愛した昨日の残骸



土方と別れ、永倉はアパートへの道を歩く。
預かったはいいものの、いつまで家で面倒をみるか、だ。明後日は月曜日だから普通に出勤しなくてはならない。だが、ここから息子の通う小学校まではかなりの距離がある。1日くらいなら有休を使えばなんとかならなくもないが、1日だけでどうにかなるとも思えない。名前が倒れてしまった以上心配でしかたがない。

やっぱり一緒に暮らすこと、考え直させるか…
自分だとあまりやらない家事全般をやってもらう代わりに住まわせてやる、もしくは自分が彼女の家に住まわせてもらう、ぐらいなら頷いてはくれまいか?人に頼ることを良しとしない性格であるから交換条件がなきゃ呑んでもらえないだろう。
そう思いながら門を曲がり自宅のアパートに差し掛かる。寝てしまった息子を背負い直し歩き始めたところで、アパートの前の駐車場に目をやると見慣れた車が止まっていて、そこには自分の親友が寄りかかっていた。

「さ、左之…」

思わず名を呼んでしまい、永倉がしまったと思うも既に時遅し。小さい子供を背負った原田の目が見開かれた。

「おい、どういうことだよ、新八?」

永倉は今己の愚かさを最大限に後悔していた。あの時、あんなに慌てて土方を引っ張り出そうとした挙句、あんな言い方をすればこの親友は何か隠していることくらい勘づくはずであった。
背中に背負った男の子は静かに寝息を立てている。

「あ、いや…この子は親戚の子でよぉ。こいつの母ちゃんが急に具合悪くなっちまったらしくて急遽俺が面倒をみることになったんだよ」

訝しげな視線を向ける原田。ずっと騙し通せるとは思えないが、とりあえず現段階での永倉の精一杯がこれだった。半分くらいは嘘ではない。

「そうか。お前やたら焦って飛び出してったから心配でよ」

原田が笑顔を作ると同時に、永倉は少し息をはいた。騙しきれたとは思っていないが、とりあえず今日は誤魔化せた。このまま帰ってもらおう。そうしてしばらくやり過ごすして忘れてもらうしかない。永倉はそう思っていた。

だが、運命とはよく分からないものである。

「んっ、しん…ぱち…?」

背負われていた息子が目を開けた。タイミングが悪すぎることこの上ない。

「お、おお、息子。起きたのか?待ってろよ、今布団に運んでやるからな」

息子の姿は永倉に隠れて原田からは見えないだろう。となれば一刻も早く家に入れて原田から隠すに限る。だがしかし、ここでも永倉の計算は大きく裏切られる。

「あっ!」

永倉の背中にもたれ掛かっていた息子は起き上がって原田を見ていた。そしてあろうことか原田を見て声をあげたのだ。その見開かれた小さな琥珀の目に原田が釘付けになる。




「しんぱちっ!ママのだいじのひとっ!」
























愛した昨日の残骸




春になったとはいえ、まだ肌寒い風が三人の体をなぞっては流れていく。

呆然とする大人二人を前に一番最初に動き出したのは小さな男の子だった。


「しんぱちっ、しんぱちっ、下ろしてっ!!」

小さな手が永倉の背中を叩く。ハッと我に返った永倉は困惑しながらもその言葉通り息子を背中から降ろしてやると、彼は原田のもとへ歩いて行った。そして原田の前まで来ると息子はいきなり頭を下げた。


「おねがいしますっ、ママを助けてくださいっ!!」

突然の行動にまたしても大人二人は呆然とした。二人の戸惑いには気がつかず、息子は言葉を続けた。

「ママ、毎日僕のこと起こしてご飯作って、おむかえに来てくれて、一緒にねてくれるの。でも、ママ、ぎゅーってしたらどんどんほそいの。じーじとばーばみたいにどっか行っちゃいそうなの。夜起きたらいないときもあって、いないときすごくさみしくて怖いの。ママ、ちゃんと帰ってくるって紙に書いてくれてるけど、いつかかえって、こなくなるんじゃないかって…」

最後の方には啜り泣きが混じる。小さい子ながらに一生懸命母親の窮地を伝えようとしていた。
小さな手が、きゅっと原田の服の裾を掴んだ。

「しんぱちは、僕がママを守るんだっていうけど、僕じゃ、ママのっ、お仕事のお手伝いはできないからっ…ひっく…だから、だから、おねがいします。ママを、ママをたすけてっ!!」

泣きながら再び頭を下げる息子を永倉と原田は呆然と見ていたが、先に我に返ったのは原田だった。自分の服の裾を掴んで泣いているあどけない子供を抱き上げる。顔を肩に押し付け、背中を撫でてやった。昔、試合に負けた自分がよくそうしてもらったように…

「よく、ママを守ったな」

しゃくりあげる子供の髪は、母親と同じ柔らかい黒い髪だった。

「ママを守ってくれて、教えてくれて、ありがとう。」


あの日、綺麗に笑った彼女の笑顔がずっとこびりついていた。何度も彼女の面影を追い求めた。けれど、届かなかった。
会えないかと思って同窓会に行ったり、大学で彼女の学部の授業がありそうな教室を移動がてら覗いてみたり、初デートの場所へ行ってみたり。

けれど一度も会えなくて…
もう手が届かないことに何度胸が締め付けられたことか。
時には彼女を恨んだこともあった。


「俺が、お前とお前のママを必ず幸せにしてやる」

もし、子供が産まれたら礼儀を守れる優しい子にしたい、と彼女は言った。
もし、子供が産まれたら女の子ならとびきり甘やかせて、男ならちゃんと女を守れるような男に育てたい、と彼は言った。

彼女は注がれるはずだった2人分の愛情を一生懸命に注いで、たくさんのことを教えて、自分の身体を削って、たった1人で息子を育てたのだ。

本当に情けねえ、と原田は思った。

けれど、もう、覚悟は決まった。


「俺が、お前の父親になってもいいか?」


泣きはらした目が驚きで見開かれる。それから視線を彷徨わせて、やがて…

「一緒にママを守ってくれるなら」

と言った。

「ああ、約束するさ」
















捨てられたんじゃない。
ずっと愛され、守られているのに、気がつかなかっただけだった。
今度は俺がお前とこの子を…





翌日。
目を覚ました名前のそばにいたのは、愛する息子であった。

「あっ、ママっ!!」

ニコニコと笑う息子を見て少し安心した名前はごめんね、と力なく笑った。

「ううんっ!!」

元気よく首を振る息子の頭を優しく撫でてやると、息子は嬉しそうに笑った。

「ねえ、ママっ!!聞いて聞いて!!僕ね…」

嬉しそうに話す息子の話を遮ったのは扉の音で、音のする方へ目を向けた名前は幻覚を見ているのかと思った。

「おう、起きたか」

優しげな眼差しはあの頃と少しも変わりがない。そこにいるのが当たり前のような彼。息子は彼にすっかり懐いているようで椅子から飛び降りるとそのまま彼に抱きついた。

「おかえり、パパっ!!」

「ただいま」

優しく笑って息子を抱き上げてやる男の顔はあの頃より大人びていて、愛情に溢れていた。

ずっと見たいと思っていた光景がそこにあった。絶対叶わないと思っていた幸せそうな家族の図。名前と彼の望んでいた家族。

「おはよう。具合はどうだ?」

優しい声音が好きだった。
ずっともう一度聞きたいと、名前が思っていた声。
もう、聞けないと思っていた声。

「ど、して…。新八、喋っちゃった、の?」

「いや…」

愛おしげな目で彼は、原田は息子の頭を撫でた。

「こいつが、一緒にママを守ってくれって。な?」

「うんっ!!」

誇らしげに胸を張る息子と、並んで笑う彼が愛しい。もう、隣にいてはいけないと諦めていた。けれど、7年ぶりの彼の笑顔に抑えなどきかず涙があふれた。

「私、酷いこと…言った…」

「ああ、あれはだいぶキツかったぜ?」

「ごめん」

「いや、俺こそ手をはなしちまった。ごめんな」

優しく自分の手を握る大きな手。
ああ、なんて温かい手なんだろう。

「いい彼女、作って幸せな家庭、つくるんじゃ…なかったのっ?」

涙は止まらない。
その涙を原田は優しく拭った。

「お前とじゃなきゃ、ダメだ。」

優しい手が頭を撫でる。

「お前の残りの人生、俺にくれるか?」

優しいプロポーズの言葉が、嬉しすぎて、名前の瞳からまた涙が一筋伝った。




「はい」



彼と彼女の再会もまた、桜の舞う季節。





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