「あ!ここにいたのかナナシ」

聞こえてきたその声は俺が最も聞きたくないもので、手にしていたものを思わず放り投げてしまった。
床にほったらかしていた毛布、これは俺がキング宅で寝泊まりする時につかっているものだ、に光の速さでくるまって床に伏せる。

「あっもう〜コントローラー大事にしてってば
ナナシ氏。てかもう隠れても無駄でしょ…」

咎めるキングの声など知ったことか。
毛布を掴む俺の手は今にも震えそうなんだ。
俺はいません。諦めて帰ってください。
そんなことを頭で喚きながら息を潜め存在を殺す。
こんなことは無駄でしかないのだが、稼げる時間は稼ぎたい。
しかし俺の必死の行動も虚しく、奴はいつもののんびりした調子で俺に死刑宣言をしやがった。

「いやかくれんぼじゃなくてよ、アレやろーぜ。鬼ごっこ」
「…絶対やだ…!俺は今日はスマブラ以外できねーから…!」
「ナナシ氏、早く復帰してくれないと流石に俺達負けちゃうんだけど」

呻くような声しか出ない。その声が震えないようにするのが精一杯だ。
俺のかわいいしずえは今こうしている間にもサンドバッグにされているのだろう。でもそれどころではなかった。
奴の溜め息が聞こえてくる。そしてベランダの網戸を開ける音もした。
だいたい、非常識過ぎる。玄関に鍵は掛けたしチェーンロックもしたのに。22階のマンションにベランダから入ってくる奴がどこにいる。ああ、ここにいるか。

「ちょ、サイタマ氏!画面見えない」
「あ、わり」

そんな非常識野郎とキングの会話。足音が近付いてくる。
毛布が掴まれた瞬間、意を決した俺は身体に力を込めた。


窓ガラスが割れ、積み上がっていた漫画と食い捨てられた菓子のゴミがブワリと空を舞った。フローリングはメキリと軋み凹み、壁の一部が欠ける。
部屋を衝撃波が駆け抜け、1拍置いて黒い鳥の羽がそこら中に振り撒かれた。
俺が全力で部屋中を逃げ回ったのだ。そしてサイタマがさも楽しそうにそれを追いかけ、俺は注意をしたのだがキングの部屋に損傷を残してしまった。
それらは1秒を何百分の1にもした刹那の時間に起きた。
そしてその刹那の攻防は

「うわっ!??何!?」
「キング氏たすけて!サイタマこっちくんな!!」
「オイ!キングを楯にすんな、続きやろうぜ!」

俺を捕まえんとするサイタマの迫る手に対しゲームに興じるキングを楯に突き出すという形で降着した。

「ちょ…えぇ…なんか壁とか壊れてる…。鬼ごっこなら外でやってってば…」
「やりたくないから必死で逃げたんだよ!キング!ねえ助けて!」
「いや、逃げた時点でそれ鬼ごっこ始まっちゃってるからねナナシ氏」
「た、確かに…」

いやしかしだ。
追い掛けられたらつい逃げたくなる、というのは人の性ではないだろうか…。
まあ…俺はもう人ではないのだけど。

「なあ〜、頼むよナナシ。遊ぼうぜ、退屈してんだよ今日」
「嫌だったら嫌だ。遊びたいならキングと格ゲーしてろ!」
「えー」

俺は怪人だ。
どうして怪人になってしまったのか、切っ掛けは多分怪人に襲われたことだったと思う。
周りの人間が次々に嬲り殺され、次は俺の番だと怪人と目が合った。
怪人の刺々しい触手が俺を掴み、締め上げた。唯一できたことが俺の顔を締め付けていた触手に噛み付く事で。
死にたくない、これ以上痛い思いをしたくない。ここから逃げ出したい。
極限状態の俺は何かに目覚めた。多分、噛み付いたときに怪人の血を飲み込んでしまった事も要因の一つかもしれない。

背に猛禽類のような翼が伸びていた。変化は外見だけではない。
俺は比喩でもなんでもない光速以上の速度で移動できるスピード極振りの不安定な能力を持った怪人になっていた。
その速度を実現するだけの筋力や瞬発力、動体視力なんかはあるが、それ以上はない。
だから、どんな敵からも逃げられるが一方でどんな敵も殺せない。そんな怪人に俺はなった。

「あの、ナナシ氏?そろそろ放して…もうこれ負けちゃったけど」
「あ、悪い…」
「まあ、サイタマ氏もとりあえず座って。お菓子でもどう?」

鬼ごっこの続きがしたくて仕方ないらしいサイタマを制すように、半分くらい中身のこぼれてしまったポテチの袋をキングが勧める。
ああ、キング。お前はなんていい奴だ。
涙がチョチョ切れそうになる。あの地球最強生物と名高いキングが実は何の力もない引きこもりゲーマーだという事実には正直度胆を抜かれたが、俺を怪人と分かってもこうして人として接してくれる懐の深さというか気の持ちようは"キング"の名に恥じないと思う。

「はー、身体動かしてえ気分なんだよ。今度うどん奢ってやるからさ、いいだろナナシ

「うどんで釣られる程安くねーよ」
「ナナシ氏はうどんより蕎麦だもんね

「仕方ねえな、じゃ蕎麦奢ってやる」
「メシなんかで釣られねーって話だよ!」

つまらなそうな表情をサイタマは隠そうともしないが、ポテチにはしっかりと手を伸ばす。
諦めてくれたらしいサイタマにホッとした俺は本能的な威嚇のため伸ばしてしまっていた羽を畳む。
ああ、そこら中羽だらけだ。自分の翼は嫌いではないけど、抜ける羽が鬱陶しいと思うことは多々ある。片付けようにも掃除機で吸うとすぐ詰まるし。

「なんでいっつも勝負してくんねーんだよ、たまには身体動かそうぜ」
「…サイタマだってジェノスとの手合わせやりたがらないだろ」
「…あー…」

ああ、しまった。この返答は絶対に間違っていた。
サイタマの表情を見て俺は一瞬で後悔する。
俺がサイタマと勝負したがらない理由は、サイタマがジェノスと手合わせしたがらない理由と決して同じじゃないし、同じであるとサイタマに勘違いされては困るのだ。

サイタマがこんな風に鬼ごっこという名の勝負を度々挑んでくるようになった切っ掛けは1ヶ月程前のある日の出来事だった。
怪人になってからちょっと経った俺は、怪人としての身体にも慣れてきて、その能力を使って物事を楽しんでいる最中だった。
勿論、悪さなどしたことはない。ただ、海の果てや空の果て、行ってみたかった世界の遺跡や有名な景色をたくさん見に行った。そして自分がどこまでのスピードを出せるかなんて実験も人の迷惑にならない場所で行って感動していた。

ゴーストタウンと名高いZ市の廃墟で飛行を楽しんでいた際にサイタマという男に見つかってしまったのが、運の尽きで悪夢の始まりだった。
人に見つかったと慌てて逃げ出した俺をアイツはどこまでもどこまでも追い掛けてきた。
何百回と迫ってくるアイツの手を必死でかわして、海も森も洞窟も障害物のある場所はどこでも逃げ回り、どうにか振りきろうと必死で飛んだけどアイツを撒くことは叶わなくて。
ついにスタミナが尽きて回避の切れの悪くなった俺を両手で抱えるように捕まえたサイタマは
「お前!すげー速ぇのな!!」
無邪気な子供が最高の玩具を手に入れた時のようなキラキラとした顔でそう言ったのだ。
それからというもの、サイタマは俺に会うたびに遊ぼうぜと鬼ごっこを催促してきた。催促というか強要に近い時も多々あった。

「これで何度目だっけ」
「ん?忘れちまった。10はいってるかもな。お、やる気になったか?」
「なってません」

俺はサイタマと勝負するのが怖かった。
勝負を重ねる度に、サイタマのスピードもスキルも上がっていく。初回や2回目くらいの勝負では疲れてなければ易々回避できた手も、最近は紙一重でかわしているというのが現実だ。
化け物とか最強だなんて言葉が薄っぺらく感じる程のサイタマの圧倒的な肉体の強さは言うまでもないので置いておく。俺は彼の尋常じゃない成長速度が空恐ろしかった。
俺自身も、怪人として過ごせば過ごすほどに速さや身のこなしのキレは上がっている自覚はある。だがサイタマはそれ以上だった。
それは最早、生物としての理を無視しているとも思っていた。

速さにプライドを持っていてサイタマに追い抜かれるのが嫌だなんて、そんな話じゃない。
このままどんどん成長するサイタマが速さで俺を圧倒できるようになったら、俺と勝負するのが楽しみじゃなくなったら

「お前、俺のこと殺す気だろ…」

ボソッと呟いた声はサイタマ聞こえていたらしい。
怪訝な顔をして俺を見る。

「はあ?いやなんでそうなるんだよ」

俺は答えない。
その言葉に嘘はないのか、サイタマの反応を黙って窺った。
しかしあいつの無気力な瞳は言葉の真偽なんて語ってくれはしなかった。

どんな敵であろうと一殴りでそれを肉塊にしてしまえる程圧倒的な力を持つサイタマはその力故、ヒーロー生活で刺激を得られず退屈さと常に戦っている。
そんなサイタマが唯一、本気で相手をしても勝てないのが俺だ。それはスピードという一点に置いてのみの話だが、サイタマにとっては妥協の範囲内らしい。
だからこそ、俺は怪人でありながらヒーローであるサイタマに生かされている。
そんな風に繋いでいる命なのに勝負に負けてサイタマが俺に飽きたなら…。考えたくもない。
俺にとってこの勝負はデスレースでしかないのだ。

「とにかく!今日は俺体調悪いから勝負はしないぞ」

そういってまた毛布を被って、キングの隣で三角座りをして丸くなる。
無駄に体格だけはいいキングは調度いい塩梅にサイタマから俺を隠してくれる。静かだと思ったら今度は携帯機ゲームに興じているらしい。モンスターを育てて戦わせるやつだ。

「あーあ、わーったよ。じゃあ俺今日は帰るわ。今度絶対勝負しろよな」

暫く黙っていたサイタマだったが、大人しく引いてくれた。
強硬手段を取られるのではと内心ヒヤヒヤしていたのでホッと安堵の溜め息が出た。
因みに強硬手段というのは、俺の背から伸びる羽の付け根をまさぐられる事だ。密集して生える羽がフワフワでやってる側は手触りを楽しめるのだろうが、俺は最悪だ。めちゃくちゃこそばゆい。俺がもんどりうって逃げ出す程それが苦手なのをサイタマにバレた時はそのまま鬼ごっこに突入した。
味をしめたらしいサイタマは何度かそれを繰り返したが、キレた俺が口も利かなくなり流石に悪いと思ったのか最近はやってこない。

「あ、キング。この前のゲームクリアしたからなんかまた新しいの貸してくれ」
「ああ、あれクリアしたんだ。じゃあ続編のやつ貸すよ。俺もうやんないし、データ消しちゃっていいから」
「サンキュー」サイタマと話ながら立ち上がったキングの残していった携帯ゲーム機を勝手に覗く。レベル1縛りで四天王に挑んでいるらしい。これは下手に弄れない。
手持無沙汰になって、床にゴロリと転がった。サイタマがまたベランダへ歩いていくのが視界に入ったが、目を合わせたくなくてやってもいないゲームに夢中になる振りをした。

「じゃーな。また来るわ」
「うん、バイバイ。サイタマ氏」

去り際にサイタマが小さく溜め息を吐いた気がするが、気のせいだ。
溜め息吐きたいのはこっちなのだ。

「ナナシ氏、ほらゲーム返して」
「ああ」

ゲーム機をキングに返して、眺めるものもなくなった俺はその辺に落ちていた漫画を手に取る。
部屋を見渡せば抜け落ちた羽が目に付いた。後で掃除しなきゃ。
だがすぐに掃除する気分にはなれずに寝そべったまま漫画を開いた。

「さっきの事だけどさ、別に心配しなくていいと思うよ」
「なにが」
「サイタマ氏がナナシ氏を殺すって話」
「慰めてくれんの?キングは優しいな」
「いや、マジだって」

キングはそう言ってくれるのはとても有り難い。それが俺にとっては全く信じられない戯言でしかなくっても気遣いが嬉しかった。
いつまでこうやってのらりくらりとサイタマとの勝負を、彼への敗北を先伸ばしにできるか分からない。
俺はこうしてキングとダラダラ自堕落な生活をしているのが好きだが、それもいつかは終わるのかと思うと感傷的になりそうであまり考えたくなかった。

「あーあ、サイタマを倒せるような怪人現れねぇかな」
「いやぁナイナイ。ていうかサイタマ氏が負けるような怪人が出てきたら地球終わるよ」
「あー…それはダメだわ」

そんな会話をしながらも、寝転がっていたらなんだか眠くなってきた。
先程少し部屋で暴れたせいだ。ごめん、キング。部屋の掃除は起きたらやるわ。

「報われないねえ、サイタマ氏」

ボソッと言ったキングの言葉は眠気に支配されつつあった俺の頭で処理されることはなかった。



逃走の結末から背を向ける
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