翌朝、目を覚ました凪は小石を見つける。昼間の汐の姿には、小さな傷が増えていた。月の欠片のようにも見えるその小石を、一日中眺めて過ごした。早く太陽が沈み夜が来る事を待ち遠しく願っていた。 今夜は風がよく通る。なんとも心地好い。そこに訪問者が現れた。三羽の黒兎だ。まだ汐は小石のまま、凪はそっと袖にしまった。 「此処に兎がいるだろう」「お前、人の言葉を話すのか」「惚けるな」「惚けてなどいない」「知っているだろう、白い兎を」 汐が云っていた「月の住人」に違いなかった。悟られないようにと隠した袖の中で、小石が暴れ出したのが解る。追い払うまで暫しという凪の願い叶わず、小石は袖から零れ落ち、姿を変えようとしている。慌てて汐を抱き抱えた凪だが、汐は兎の大きさ以上になっていく。 「ひ、姫」 「なんて事だ」 「遅かったか」 三羽の黒兎は退散し、凪の腕には美しい女が一人。思考が纏まらない凪は、「これは失礼」と女を下ろした。 立派な着物に映えて、長い黒髪が美しく煌めく。月の明かりが降り注ぎ、息を飲むほど美しい、「姫君」がそこにいた。 「汐、なのか」 躊躇いがちに訊く凪に、「そうだ」と答える。汐が長い睫毛をひと扇ぎする度、金色の小さな光が煌々と舞った。見惚れる以外に為すすべもなく、凪は言葉を忘れて佇むばかり。 「人の世界に染まってきたようだ」 汐は自らの様子を見ながら云った。満月を過ぎるまで人の世界に留まった汐は、月の住人には戻れない程、人に近づいてしまったのだった。「月の、姫、だったのか」と、ほうとため息混じりに呟く凪に、「もう月飼いにも用無しだ」と汐が苦笑した。 「まるでかぐや姫だな」 「かぐやは月を選んだ」 月を見上げて、汐が囁くように呟いた。悲しい顔をして「私は違う」と云った。 「月に戻りたくなかったのだろう、何故そんなに悲しい顔をする」 「そうだな。だが、」 尚も悲しい顔をして、「月の住人が居られなくなる」と続けた。月の姫が居なくなった月では、月の住人達は生きていけなくなるようだ。先ほどの黒兎三羽がその住人達だった。 「どうして人は、月が好きなのだ。月見をしたり心安らげたり。いつもはすっかり忘れているのに、感傷的な夜は決まって月を見上げる」 「それは月が美しいから」 そう答えた凪を凛と見つめ、「あんな小さな箱庭は嫌いだ」と汐は云った。今夜の月は、やさしく霞んで見える。 「月は美しくもあるがそれ以上に、」いつもそうするように柱に凭れた。 「何処までもついて来てくれる」 ふんわりとした笑みを携え云う凪に、汐は「そんなもの、錯覚だ」と僅かな怒りの隠った言葉を返した。 「少なくとも、私は月が好きだ」 そう云って、奥から酒と盃を持ってきた凪は、なみなみ注ぐと月を映した。「明日は雨かもしれないな」と、月を呑み干し汐にも勧めて云った。 「後悔しているのか」 「少しな」 「月に兎がいるとは限らない、と云ったのは汐、お前だ。住人達も下りてきて人になれるのだろう、汐のように」 そうだな、と傍に座った汐の髪を指ですくう。「人になればいい」と目を細めて、「此処は私の箱庭だ。好きに居ればいい」などと繰り返した。 |