Toshi | ナノ
彼女が全てを捨てて自分を追いかけてきてくれたことを分かっていた。
だから自分が死ぬというのであれば、自分も死ぬと言い出すのは分かっていたのだ。
だから、何も言わずに、討って出るつもりだった…
チラリと俺の方を振り向いて、苦痛に歪めた顔を、一瞬だけ花のような微笑みに変えて。
「新選組副長土方歳三、推参!!影武者なんぞに騙されてねえでかかってきやがれっ!!」
男にしては高い声が響き渡ってボロボロの女が馬腹を蹴る。俺に似せるために切った短い黒髪がさらりと揺れて遠ざかっていった。
「名前ーーーーっ!!」
その声に彼女が振り向くことはなく、俺は部下たちに引きずられて戦場を後にした。
君のいないこの世界で
さらりと風が流れた。
あれから三年。
一人の女の死によって俺、土方歳三は死んだことになった。
それ以後俺は大鳥さんに匿われ、函館に暮らしている。ひっそりとした小さな町で、ここなら大丈夫だろうと大鳥さんが選んだ。
「いいかい、土方くん。いや、内藤くん。君は死んじゃダメだ。」
悲しそうに顔をゆがめ、何も言わない俺の肩に手を置いた。あいつと大鳥さんは仲が良かったから…
「名前の最期の願いを叶えてやるんだ」
なんだよ、それ。
そういった俺に、それが分かるまでは死ねないね、と大鳥さんは苦笑した。どうやら教えてくれるつもりはないらしい。
それからただ穏やかに暮らしていた。
軍服は行李の一番下にしまい込んだ。あの頃使っていたよれよれの紫色の着物を着て、とりあえず炊事をして、自分で洗濯もして。
そして、後はぼんやりと空を見て暮らしていた。蒼い、蒼い空を…
『トシさんっ!!』
あの頃から、別に愛想もない、優しくもない男だった。ただ、女はとにかく寄ってくるから適当に遊んでいた頃。その頃、まだあいつは十ほどのガキだった。
試衛館の近くにあった裕福な商家の次女で、総司と仲が良くて、近藤さんが大好きで、いつも試衛館の笑顔の中心。志なんてでけえものは持ってなかったと思う。総司と同じ、あるとしたらただ、俺や近藤さんの役に立つためだけに…
『私は誰がなんと言おうとあなたたちについて行く。』
顔を真っ赤に腫らして、いつも剣道場にいるのと同じように男物の着物を着て高い位置で髪を結って、胸を潰すためにサラシをきつく巻いて。腰には餞別に父からもらったらしい、刀を差して。それでも真っ直ぐに俺たちを見る目に迷いはなかった。
そうして、彼奴は新選組監察となった。
昼夜問わず駆け回って、怪しいやつらを調べ上げる、出来のいい監察だった。本当は優しいくせして、人を殺しても表情一つかえずに帰ってきて。必死に平気な風で振舞っていたあいつが、平気じゃないことなど気がつかなかった。総司のように、何処か感覚が麻痺したのだろうと…
ある夜、京に来て1年ほど経った頃だった。一人縁側に座っていたら風に乗って聞こえてきた、かすかな嗚咽。
辿っていけば、あいつの部屋の前にたどり着いて。
「っ…」
しゃくりあげて、漏れそうになる声を必死に押し殺して。そっと襖を開けると中の気配がまるで小動物が威嚇をするようなそれに変わる。
「っ!!」
彼女が握りしめていたのは、毒々しいほど赤に染め上げられた浅葱色の羽織。だが、彼奴自身のそれは身につけていたから、それはおそらく他人のもの。
「ひじ、かたさっ…」
それが、先刻死んだ隊士のものだと気がつくまで時間はかからなかった。
「ははっ、ざまあ、ない…ですね…」
泣きながら嘲笑を浮かべてささやくような声で言葉を吐き出していく。まるで、自分自身を傷つけていくかのように。
「お嫁さん、おなかに、ややがいたらしいんです。」
あいつ、優しいからいい父親になっただろうに、と震える声が闇の中に落ちていく。
「それなのに、私、私はっ…!!」
隊務中に背中を斬られ、士道不覚悟となった其奴は化け物として生きる道を選んだ。そして、理性を失って、本物の化け物に成り下がったのだ。
「あいつ、最期にね…笑ったんですよ」
羽織を抱きしめて名前は泣いた。これから生まれてくる赤子の父親を奪ってしまった呵責か、見知った人間の命を奪ったという懺悔か。羽織に顔を押し付けて、体を震わせて、それでも俺に顔を見せまいと身体を丸めた。
「羽織を、これを、届けてほしいって…。」
こんな血だらけじゃ渡せないじゃないかと、つぶやくその声が痛々しくて、胸が握りつぶされそうだった。それでも上手い言葉は見つけられない。俺は羽織を抱きしめる名前に近づきそっとその小さな背に手を回した。
肩がピクリと震えたのがわかる。
恐る恐る、俺の腕の中で顔を上げた名前。涙に濡れた目が腫れている。
それでも明日にはなんでもなかったかのように振る舞うのだろう。
「泣け。好きなだけ。」
そう言って着物に顔を押し当ててやると、羽織を握りしめながら名前は泣いた。
結局その羽織は必死で洗って彼の妻に届けたと聞いた。
本当、優しすぎる、ただのお人好しだ。
総司や、近藤さんや、新八、原田、斎藤、山南さん、平助、源さん。
かつての仲間たちをどれだけ失っても俺を責めることなど一度もせず、ただ笑っていてくれた。泣かせたことは数知れず。それでも最後まで俺のために生き、そして俺のために死んでいった。
「お前、何がしたかったんだよ」
ポツリと呟いた言葉は虚しく青い空へ消えていく。
大鳥さんが言った彼奴の願いは未だに分からない。最後に笑った彼奴の顔だけが今も鮮明に思い出せる。銃弾を受けてそれどころではなかったろうに優しく、諭すように笑った。
「なんだってんだよっ…」
庭の木に向かってそう問いかけたが、その問いに答えが返ってくることはない。
ただ優しく花びらを風が攫っていた。
「あの、ごめんください」
しばらくして聞こえてきた控えめな女の声には聞き覚えがあった。
俺が玄関まで出ると其処には時折俺の様子を見に来る上官。それと、懐かしい少女と部下の姿。
「千鶴、斎藤…」
「江戸で偶然会ってね。」
どうぞ、と千鶴と斎藤を促した大鳥さん。
そのまま遠慮がちに上がってきた二人を居間に招き入れる。
「あっ、あの、私お茶を…」
「いいよ、それは僕がやるから。
それより、二人はこの頭の固い意地っ張りに今日来た理由を説明してあげてくれないかな?」
そう言って大鳥さんは勝手場へと消えていった。
「土方さん、文も出さず、申し訳ありません。」
そう沈黙を破ったのは斎藤だった。
「いや、構わねえよ。そんで、なんだ?こんな北の果てまでわざわざ顔見に来たってわけでもねえだろ?」
そう言うと、千鶴と斎藤は顔を見合わせて、それから俺の方を見ると話し始めた。
「江戸で大鳥さんに会い、新選組や土方さんの事を伺いました。それから、名前のことを…」
俺の顔が歪んだのに、多分気がついているんだろう。目を伏せた斎藤に代わり千鶴が、震える手で懐から古びた紙を取り出した。
その丁寧な筆跡には見覚えがあった。
「勿論土方さんにお会いしたかったのもありますが、大鳥さんからその話を伺って、これをお渡ししなければと…」
差し出されたそれを受け取る指が震える。
震える手でそれを広げると、よれた紙に綴られた懐かしい筆跡。
まるで彼女が生きているかのように錯覚しそうになりながら、必死で文字を追った。
『土方さん、これがあなたの手元にあるということは、私はもう果ててしまったということなんでしょうね。私は果たしてちゃんとあなたの役に立てたのでしょうか。それだけが唯一気がかりなことです。
思えば私はずっと土方さんのあとを追いかけてきました。初めて会った時、あなたにバカにされてとても悔しかった。それからずっと総司といたずらをしながらも、本当はあなたに認めてもらいたくて必死でした。そして貴方を認めてもらいたい、という思いはいつの間にかあなたへの憧憬と恋慕へと変わっていた。いつも私をみんなのところへ導いてくれる貴方に、私は恋をしたのです。
確かに、女として幸せな人生ではなかったかもしれません。子を成すことも、夫と情を交わすこともありませんでした。
それでも、私はこの人生に欠片の後悔もありません。戦場で果てることができたのは、私の誇りです。
土方さん、きっと貴方は私にこんな道を歩ませてしまった、と思っているのでしょう?
それでも私は貴方に感謝しています。
もし私を死なせてしまったと思ってくださるなら、貴方は生きてください。
生きて、幸せになってください。
死ぬよりも生きることの方が辛いかもしれません。
それでも生きてください。
そして、誰よりも幸せになってから、あの世で、そして来世でお会いしましょう。
最後の私は新選組と、新選組副長土方歳三と共に果てることができて幸せです。
今までありがとうございました。
最後に、お慕い申し上げております。私が果ててしまってもどうかこの想いだけでも貴方に届きますように。』
彼女は、もうここにはいなかった。
それでも、確かに彼女の想いはここにあった。遊び人だった俺を、鬼と呼ばれた俺を、好きな女を苦しめ続けたどうしようもない男を慕っていると、誤魔化しようのないまっすぐな気持ちが…
「ばか、やろう…」
大事にしたい女の最後の願い。
それはひどく残酷だった。
お前のいない世界を生きていけ、なんて苦しいことこの上ない。
それでも、叶えてやろうと思う。
「愛してるよ、俺も…」
お前の願いを叶えたら、この苦しみから解放されたら、いつか何度でも生まれ変わって、お前を探そう。
今度はその優しくて小さくて温かい背中を、俺が…
頬に触れたのは、いつの間にか溢れていた涙とどこからか舞い込んできた桜の花びらだった。あの優しい微笑みを浮かべたあいつが俺の肩にそっと手を乗せた気がして、今だけは、と呟いたら、しょうがないですね、と笑うあいつの姿が浮かんで消えた。
君のいないこの世界で
(精一杯生きて、生きて、生きて、
胸を張ってこの命を終えたら、
そして次こそこの手で君を幸せにする)
それからさらに数年。
何度目かの桜が舞う頃、明治維新に敗れた一人の男が生涯を終えた。
変若水を飲んだ対価は確実に彼の体を蝕んだ。その割には長く生きた方だろう。
かつての仲間に見送られ、精一杯生きて、胸を張って彼は逝った。
彼が愛した女が彼の手を取ったのか、埋葬される前の彼の手に、一枚の桜の花びらが舞い落ちたと言う。
君のいないこの世界で
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