高尾和成は水面を叩いては持ち上げ、空気と湯を混ぜていた。ややピンク色に色ずいた液体はその色の通りの香を放っていた。彼の行為により水面は白い泡を立てる。それは電灯の色を虹色に反射させ、そしてゆっくり彩度を落として消える。近くにマイクを設置しておけばパチンという音が聞こえただろう。しかし消失は一個二個ではなく何十何百の単位で起きるから音は重なりしゅわりしゅわりと優しいものとなる。彼が今の行為をやめれば翌朝には泡は無となるだろう。彼は数秒間をあけ、よりいっそう強い力で水面を叩く。ごぷりと甘ったるい夜の行為を連想させる音を立てた湯は衝撃の強さに比例して少し大きな球体を作り出す。

「…はぁー」

高尾は大きなため息を吐いて桃の香りを吸い込んだ。液体を口の中に入れたわけでもないのに、甘い。本当に液体を飲み込んでいたならば甘さよりも吐き出すほどのまずさが口に広がっているだろうけど、としょうもないことを考えては頭の中が甘さに占領されていく。脳漿が湯舟に溶け出してしまったようだ。いつかは自分自身も桃色に溶け出して混ざって見えなくなる。彼の脳にはそれが有り得ることかどうかも判断できなくなっていた。
換気扇を作動させてなかったため篭っていた甘さを外へ逃がすことになったのは、桃の葉のような髪色を持つ人間が磨り硝子で出来た戸をスライドさせたからだ。勿論そうしたことにより視力を支える透明が妨害にあったが、彼――緑間真太郎はそんなことには興味もなかった。

「酔っているのか」
「んー…まさか」
「…甘ったるいな、ここは」
「まーね」

いつもははっきりと発音する声さえも浴室に蕩けていく。真っ白なバスルームに溢れる桃色そして黒と緑。緑間はその状況を見て、ピーチパフェみたいだと呟いた。白と桃はホイップクリームと桃の果実。黒はチョコレイトソース緑はミント。この状況に歯を立てかぶりついてしまおうか。スプーンなどいらない。下品ではあるが器ごと手に取りてっぺんからがぶり、と。そこまで考えて緑間は、酔っているのは自分かもしれないと悪態をついた。けれど湯舟に沈む黒の姿を見ておいしそうと思う感情は消えない。茹で上がった肌色は色気と赤みを増す。それこそ、白桃の皮のようで。爪に力を入れて皮を剥けば疲れた身体に染み渡る味が中に詰まっている。ああ一口でいいからかじってみたい。
緑間真太郎はスイッチのオンオフが激しい。自分の思考と行動を直接伝達するかどうかの切り替えスイッチ。学校ではいつもオフ。いつも伝達しなかった分の微弱電波を読み取る便利な人間からいるからオフにしていてよい。今流行りのエコロジィだ。しかしそのスイッチは時々本能という磁力によりオンへと変わるときがある。それが今だ。

「高尾」

返事も聞かぬまま振り向くのさえ待たぬまま、緑間真太郎は高尾和成の肩口にかぶりついた。普段そんなに開かぬ口がそんなに開くのかと驚くほどの大口でがぶりと肉に歯を食い込ませる。吸血鬼なら血で済むけれど、それを通りこして肉を貪ろう。
痛みは脊髄を通して脳へと伝わる。神経の叫び声は脳を覚醒させるには充分な要素だった。ぼんやりとしていた脳の回転が螺子を巻かれたオルゴールのように正常に戻る。痛い、肩が。高尾は瞬きをして現状況を把握しようと試みるが有り得ないものが視界に入って、また脳の思考回路が止まる。うちのエース様は何をしているんだ、と自らの肩に噛み付いている姿を凝視した。

「真ちゃん…?」

緑間は視線だけを高尾に向けて返事の代わりにした。吸血鬼でも首筋を狙うのに何故肩を、なんて聞けない。緑間真太郎という人間はまともな人間の皮を被った変人の中の変人、ということは相棒になってから嫌というほど知った。だから今更なことではあるが、こうやって急に変人な部分を見せられても反応ができない。
そのとき痛みを生んでいる箇所にべろりと舌が這った。腰から背中にかけて移り行く鳥肌。悲鳴さえも上げられぬ色気と悪寒が混じったそれは、この場で本来込み上げる感情とは異なるだろう。緑間が怖い。こいつになら一生を捧げてもいいと思える位好きなのに、怖いのだ。このまま肉を貪られ胃の中に納められてしまうのではないかと思えば思うほど、今浸かる湯舟の水温が冷たく感じ、血の海にでも浸る気分になるのだ。でも食べられてもいい、と高尾は思った。俺を食べておいしいと喜んでくれるならば、と。そのとき、かぷりと歯が抜かれた。

「何を怯えているのだよ、高尾」
「…本当に食べられちゃうと思った」
「確かに…おいしそう、とは思ったがな」

ふん、と鼻を鳴らす緑間の発言に高尾は肩を揺らした。――本当においしそうと思っていたなんて。異常な脳は緑間のその言葉を受けた自分に対して、それは嬉しいという感情だと診断結果を告げる。もう俺はこの入浴剤の入ったお湯の中に溶けてしまえばいいのにと思った25時のお話。

食用の君

二人だけの密室で、もう一度キスをした。