【happiness】

 学校という集団生活を強いられる場において、そこには様々な情報や噂といったものが数多に存在する。情報と噂は確証があるかないかの違いくらいにしか過ぎないが、場合によっては噂も情報へと変化することもよくあることだ。
 そして、例に漏れず日頃より情報と噂の流れるこの来神高校で最近よく耳にする噂がある。

 『来神高校の折原臨也はヤクザと関係を持っている』

 この噂を口にする者は面白半分であったり、本気でその噂を信じて更に噂を知らぬ人へ口走ったり、興味なさげに口にしたりと人の反応にはいくつかのパターンがある。ネタにする者もいれば臨也がヤクザの人間と一緒にいるところを見た
と証拠もなしに話す者だっている。
 様々な反応を見せる生徒の中でも、その噂を気に留める者がいた。それは噂の大元となっている臨也ではなく――臨也と犬猿の仲と言われている相手、平和島静雄だ。
 静雄も学校生活を過ごす中で臨也がヤクザの人間と関係を持っているという噂は何度も耳にした。しかしそれはあくまでも人づてに耳にしたものであって、静雄自信が臨也がヤクザの人間と一緒にいる現場を目撃したわけでもない。つまり、その話に対して何も確証が持てないのだ。静雄もただの噂をそう簡単に信じ込むようなことはなかった。
 心の中ではわざわざ確証もない噂を気にすることなはい、と自分に言い聞かせているのだが、それでも静雄はどこか引っかかるものを感じながら生活を送っていた。臨也本人はというと噂が流れる以前となんら変わらない様子で生活を送っているのが現状であって、噂を否定することもなくかといって肯定することも彼はしなかった。ただ流れる噂がこれからどのように動いていくのか。噂の流れを観察し、またそれを楽しんでいるようにさえ見えた。人間好きな彼にとって正確には噂の流れよりも噂を流す人間の反応を楽しんでいるのだろう。

 終業のチャイムが鳴り、HRが終わると生徒たちはそれぞれ教室を出て行く。静雄も今日はこのまま真っ直ぐ帰宅しようと下駄箱に向かい、自分の傘を手に取る。今日は朝から雨が降っていた。
 校門を出て数分も歩くと静雄の辿る帰宅路は雨が降っていることもあってか徐々に人気が失せていく。歩いていくにつれ人気はなくなり、ついには自分以外の人間など見掛けなくなってしまい、静雄はなんだか自分だけが取り残されてしまった気分になる。

(雨ってのは昔から好きになれねぇんだよな……ん?)

 なんとも言えない感傷に浸っている静雄の視界に黒いなにかが映りこむ。自分の歩いているところから少し距離もあり、雨も降っていることからすぐにその黒いなにかの見分けがつかなかったが、歩を進めるうちに黒いそれははっきりと静雄の目に映り出された。


◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 いつもの帰路を辿っていると、見慣れた風景には釣り合いのない一台の見慣れない黒塗りの車が止まっていた。東京に住んでいれば高級車などしょっちゅうまでとは言わないか時々走っているのを目にする。だがそれは大通りでの話だ。こんな閑静な住宅街では滅多に見掛けることもない。たまたまこの近くに住むお偉いさんの車なのかも知れない。そう思いながらも俺は何故かその車に意識が移ってしまっていた。車の近くまで来ると俺は何気ない身振りでフロントガラスに視線を向け――俺は自分の目を疑った。

 俺が見たのは学ランを羽織り、艶のある黒髪にワインレッドの瞳。あの見慣れた男だった。車の横を通り過ぎるときも俺は車から視線を離すことが出来ず、横目で車に視線を向け続けていたが窓には外から車内が見れないように加工してあり、中はよく見れなかった。
 見慣れた車の中に見慣れた男……折原臨也がいることには確かに驚いた。しかし、なにより目を疑ったのは臨也の隣に座っていた白いスーツを纏った男が臨也の顎を掬うように掴み上げていたのだ。と、そこで俺の頭の中には一つの噂が横切る。あの折原臨也はヤクザとつるんでいるという噂。やはりあの噂は本当だったのか。そう自分の中で答えが出たのだが、俺は自分が憤りを感じていることに気付く。
 何故だ?何故、俺はこんなにも憤りを感じている?内側からぐつぐつと煮えたぎるような、そんな感情。
 ……わからない。あの根も葉も無い噂がただの噂ではなく、自分の目で見たことにより噂ではなく事実に変わってしまったからなのだろうか?

(――だとしても俺にはなにも関係ないだろうが)

 そうだ、俺にはあのノミ蟲が裏でなにをしてようが関係ねぇんだ。だから何も見なかったことにして、このまま家に帰って適当にテレビでも見て……。

「……なんて、やってる場合じゃねぇよなぁ」

 そう呟いている頃には、俺は踵を返し黒塗りの車へと足を向けていた。


◆ ◆ ◆ ◆ ◆


「では、今回の取引はここまでということで宜しいですか?」
「はい。構いませんよ」

 取引の報酬を貰い、それを財布の中に仕舞いながら静かな車内に響き渡る雨音に耳を傾ける。車体に打ち付ける雨粒はこの土砂降りに見合った余程大きいものなのか、一粒一粒が自分の存在を主張するように大きな音を立てていた。

「そうだ、ところで折原さん。少し与太話をさせていただいても?」
「どうぞ」
「ええ、話というのも貴方とあの平和島静雄のことについてなんですがね」
「……俺とシズちゃんのこと?」

 今さっきまで取引をしていた粟樟会の幹部である四木さんが珍しく取引以外の話
を切り出してきたと思えば、思ってもみない名前が出てきて俺も訝しげな表情になってしまった。
 どうしてシズちゃんの話なのだろう。しかも、俺のことまで交えてあるときたもんだ。

 ああ、なんだか嫌な予感がする。

「ええ。最近ちょっと気になることがありましてね」
「気になること、とは?」
「折原さん、貴方最近になって何か変わったことはありませんか」
「変わったこと……?」
「例えば、平和島静雄を見る目が変わったとか」

 ……は?なんだって?
 四木さんが言うにしても全く笑えない冗談だ。そもそも四木さんは冗談なんて言う柄じゃないだろうに。
 いや、しかしこれは俺にとっても不快……そう、不快だ。俺がシズちゃんを、あの平和島静雄に対して見る目が変わっただって?有り得ない。それだけは死んでも有り得る筈のないことだ。

 だって俺はシズちゃんと互いに憎み、殺し合う関係なのだから。

「ハハッ、四木さんも悪いご冗談を。それは有り得ませんよ」
「おや、そうですか……ここのところ、貴方と平和島静雄が一緒にいるところをよく見掛けるものでしてね。そのときの貴方は随分と楽しそうにしているから……私の思い過ごしならいいのですが」
「そうですよ、俺の平和島静雄を見る目が変わるなんてことは絶対に――」
「では、一度試してみましょうか」

 ありませんから、と完全な否定をする前に俺の顎は四木さんの手により掬い上げられる。
 一瞬なにが起きたのかわからず、俺は何度か大きく瞬きをするしかできなかった。

「抵抗するならどうぞ。抵抗するかしないか。それで貴方の答えは出ます」
「え、あの……四木さ……?」

 四木さんはそれ以上なにも答えようとせず、代わりに少しずつ少しずつ四木さんの顔が近付いてくる。
 俺が抵抗するかしないかで答えが出る?どういう意味?俺が抵抗することになんの意味が?
 ――まさか俺が抵抗することはつまり……いや、そんなまさか。そんなの有り得ない。有り得る筈がない。俺はシズちゃんとこれからもずっと互いを憎んで殺し合う関係なんだ。

 そう、これからも、ずっと――。

 俺は静かに瞼を下ろす。
 ああ、おかしな話だ。俺の中に今あるのは不快でも悲しみでも憤りでもない、『諦め』だなんて。
 認めたくない。認めたくなんかないんだ。俺が、折原臨也が、あいつを……

 ――ビシッ

「……っ?」

 突然耳に入った音に俺は閉じていた瞼を開く。一体いまの音はなんなのだろう。
そう、ちょうど……ガラスにヒビが入ったような、そんな音。
 俺がゆっくりと振り返ると、そこには――。


◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 ――ビシッ
 車の窓に片手をつき、そこにほんの少し力を加えると窓には呆気なくヒビが入った。
 自分でもなにをしているのだろう、とは思う。こんな見るからにして馬鹿高そうな車の窓にヒビ入れて、下手したら警察沙汰になりかねないようなことをして……こうしてまで、俺は中にいるこの世で最も嫌いな男をここから連れ出したいのか。

 俺も、つくづく馬鹿な男だ。

「よォ、臨也。ノミ蟲の分際で随分といい車に乗ってんじゃねぇか」
「シズちゃ……なんで……」

「知るか。俺にだってわかんねぇよ、自分が今してることなんざ」
 こちらに振り返った臨也は大きく目を見開かせながら俺を見つめる。赤い瞳は小
さく揺れ、今までに見たことのないくらい驚いた顔をしていた。なんだ、そういう顔だって出来るんじゃねぇか。

「とりあえず今は黙って車から降りろ」
「……なんで、君に指図されなきゃいけないのさ」
「いいから、言うこと聞け」
「嫌だ、って言ったら?」
「力ずくでも手前を車から引きずり降ろしてやるよ」

 ニヤリ、と口角を上げながらそう言うと臨也は一度浅く溜息を吐いてから「相変わらず武力行使で解決しようとするんだから」と半ば呆れ気味に呟き、今一度スーツを着た男の方に向き直る。

「すみません、四木さん。今日はこの辺で失礼します。あ、窓も弁償しますので

「気にしなくていいですよ。さ、これ以上雨が強くならないうちに帰宅してください」
「はい」

 臨也は男に軽く会釈をするとドアを開け車を降りる。臨也が降りたことを確認すると車は走り出し、そのまま雨の降りつける住宅街へと姿を消した。
 ――さて、ここからどうしたもんかな。衝動的とは言え、こいつを半ば無理矢理連れ出したのはいいものの、何事もなかったように振舞うのは厳しい。
 臨也と取り残された俺はなんとも気まずい気分になり、流れる時間がとても長く感じられた。

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