なんで鏡の向こうには手を伸ばせないのだろう。イギリスの有名なおとぎ話の続編には、鏡の向こうに手を伸ばすだけでなく、鏡の向こうの世界にまで行ってしまう話があったというのに。指紋が付いてしまうのも構わず冷たい鏡を撫でまわす。冷たいはずがないんだ、ここには温もりがあるはずなんだ。
もう俺にとってはこの間、まだ彼がいたときに聞いた話。ずっとずっと昔、俺が先にいなくなったころに彼も今の俺と同じようなことをしていたらしい。毎日鏡の前に立って、俺のことを探していた。でもいくら経っても見つからないから髪型を俺のものにし、鏡の中に自分を閉じ込めてしまった、なんて。
けれど今ではそれが俺の立場だ。俺もワックスやピンを持ってきて彼になろうか。それとも鏡の中の彼をどうにかして救う方法も考えようか。確か彼がそうなっていたときに傍にいた兄に一緒に救出方法を考えてもらおうか。そこでは、と我に返る。そういえば彼は、未だにこちらに来れない恋人を待っていた。
恋人のことは俺もよく知っていた。最期まで誇りを持って戦い抜いた人。こうして現代に生を持った今だから知れた彼のこと。誰にも看取られることもなく、眠りについた美しき人。何を思って眠りについたのかは分からないけれど、兄とその恋人は海溝よりも深い愛で結ばれていたに違いない。
きっと、彼に鏡について話したらどうなるだろうか。皆がいたときのことを思い出してしまわないだろうか。彼も恋人もアレの終わり辺りまで生きていたのだ。糸を引くように恋人のことも思い出してしまうのでは。涙は出ないけれど切なくなって顔を上げると、鏡の向こうの自分と目が合った。驚いた。鏡の向こうの彼がいなくなっていたとかそういうことではなく、そのときに鏡に想いもよらぬ人物が映っていたからだ。

「…こんごう?」
「榛名も、よくそんなことをやっていた」

ぽつりと、大人の声が響く。ただ彼は鏡の中をずっと見つめている。彼は、何を考えているのだろうか。

「でも、もう…はるなはいないよ」

鼻にじんわりと来る痛みに耐えながら返すと、兄は少し笑った。

「本当にそっくりだ。榛名もお前がいなくなったときに言っていた。慰めようともいつも『でも霧島はいない』とね」

笑っているけれど、恐らく心の底からは笑っていないだろう。もう1人の兄もそんな人だ
見た目からじゃ腹の中で何を考えているかまったく分からない二人。皮肉り合いもしていた。弟である俺たちでさえ、何を考えているのかを予想する遊びをしていたくらいだ。

「そっか、…こんごうは淋しい?」

声をかけるが返答は返ってこなかった。時計の働き者が始まりの位置に戻ってきたころ声が響いた。

「さぁ、どうだろう。淋しいというよりも、どう迎えようかの方に悩むな」

まだ今には生まれていないから、と続ける彼の目は遠いどこかを見つめていた。優しい愛がそこにある。鏡の向こうの片割れに俺も早くまた会いたいよと心の中で呟くが、畳に痕をつける鏡の向こうには彼の恋人は映っていなかった。