無駄にだだっ広い道場には汗臭さが充満している。百何人という男達が一心に竹刀を振るって己の技を磨いている最中なのだから仕方がない。彼らは皆、かの有名なS級ヒーロー・アトミック侍の弟子達だった。そして弟子達の中でも五本の指に入る程の実力者であるナナシは道場の隅っこの一角を占領して座り込んでいた。立てた片足に顎と腕を乗せて、とある男をじいと睨みながら。
しかしその男、イアイアンはそんなナナシの視線などまるで気づいていないように、ただひたすら気を込めながら竹刀の素振りを続けている。500回を優に超えても、その太刀筋にブレや疲れなど全く見てとれない。日頃の鍛錬の賜物であろうことは誰の目に見ても明らかだった。
汗で手を滑らせて竹刀がすっぽ抜けでもすればいいのに、とナナシは面白くなさそうに自分の左頬をさすった。熱を持って腫れ上がった頬は相変わらずじんじんと鈍い痛みを発している。それでその竹刀が壁とか天井に撥ね返ってあいつの頭に激突すればいい、痛みの原因を作った男をやはり睨みながらそんな呪いの言葉を心の中でナナシは唱えるのだった。アトミック侍の一番弟子であり、この道場で最も実力のあるイアイアンに限ってそんなことは絶対に起こり得ないのだが。


「くそ…。」


呻くナナシはこれで何度目の負けかと考えかけて、それが惨めな答えしか出て来ないことに気付いてすぐに思考停止した。
先程の練習試合。イアイアンと竹刀を交えることになったナナシは、今日こそはと意気込んでいた。
イアイアンはナナシの一つ上の先輩だった。それも中学生の時から。昔からナナシは数ある剣道の大会で優秀な成績を収めてきた。優勝することも多かった。が、それはイアイアンがいない大会に限っての話だった。つまりナナシはイアイアンに勝てた試しがなかったのだ。しかも、ご近所同士だった二人は中学高校は同じ。イアイアンが引退するまで同じ道場内で稽古をしなければならない状況、つまり決して一番になれない状況にナナシはずっと置かれてきたのだ。まさに目の上のタンコブである。腐れ縁とでもいうべきか。しかしその縁は学生時代だけに留まってはくれなかった。大学に行かないで剣豪の道を選んだナナシが入門した憧れのアトミック侍の道場。そこでイアイアンの姿を見た時の絶望感は今でも忘れられない。
そして現在。やはりナナシはイアイアンに一度も勝てずにいた。赤く腫れた頬が、もらった一撃の強烈さと共にナナシの敗北っぷりを語っているようで、嫌気がさす。
永遠のニ番手、そんな文字が頭にちらついてナナシは唇を噛み締めた。


「何よーナナシ。まーた拗ねてんの。」
「あーあー、今度は顔面にもらったのか。お前も懲りないな。」


上から降ってきたその声にナナシは内心舌打ちをする。嫌そうな顔を隠そうともせずにそちらを見上げたナナシは、案の定をそこに立っている二人組を見てさらに顔を顰めた。
オカマイタチとブシドリル。ナナシの先輩に当たるこの二人はどちらもこの道場屈指の実力者であるが、ナナシにとってはこの世の人間の中で三本指に入るくらいの厄介者達だった。正直に言って、ナナシはこの人達が好きではない。というかむしろ…


「もー、かわいい顔台無しじゃない。これはこれで私は好きだけど。」「で、イアンの奴に掠り傷くらいは負わせてやれたのか?ん?」


…嫌いだ。
オカマイタチは腫れたナナシの頬を突っつこうとしてくるし、ブシドリルはニヤニヤ笑いながら頭を小突いてくる。もはや恒例と化した先輩二人のからかい。ただでさえ、先の敗北でイライラしているというのに、二人は確実にナナシの琴線に触れてくる。しかしナナシはその苛立ちと屈辱をぐっと耐えながらいつも通り黙って無視を試みた。
そう、いつもだ。この二人は何かとナナシをからかってくる。一度やニ度ではない。ナナシが邪険に扱いたくなるほどに、この二人はしつこかった。一度師匠のアトミック侍に言いつけてみたことがあったが、「あいつらお前のこと気に入ってんだよ。仲良くしてやってくれ。」などと豪快に笑いながら言われてしまった。これは弟弟子として気に入られているのでなく、いじり相手として気に入られているだけなのでは。瞬時にそう思ったナナシだが、尊敬する師匠には言えなかった。


「うるっさいっすよ!今休憩中なんで絡んでこないでください!」


いい加減我慢の限界だったナナシは二人に吠る。だが、このくらいで引き下がる二人ではなかった。一度二人して顔を見合わせると、ナナシの両サイドに馴れ馴れしく腰を下した。


「そんな邪険にしなくたっていいじゃないナナシ。先輩の助言は素直に聞くものよ。あ、分かった。最近絡んでなかったから拗ねてるんでしょ。」
「どういう思考回路してんですかカマ先輩。ニ度と絡んでこないでください。」
「だってよカマ。おら、どっか行け。」
「…あんたもですよドリル先輩。」
「あ?なんだ折角励ましてやろうとしてんのに先輩の厚意を無碍にすんのか。」
「やめなさいよドリル。ナナシが嫌がってるわ。」
「カマの気色悪さに嫌がってるんだろ。」
「ひどい、誰が気色悪いっていうのよ!あ!もしかして嫉妬?」
「その舌斬り落とすぞ。」


他所でやれよとナナシは思う。この二人は元々馬が合うという訳ではないのだ。なのにナナシをからかう時だけ妙に仲良く二人してやってくる。呉越同舟という奴だろうか。経験の差があってナナシがまだ敵わないこの二人、それもA級ヒーロー上位ランカーの彼らに同時に敵にされていては堪ったものではない。それに何より、敗北感に打ちひしがれる今、この騒がしい人達と関わる気にはなれなかった。今日はもう上がせてもらおう。両脇で勝手に口喧嘩を始めている二人を置いて、立ち上がろうとした時だった。


「おい!カマ!ドリル!お前らまたナナシに迷惑かけてやがるのか!」


その声に、二人がぴたりと口論を止め、ナナシもぴたりと動きを止めた。


「イアン先輩…。」



重石付きの竹刀を片手に仁王立ちするイアイアンを見て、苦々しげにその名を口にしながらナナシは心の中で再び溜息を吐いた。そしてがっくりと項垂れる。またイアイアンに借りを作ってしまったと。
これも毎度のことだった。うざく絡んでくるオカマイタチとブシドリル。弟子としての期間も剣の技量もこの道場屈指の二人を止められるのなんて、それ以上に実力のある彼くらいしかいないのだ。よってナナシを助けるのはいつもイアイアンということになる。打倒すべき対象に助けられるなどあってはならないのに。あまり悪びれていなそうな二人に小言を言い終えると、イアイアンは小さく溜め息を吐いてからナナシを振り返った。そしてどこか申し訳なさそうに言うのだった。


「ナナシ。さっきはその…思いっ切り顔面に叩き込んでしまってすまなかった。これを当てておけ。」


差し出されたのは氷嚢だった。それをちらりと見遣ってナナシ目を逸らした。悟られないように奥歯を噛み締める。こういう所も気に喰わない。
自分のことなど放っておいてくれればいいのに。いっそ邪険に扱ってくれた方が余程マシだ。情けなんて掛けられたくもない。
ナナシはそう毎回思っているし態度にも出しているはずなのに、イアイアンは、誰に対してもそうであるように、ナナシに対してもやはり面倒見がよく誠実だった。中学の時から変わらずに。
俺にとってはそれが一番迷惑であることを先輩は分かってやっているのだろうか、などという一体何度そんな汚い勘繰りをしただろう。
ある程度の良心のある者なら、自分に優しくしてくれる人間に対して敵意はなかなか抱けない。ナナシもその一人だった。だからイアイアンに対して嫉妬やら対抗心やらを燃やしながらも、その先輩としての面倒見のよい振る舞いはどうにか受け入れてきた。先輩に対して申し訳ないから。ここで拒絶してしまっては先輩が傷付くだろうから。
だが…


これじゃ駄目だ。これじゃ勝てない。
ただでさえ、その技量や才能には敵っていないのだ。ましてや負い目を感じながら戦って勝てる相手ではない。一番になるには、彼を負かすには。勝ちたいのならば…



ふと、顔を上げたナナシはイアイアンに笑みを浮かべた。微笑まれたイアイアンを含める三剣士が驚く中、ナナシは手に持ったままだった竹刀を振り薙いだ。その切っ先は鋭く、目にも止まらぬ速さで何かを弾いた。
ぼとり、と落下したそれは綺麗な裂け目から透明の固体の入り混じった同じく透明の液体を垂れ流した。突然の出来事に唖然としてばかりの三人が、ナナシはなんだか可笑しかった。そして、こんな簡単なことに気付かなかった自分の滑稽さも。


「手が滑りました。片づけは俺がやっておくので大丈夫ですよ。イアイアンさん。」


断ち切ればよかったのだ。最初から。厚意も優しさも、腐れ縁も。余計な思いやりも、遠慮もいらない。イアイアンがなんと思おうが構まずに、自分の好きにすればよかったのだ。余計なしがらみに絡まれて動けないなら、早々にそれを排除すべきだった。鎖に繋がれた鳥が飛べる範囲など限られている。鎖を取ってやった時、鳥はきっとどこまででも飛べるだろう。
ナナシは清々しい程の笑みを浮かべながら、こぼれた液体をタオルで拭き取った。布に染み込んでくる水の冷たさが気持ちよかった。

自由な鳥はどこへ行く
前 / 次
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -