口の中がしょっぱくなってしまうのではないか、と不安になってしまいそうなほど強い潮の香を吸い込むと不思議なことに身体が落ち着いてくる。いや不思議なことでもないのかもしれない。ここ、海は母なる海と呼ばれるほど生物を生み出しては皆を包み込む場所であるから。風が拭き続ける。きっと大気中の塩分が体に回ってしまったからなのだろうか。このまま海に飛び込み眠ってしまいたいと思う。水死は住まうものを亡くした身体が水を吸って大変醜くなるそうだ。実際に見たわけではないが、昔家の近くを流れていた川に酔っ払いがよく落ちて水死体を嫌になるほど見た母から聞いた話だ。生物を美しく生んだ海が生物を醜く殺すだなんて笑えてしまう。スニーカーのまま左足を海水が行ったり来たりと忙しい砂の上に乗せてみれば、待たないうちに海がやってきては中へと入り込む。遠慮もない。靴下さえも海を許して直接海に触れた。冷たいような、生ぬるいような言葉にしにくい温度だ。そしてまた海は帰る、スニーカーに跡を残して。白く泡立ちながら戻る海は童謡に歌われているように青、には見えなかった。透明で、でも遠くは違う。海とは変化し続け、形もなく今までもこれからも存在しているものなのだろう。風により水蒸気と変化させられた海水がつま先から足を冷やしていく。そして海は様々なものを飲み込む。ただの水と塩化ナトリウムでは作ることのできないもの。たくさんの生物や要素が溶け込んで一つになる。こんな海をずっと見続けているから海に飛び込みたくなるんだ。自分自身の体も透明でありながら不透明で、色づきながら色なしでいたい。様々な物の1つになりたい。自分が自分でなくなっていく感覚はどんなものなのだろうか。経験者はきっといるだろうが彼らに口はない。自分も後でこんな感覚だったよとどこかに書き残しておきたいがその感覚を感じ取る前に自分の感覚を読み取り器官が終了してしまうのは分かっている。だがそれでこそ優美なる感覚なのではないか。一生に一度だけ、そして最後を託してまでも感じられる感情をどんな経験とどんな知識を持って吸い込もうか。今からでも楽しみである。けれど、恐らく定義上の教養のある人はこんな行動を背徳的だと止めるかもしれない。そもそも自ら命を絶つものに対して同じことをするだろう。これこそが正義、だと。構うものか。自分の人生設計を自分で行うのだ。何も悪くない。そんな人生にどう文句つけようか。一般教養という計算式上でしか生きられぬ者に興味はない。皮肉に笑って手を振ってやろう。潮騒を聞いてもう一度海の香を吸い込んだ。
眠れるみず
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