、悔しいですね、勿論今でも。

キッチンに立つ彼女の顔を見ず、俺は口元だけ苦笑とも何とも言えない表情を浮かべた。あかねさんは、此方に振り向きもしなかったけど、でも耳だけ傾けてるのだけはなんとなくわかった。自分でも、なんで今更こんなことを、と後悔してももう遅かった。


「そうだ、あの時のロミオ役はーーー」


チン!

電子レンジの音が響いて、俺はハッと口を噤んだ。あかねさんは何もなかったかのように、ミトンを手に付け、レンジから湯気の上がるアップルパイを取り出して、手際良く包丁で切り分けた。

可愛らしい白いお皿に盛り付けられたアップルパイは、見た目こそ綺麗でとても美味しそうで、騙されてしまいそうだった。


「どうぞ、良牙くん。食べて?」


ゴクリと唾を飲み込んで、あかねさんを恐る恐る見る。そこには優しく微笑む天使の様な笑顔があったものだから、俺は無言でアップルパイにフォークで切り込みを入れた。大丈夫、今だけ騙されてあげれば、後はもう如何なったって構うもんか。

アップルパイを口に運ぶ。運んだのはいいが、口に入れるすんでで止まる。やはり怖くてしょうがない。でもそこにある笑顔を絶やす訳にもいかなかったので、半ば無理矢理口へと放り込んだ。大丈夫、今だけ頑張れる。

ーーーーーかと思ったら、拍子抜けする程美味しかったのを覚えてる。いや、下手に買うよりよっぽど美味い。


「す、凄く、本当に凄く美味しい…です」


飲み込んでみて、不意に途轍もない寂寥感に襲われた。俺の知らないところで、髪が伸びたあかねさん。俺の知らないところで、料理が上手くなったあかねさん。俺の知らないところで、全く知らないような人間になったあかねさん。

ほんの少し離れていただけで、こんなにも知らないコトが増えていく。俺はもう、あかねさんが何故髪を伸ばしているのか、どうして料理が上手くなったのか、何時からそんな大人な顔で笑うようになったのか、

いつ何処で誰と結ばれたかすらも
ーーーーーーもう、知らなかった。

『久しぶりね、良牙くん。今回はどこに行ってたの?』

いつもお土産ありがとう、そう言って笑うあの時のあかねさんはもう居なかった。ショートヘアーで、淡い青の制服を纏ったあどけない表情のあかねさんはあの時にしか存在しなかった。そんなのもうわかってた筈なのに。時間だけが進んでいって、気持ちだけがついて行かなくって、想像していた未来とはあまりにかけ離れていて。

何が何だかよくわからなくて、苦しいのか悲しいのか寂しいのかすらこんがらがって、でも取り敢えず胸だけは尋常じゃない程痛くて、無意識の内にボロボロと情けなるくらいの涙が溢れた。


「っ、どうしたの良牙くん…」


あかねさんが驚いて、目を丸くして狼狽してるのがわかったけれど、俺の涙は止まらなかった。昔好きだった女の前で、大の男が大粒の涙を流して、かっこ悪いったらありゃしない。そうは言っても、どう抑えてても、涙は止まってはくれなくて。

拭えど拭えど、気持ちとは裏腹に鼻水さえ出てくる始末で、涙と一緒に長年溜めてた全ての事を洗いざらいぶち撒けた。


「…っ…好きでした、貴女のこと」


あかねさんは優しいから、そんな俺の女々しい告白に少し驚きながらも綺麗なハンカチを手渡して静かに聴いていてくれた。

ずっと好きだったんです、あの頃のあかねさんが。ずっとずっと言えなかったけど、心底惚れてたんです。気づかなかったでしょ。それでもずっと言えなかったのは、俺がどうしようもないビビリでチキンで意気地なしだったからと、俺が居なくても“アイツ”が居て、それで君がとても幸せそうだったから。もうそれでいいと思ってたから。

だからーーーーーー


「俺っ、あかねさんは…っ…乱馬と、結婚するんだ、と思ってました」


俺の望んだ未来では、あかねさんがずっと幸せである事だった。そしてその隣に居るのは大嫌いなアイツであることだった。俺の気持ちは永遠に伝える事はもう無くて、でもたまにでいいからあかねさんと乱馬と会って、やっぱりアイツとは喧嘩して殴り合って、あとで2人してあかねさんに叱られるんだ。

その内子供が出来て、俺がその子を抱きしめて、2人の幸せそうな顔を見て、ちょっと距離は離れるかも知れないけれど、遠くからでも見守っていけたら最高だって思ってた。でももう、叶わないけれど。


「それなのにーーーーー……」

「ーーーーー良牙くん、あたしもね、本当はそう思ってた。」


アイツと結婚するんだと思ってた。この人しかいないって、あの頃は心からそう思ってた。

ありがとう、貴方の気持ちが凄く嬉しい。あたしの為に泣いてくれてありがとう。でも、これで良かったの。今のあたしは充分幸せ。

本当に良かったのよ、と念を押すようにあかねさんが目を赤くして言った。泣いてはいなかったけれど、まるで彼女自身にひたすらそう言い聞かせているようで、心苦しかった。

そう言って笑うあかねさんが綺麗だったのを、俺は忘れないだろう。

『あたしも良牙くん、大好きよ』

あかねさんの精一杯の優しさが胸に刺さって、俺は情けない自分の涙を無理矢理引っ込めた。気づけば服の袖口が涙でビショビショになっていた。


ーーーーー………***



「ご馳走さまでした。」

「こちらこそ、今日はありがとう」


気付けば空はすっかり茜色に染まってて、遠くでカラスが鳴いていた。俺の腫れぼったい赤い目を見て、あかねさんが冷たいタオルを手渡しながら少し笑った。俺もつられて同じように笑った。

玄関の扉の前であかねさんが、今日は会えて良かったと、どこかスッキリした表情で俺に言った。俺も、綺麗になったあかねさんに会えて得した気分です、と言うと、肩を叩かれ『お世辞が上手くなったわね』と笑ってくれた。夕陽に照らされた彼女の顔が、照れてるのかそうでないのかわからないけどとても綺麗だった。


「じゃあ」

「うん」


玄関の扉に手をかける。ギィ、としなる音がして足を踏み出す。俺が此処へ来ることは、もう無いのかもしれない。本気でそう思った。


「良牙くんっ!」


今日一番の切羽詰まったあかねさんの声が俺を呼び止めて、思わず踏み出そうとした足を引っ込めて、ゆっくり振り向いた。

そこにはバツの悪そうな心配そうな表情を浮かべたあかねさんがいて、俺が逆に不安になった。どうしました、そう聞く間も与えられずに、先に口を開いたあかねさんが問う。


「ーーーーー乱馬は元気?」


どくん、と胸が苦しさに波打った。


「ーーーーー…っ…」


そしてまた涙腺が緩んで、目を逸らした。嫌なもんだ。歳を取ると、涙腺が緩む。
目に付いたアスファルトの地面が涙で歪んで、俺はそれを零さないように堪えた。

俺が泣いてどうする。誰が一番泣きたいか、わかっているじゃないか。

ぐっと堪えて、夕焼け空に顔を向けて、深呼吸をひとつした。そして、ありったけの笑顔を向けて、俺はあかねさんに笑うんだ。


「元気ですよ!そりゃもううざったいくらい、五月蝿くてしょーがないです」


彼女は一度目を強かせて、また穏やかに笑った。良かった、と笑った。

もう一度またねと言って、俺はあかねさんの家を出た。少し遅れて、玄関を締める音がした。そのタイミングで、俺は再び一人でわんわん泣いてしまった。

締められた扉の向こうで、きっとあかねさんも泣いてるんだろう。俺と同じく、子供のように大きな声をあげて、あの頬に涙の跡を作るのだろうか。

今になって、もう一度あの頃の醜い忌々しい豚に戻ってもいいと思った。そうしてくれ、と神様に祈った。そしたら彼女の胸に飛び込んで、話を聞いて、慰めて、泣き疲れたその腕の中で眠りにつくんだ。朝になったら、優しいキスで目を覚ます。なんて幸せ。

そんな虚しい夢物語を想像しては、悔しくって泣けてくる。俺のジュリエットは間違いなくあかねさんだったけど、あかねさんのロミオは今でも乱馬、お前だけだよ。

もうそれでいいよ。それがいい。

今日の鮮やかな空程、疎ましく思ったことはない。今日が雨だったなら、おれはこんなに泣かなくて済んだかも。川が光りを反射して、キラキラ光る。心底綺麗で、胸をうった。遠くで誰かの楽しそうな声が聞こえて、こんな日であれ、世界は普段と変わらないんだと実感してはまた泣いた。


もう二度と会うことのない、今日という日にさよなら、と言って。



END.
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