お酒を呑める歳になった。車の運転だって出来る歳になった。結婚出来る歳にだってとっくになったんだ。
薄曇りの暗くなった空を見て、ああ、なんて雲がゆったり流れていくんだろうって思った。
狭いマンションのベランダから、更に窮屈そうな狭い空を見上げた。星も見えない暗い空に、雲の影だけが流れていくのがわかる。もうすぐ雨が降るのかと、そんなことニュースで言ってたなとぼんやり考えた。
「なあ、タオルどこー?」
私より3つ年上の彼氏が、部屋の中を忙しなく動きまわる。えー、あそこらへんに置いてあるでしょうと生返事をすると、ドタドタという足音は消えて冷蔵庫の開閉音と缶ビールを開ける間抜けな音がした。
「ほら、」
「ん?あら、ありがとう」
ビールは嫌いなのに、彼の気遣いを無下に出来なくて、私も手渡された缶ビールを開けた。一口だけ手をつけて、ああやっぱり美味しくないやって思ったけど、一缶まるまる空けてしまった。
いつからこんな風に呑めるようになったんだっけ。月日が経つのは早いなあなんて、とんでもなくドデカい虚無感が不意に私を襲った。
「そういや乱馬、結婚するんだってなあ」
私の横に並んだ彼氏が、ベランダの手すりに肘をかけて、一本の煙草に火をつけた。カチッと鳴るライターの音と共に立ち込めた白い煙が黒い夜空に消えていった。
「ああ…、うん、そうみたいね」
「そーゆーのってさあどうなの?元彼が結婚するってやっぱ元カノの立場からしたら傷つくわけ?」
胸にチクリと鈍い痛みが走る。少し鼓動が早くなるのを自分で感じたけれど、悟られぬよう私はポーカーフェイスを決めて、まさか、と言った。
大人になるに連れて、いい事と悪い事の分別がついた。責任感だって増えた。新しいことも沢山知った。世界が広がったといえば、そうかもしれないけれど、私にとっては世界がどんどん窮屈になっていくようだった。
「元カノとか元彼とか、そんなんじゃないの。お互い好きで付き合ってたとか、そんなんじゃなくてただ親が決めた許嫁だっただけで、それ以上でもそれ以下でもないの。それにもう高校生の時の話よ?」
自分で言って、自分で傷ついてるのに気づいたけど、止まらなかった。
ふーん、と興味もなさそうに煙草をふかす彼氏に私もさほど興味は無かった。
大人になってからの恋愛の方が、子供の時よりずっとずっと難しい。純粋に素直に好きだって思えたあの頃より、私はずっとずっと大人になったけど世間体とか変なプライドとか、そんなつまらないものに雁字搦めになって、抜け出せなくなってしまった。
昔の思い出なんて、美化されるものなのはわかってる。だから私の中での乱馬は綺麗なままなんだ。自分だけが薄汚れていく気がしてならないのはきっとそのせい。
「なあ、」
彼の髪から滴り落ちる水滴が、地面に色をつける。私が彼に顔を向けると、彼は吸い終えたタバコを空になったビールのカンに投げ入れた。
「…結婚しねえ?」
こっちに目線もくれない彼が、肩にかけたタオルを自分の口元に当てながら言った。やっぱり夜は少し肌寒い。テレビの騒がしい音だけが、やけに大きく聞こえて。
「…散々意地悪なこと言っといて、あれなんだけど。いつ言おうか、ずっと迷ってて。多分、つーか絶対乱馬より幸せにする。忘れられないってんなら、忘れるまでずっと待つから」
その時、私は初めて普段見ることのない彼の赤らめた顔をみた。私、乱馬のこと好きだなんて口に出したことなんか無いのに。忘れられないなんて言葉にしたこともないのに。結婚したいなんて、変な人。どこを見てるのか、私の顔は絶対見ないで遠くを見ながらそんなことを言ってて。ああ、この人こんな風に照れたりするんだ、となんだか可愛らしく思えて口元が少し緩んだ。
ふふ、と笑うと少し目頭が熱くなった。不機嫌そうな顔をしながら彼は、笑うなと私の頬を軽くつねる。
「ねえ、あたひの事ふきなの?」
「…お前と俺自身が思ってる以上に」
「んーでもあたし煙草吸う人嫌い」
「〜〜ーー…やめるよ、それなら」
生憎、そろそろ雨が降り出しそうな雲行きになってきて、湿った風が鼻を掠める。私が想像してたプロポーズは、もっと夜景の綺麗なところで、ロマンチックに言われるものだと思ってたけど、なんてムードも何もないプロポーズだろう。せめて星くらい瞬いてくれてもいいのに、神様。
彼の手から解放された頬が、やけに熱を帯びていて、今度は打って変わって真剣な顔をした彼が私の目を真っ直ぐ捕らえた。胸が高鳴りがわかると同時に、自分でも驚くくらいすんなり出た言葉。
「…こんな私でよければ、喜んで」
その瞬間、私は彼の腕の中に包まれた。痛いくらいの抱擁と、彼の緊張と、小さく呟かれたありがとうの言葉に感極まって涙が溢れた。
高校生の頃、夢見た未来は今とは違う未来だった。私の横にいるのも、この言葉を聞くのも、あの頃の私の中には唯一無二のおさげのあいつ。それはもう、叶いはしないけれど。
もうあれ以上胸を焦がすような恋も、想いが溢れて苦しくて涙した夜も、もう過ごすことはないのかもしれない。私と乱馬の道はきっとこれから先、ぶつからない事だろう。
でももう、それでもいいと思えた。
ーーーーーーねえ、乱馬。
本当にあなただけが好きだった。沢山の感情も経験も全部、あなたが私に教えてくれたものだった。与えてくれたものだった。
もし、また会うことがあったならば、
あの頃の話をしよう。とびきりの感謝を込めて。
END.
なんかもう色々突っ込みどころが満載w