ブラザーコンプレックスとは、男兄弟に対して強い愛着・執着を持つ状態を言う。俗に「ブラコン」とも略され、この場合、男兄弟に対して強い愛着・執着を持つ兄弟姉妹自体に対しても使われる。


だそうで。
ないな、と思う。俺にも弟がいるが、彼に対して強い愛着も執着もない。ましてやブラコンなどと揶揄されたことは生涯一度もないくらい俺は弟に対して淡泊な気がする。
でも、字面だけ見れば当てはまっていると言えなくもない。コンプレックス。その言葉が主に示すのはインフェリオリティーコンプレックス。直訳して劣等感だ。よく言うだろ。下が優秀過ぎるだと上は苦労するって。立場がないんだよ。
え?9つも下の弟に立場追われるとか馬鹿じゃないかって?それ、俺の弟が9歳にしてS級5位のヒーローというとんでも少年だって知って言ってるか?












「ただいま。」


玄関扉を開けて、小さくそう呟けばどたどたと元気な足音が案の定俺を出迎えた。


「兄ちゃんおかえり!!」


ぴょこぴょこ栗色のアホ毛を揺らしながら、弟は狭い玄関で俺を迎える。にこにこと屈託なく笑うこの小学生を、何も知らない人間はS級ヒーローだとは夢にも思わないだろう。
俺は靴を脱ぎながらただいまとぼそっと返す。弟はまたも狭い廊下を駆け今度はリビングに突入して行った。


「おかーさん、兄ちゃん帰ってきたよー。」


母がじゃあお茶にしましょうなどと返す声が聞こえてくる。リビングに行かずにそのまま自室に籠るか少し迷った後、俺はリビングに顔を出すことにした。
今日は実習続きで疲れて腹が減っていた。なんでもいいから胃に食べ物を入れておきたかった。


「おかえり。童帝のファンって人が送ってくれたのよ。このケーキ。」


母は弟のことを童帝と呼ぶ。これは弟のヒーローネームであるが、ふざけてやがると俺は思う。
9才の純粋な少年に付ける名前じゃないだろう。母は始めこそこの悪意丸出しみたいな名前を嫌ったが、少しすると「子供の皇帝ってことでしょ?まあ的を得てはいるわよね。」などとほざきやがった。
俺は今でも反対である。もう少しマシなヒーローネームはなかったのかと協会に文句を言ってやりたい。実際は面倒だから言わないけど。


「ただいま。腹減ってんだけど、もっと辛いのないの。」

「あんた昨日カラムーチョ食べてたじゃない。あれで最後よ。それに折角もらった物なんだから有り難く食べなさい。」


テーブルの上に並べられたのは、女性が好みそうなかわいらしいカップケーキ達だった。
正直俺は甘いものは苦手だ。だが弟は無類の甘い物好きなので、ファンからの贈物となると大体が菓子の類だ。強制的にその処理に付き合わされる俺の身にもなってほしい。
因みに母も甘党である。母子家庭の我が家では、俺は孤立無援というわけだ。
溜息をついて俺は席に着く。すると、隣に座った弟が、嬉しそうに話しかけてくる。


「兄ちゃん、どれがいい?これがティラミス味で、これはオレンジティーだって。それでこっちは…。」

「お前への贈物なんだろ。お前が好きなの取れよ。俺は余り物でいい。」

「えー、だって兄ちゃん嫌いな物多いじゃん。キャラメル味なんて余ったって食べれないでしょ。」


どれもあまり食指が動かないというのが本音だが、母の目もある。
仕方がないので一番甘さが少なそうなティラミス味を選ぼうとしたが、すでに母がキープしていた。ちくしょう。
諦めて俺はダークチェリーの乗ったカップケーキを選らんで自分の皿に乗せる。弟はしばらく迷ったあと、苺と生クリームの乗ったものを選んだ。
いただきますをした後、俺は甘ったるいそれをひたすら口に運ぶ作業を開始する。弟は母に今日学校であったことなどを話ているようだった。


今日は体育でサッカーをしたようだ。逆転シュートで弟のチームが勝ったらしい。シュートを決めた子は引っ込み思案で中々周囲に溶けこめない子だったらしいが、その試合がきっかけでその子は皆と仲良くできたのだと弟は笑って話していた。
弟は学校でも人気者だ。性格もいいし、贔屓目なしに顔立ちも整っている。スポーツ万能で頭がいい。何より、その秀才ぶりを鼻に付かせない技術を持っているのだ。
そのサッカーの件にしたってそうだろう。シュートに繋がったパスは十中八九その子に向けてわざと弟が出したものに違いない。そしてきっとそれは走るままの足が当たってしまっただけでもゴールキーパーに邪魔されずにネットに吸い込まれていくような絶妙なものだったはずだ。
弟一人でシュートを連発し圧勝することなど容易い。だがそれをせずに、手を抜いてアツい展開を作った上で他人に逆転シュートを決めさせる。
弟はそういう奴なのだ。
誰よりも才能があるのに、それを誇示したり傲慢になったりせずに、自分は一歩引いて他人を立たせる。それもさり気無く、気取られることがないように。
だから、弟は皆に愛される。天才は往往にして孤独なんて言われるが、弟の周囲には人が絶えない。
そんな弟を持っている俺は幸せなのだろう。傍から見れば。


「…ちゃん!兄ちゃん!聞いてる?」

「…ん。ああ…何?」


くりっとした丸い目でこちらを見上げる弟。
母は、何ぼーっとしてんのよとジトリとした視線を向けてくる。俺が弟の話に全く上の空なところが気に喰わなかったのだろう。
母は俺達兄弟が仲良くあって欲しいといつも思っているようなので、弟にあまり興味を示さない俺の態度は度々母の反感を買うのだ。


「それ食べないの?さっきから突いてばかりだけど。やっぱり苦手?」


弟の目線を辿れば、俺の目の前のカップケーキ。包装は外したものの、手前半分の外壁だけ抉られた無残なそれ。
フォークで弄るばかりであまり食は進んでなかったようだ。母も弟もすでに食べ終えてしまったらしく、皿の上には生地がこびり付いた包みが乗っているだけだ。


「…思ったより甘ったるくてな。」

「じゃあ、それ僕が食べていい?」

「いいけど、太るぞ。」

「じゃあ、後でサッカー教えてよ兄ちゃん。」


そのお願いには応えずに、無言で食いかけのカップケーキの乗った皿を弟の方へ押しやれば、弟は嬉々としてそれにかぶりつく。
手持無沙汰になった俺は、頬杖をついて弟を見つめる。


サッカーの練習など、勿論弟には必要ない。弟は運動神経抜群なので大抵のことは見様見真似でできてしまうのだ。
俺は高校の時サッカー部に所属していたこともあって、教えてくれとせがむ弟と何度かサッカーをしたことがある。当時の俺は弟に教えてやれることなどサッカーくらいだと息巻いて先生面していたものだが、高校最終学年を迎えてやっと気づいた。
サッカークラブにも所属していない弟は実は俺より数段上手いことに。
頭から足へのリフティングが上手くできないだの、左サイドからのシュートが決まらないだの、言ってきたあれは全て演技だったのだ。
俺が弟と一線引いて暮らすようになったのは、多分その頃からだ。
本人が演技と自覚してやっているのかは分からない。無意識の内に自分の才能を抑えて他人を立てる癖が出てしまっていたのかもしれない。
だが、どちらにせよ俺は騙しやがったななんて弟を責めることはできない。

弟は俺を騙して弄んでいたわけでも、調子に乗る俺を内心嘲笑っていたわけでもない。兄である俺を立てるためにそんなことをしているのだと十分に予測がついてしまったからだ。
弟は頭がいい。だから母の望みを鋭く察して、自分より劣る男を兄として慕い仲良くしようと努力してくれる。


「ほら、お兄ちゃん。弟がサッカー教えてって。」


さっさと自室に戻ろうとした俺が席を立つと、母の言葉が俺を呼び止めた。
ドアへと向かいかけた身体を仕方なく戻しそちらを見れば、母がにこにこと笑いながら俺を見上げている。
弟の話を無視した罪は、弟におやつを譲ってやったことでとりあえずは償われたらしい。そして次に母が期待することは…


「わかったよ。…課題が終ったらな。」

「本当?」

「ああ。」

「やったー兄ちゃん大好きー!」


すでに空となった皿を放り出して、弟がぴょんと俺の腰辺りに抱き着いてくる。そんなことをしてくるとは思わず、よろけそうになるのをなんとか堪える。
ぐいぐい鳩尾の辺りを圧迫する弟の頭に右手をぽんと乗せてみる。そんな弟の姿を見て、母は満足そうに笑っている。


弟はやはり頭がいい。母をここまで喜ばせるなど俺にはできないし、その方法も分からない。
自分を殺した演技で他人を喜ばせることができるなんて。9才とは思えない、まるで洗練された社会人だ。9つも下の弟は、多分俺よりもずっと精神年齢が高いのだ。
でも、それを悟らせないように子供らしい素振りをしているんじゃないか。俺に気を使って、俺が兄貴風を吹かせ易いように弟らしく振る舞っているじゃないか。
そう考えると、甘い物好きな所もそれらを主張するための演技に思えてしまう。そして、こんな風に兄に飛びつく甘えたな仕草も…


「演技なのか?」


口に出したその言葉に、しまったと思った。ばっと顔を上げ母を見遣るが、聞こえていないのか、意味が分かっていないのか彼女はきょとんとしている。
内心ほっとしながら視線を落とし弟の顔を見た時、ああやっちまったな。と俺は思った。
弟は大きな目をさらに広げて、こちらを見ていた。じっと、俺の真意を量るように。

見ていられなくてすぐに視線を反らせた。右手で弟の頭をぐいと押しやり、引き離す。


「課題、やんなきゃだから。」


そう言い残して、逃げるようにリビングを後にした。
頭のいい弟は、あの一言を聞いて何を思ったのか。考えたくもない。
多分、課題が終わることはないだろう。今日も明日も、明後日も。

ブラコン兄と役者弟
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