君の素顔に触れるのが
あれは、確かもう20年近く前の夏のことだったと思う。


「としくん!!みてみて!!」

風呂上がりで少し頬を赤くした名前は、くるりと彼の前で一回転した。

「どーお?にあう?」

こてん、と首をかしげる姿が愛らしい。
その頃から二つ年下の幼馴染み、名前のことを好きな歳三は幼いながらにその姿にドキドキした。

「あらあら、名前ったら。本当にトシ君が好きなのね」

「あら、おばさん、トシだって名前ちゃんのこと大好きなんですよー」

年の離れた姉がそう言ってニヤニヤ笑うから恥ずかしかった。そして、何せ年が良くなかった。学校で名前とのことをからかわれてもいた歳三は、少しイライラしていたのだ。


「全然似合ってねーんだよ、ブス」

気が付いた時には思ってもいない言葉が口から飛び出していて、あ、やべえと思った瞬間には姉の平手が飛んでいた。その向こうに見えたのは大きな瞳に涙を溜めた大好きな幼馴染みの顔。

「としくんなんかっ、だいっきらいっ!!」

そう言って駆けていく幼馴染みを、追いかける事すら出来なかった。






どうして、こうなったのだろう。

名前はため息を零さずにはいられなかった。昔からイケメンで、高校、大学時代には耳をすませなくても彼の浮いた話は仕入れる事が出来た。その度に今も昔も変わらない思いに蓋をしてきたのだ。この就職しづらい御時世に運良く就職出来た大企業の部長職に、彼があり得ない若さでついていたことは知っていた。しかし、ただでさえ大きい企業なため、こちらから連絡でもしない限り分からないだろうし、ずっと無関係で生きていくと名前は思っていた。

それが、どうして…



またため息が零れた。


事の発端は友人に誘われた社員旅行だった。確か、営業部と合同の旅行で、いつもと同じメンバーではつまらないと言い出した誰かさんの案で、3人班を作りくじ引きをしたのだ。そうして同じ番号だった2つの班が合体し、1班合計6人に分けられた。その後それぞれの場所へ旅行へ行くのだと告げられ、当日集合場所へ行ってみたら苦手な幼馴染み、もとい土方歳三がいた訳だ。

指定されたのは一泊二日の江ノ島旅行。

正直、江ノ島にいい思い出はなかった。
大学時代、あまり好きになれなかった彼氏ときて喧嘩をして、そのまま別れたのもここだったし、高校時代迷子になったのもここだった。だが、一番の最悪な思い出は小学校一年生の時、幼馴染みの家族と名前の家族と合同で行った小旅行。好きだった幼馴染みにブスと言われた。それ以来、彼とは挨拶すら交わしていなかった。

なのに…



「ほらほらあー、名前全然飲んでないじゃーん!!」

「そうだよー、もっと飲みなってー」

「よーし、左之!!いつものだいつものっ!!」

「じゃ、営業部課長原田左之助腹踊り、いっきまーすっ!!」

営業部でイケメンと名高い原田、イケメンだけど残念、だけど密かにモテる永倉、それにうちの部署でも美女と名高い名前の友達2人は完全に出来上がっていた。
けれど、名前はそれどころではない。先程から運ばれてくるビールや日本酒、サワーに口をつけてはいるものの、一向に酔えなかった。場を盛り上げるためか、はたまたただ酔っているだけか、始まった原田の腹踊りを見てもお酒のペースは全く進まなかった。
ちらり、と向かいに座る幼馴染みを見たが彼は運ばれてくる酒の類には一切口をつけず、ただ緑茶を飲み続けていた。


夜も更けて、酔っ払った4人は畳の上で寝てしまっていた。向かいを見れば、黒髪の綺麗な幼馴染みも机に突っ伏している。名前は一人ため息をついて、ジョッキに残ったカクテルの最後の一口を飲みあげた。どうやら、思いの外酒には強いらしい。けれど、流石に少しは酔っているようだ。少し汗をかいていて、着ているTシャツが気持ち悪い。もう一度風呂に入ろう。そう思い、彼女は宿に備え付けられた浴衣を手に大浴場へ向かった。

チャプン、と音がして温かいお湯が彼女の身体を迎え入れる。透明な筈の湯には、黄色い月が映り込んでいた。

「もう、わたしのこと、覚えてないのかなあ」

ぽつん、と夜空に独り言が浮かんで消えた。今まで彼のことを追いかけて、傷ついた。大嫌い、と言ってしまって、何度もそれを実行しようとした。けれど、出来なかった。幼い初恋は、20年近く経っても色褪せる事なく彼女の中で息づいていた。

それでも、今日、はっきりと自分のことは眼中にないと言われた気がした。見えてさえいない、空気と同じ存在なのだと言われた気がした。

あの日と同じくらい、心臓が痛くて、一粒彼女の瞳から涙が零れた。


部屋に戻ろうと大浴場の暖簾をくぐった所で、名前は目の前の自動販売機の前に佇む彼を見つけた。

ここで顔を合わせても気まずいだけ。
そう思い、女湯に名前が引き返そうとするより早く彼の視線が彼女を捕らえた。

昔から変わらない、形の良い紫紺の瞳が彼女を射抜く。
どくり、と心臓が音を立てた。


「あの日は、悪かった」

突然の謝罪に彼女の頭はついて行けず、その意味を理解するのに少し時間がかかった。

「恥ずかしかっただけだった。」

その声音があまりに申し訳なさそうで、切なそうで…

「あ、いえ、あの、もう気にしてません、から。だから、そのっ…土方さ、んが、お気になさる必要は…」

気がつけば名前はショート寸前の頭で、喋ることすら覚束ないまま、真逆の事を口走っていた。

すると、彼は笑った。
切なそうに、眉を寄せて。


「もう、あの頃みたいに呼んじゃくれねえのか?」

言うが早いか、彼は一気に彼女との距離を縮めた。逃げようとする彼女の腕を引き自分の腕の中に引き寄せる。

「あの日からお前に言いたかったことがある。」

どくん、どくんと心臓が跳ねるのを名前は感じた。


「あの日から、いや、もっと前から、俺はお前が好きだ。」

ふわりと香った、昔と変わらない彼の匂いが懐かしくて、彼のくれた言葉が嬉しくて…
頬に涙が伝った。

「似合ってる。お前、本当に浴衣似合うな。」

そう言って歳三は名前の唇に自分のそれを寄せた。


君の素顔に触れるのが

ずっと、怖かった。
けれど、せっかく掴んだチャンスを無駄にはしない。

くじ引きがこうなるように仕組んだのも、寝たふりをしたのも、もう一部屋とってあった事も全て計画だったと言ったら彼女はなんて言うだろうか…
自分の隣で眠る愛しい寝顔を眺めながら歳三は一人優しく笑った。
何をしても手に入れたかった初恋が漸く手に入ったのだ。
名前の首元に覗く赤い鬱血後に一人満足して、歳三は目を閉じた。


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