彼がここへ現れたと聞いた時、ついに来たる時来たのだとナナシは覚悟を決めていた。彼に散々責められ恨みの言葉を吐かれながら殺される覚悟を。
仕方がないとも当然の報いだとも思っている。それだけの仕打ちをナナシは、ナナシ達は彼に対してやってきた。今でこそ足を洗ってしけたたこ焼き屋などを営んでいるが、過去も彼の恨みも拭う事はできない。


実験体サンプル66号が帰ってきた。
材料の買い出しに街に出ている時にアーマードゴリラから電話でそう連絡を受け、それからはまさに13階段を昇る絞首刑囚のような気持ちで帰ってきた。10年振りの再会に果たして彼はなんと罵倒してくるだろうか、それともゴミを見るような目で拳銃のトリガーを引くのだろうか。
そんな事を鬱蒼と考えながらゆっくり時間をかけて帰ってきた。
それなのに



「…本当にいいのか?」
「何がだよ。」
「その、俺や博士を殺さなくて…」

随分と大人びたものの、10年前と変わらない赤い瞳を面倒臭そうに細めて彼は「別に。」と言った。

「それとも、なんだよ。アンタ俺に殺されたかったのか?」
「そうじゃないけど…お前は復讐に来たんだろ。だったら」
「もう研究は止めたんだろ。博士から聞いた。アンタらの"研究が負けた"そうじゃねえか。」
「ああ。あれから博士は研究も野望も馬鹿馬鹿しくなっちまったみたいで…もう研究はしないって。施設も潰れた。」
「アンタはどうなんだ?」

向かいに座った男、ゾンビマンは短くナナシへ問うた。
当然訊かれるだろうと思っていたが、それについて余り答えたくない嫌な問いだったためナナシは少しギクリとした。

「…俺も博士と同じだよ。」

とりあえずそう答えておく。
正直に言って、今も昔もナナシにとって研究や博士の理想はどうでもよかった。10年より長い間ジーナス博士の助手として暮らして来たが、別に博士の云う新人類だの進化だのに同調していた訳じゃない。寧ろ、この人いい歳して何言ってんだ、くらいの事を思っていた。
ただ、生まれ持った天才的な頭脳を持て余していたナナシをジーナスに拾われただけ。居場所のなかったナナシに研究という手応えのある暇潰しと衣食住を提供してくれたから、進化の家に住み着いて研究に従事していただけ。飼われていたと言い換えてもいいかもしれない。
とにかく、ナナシには確かに人並み以上の知的好奇心は持ち合わせているものの、博士のような良くも悪くも殊勝で大それた野望やマッドサイエンティストじみた異常な好奇心も持っていなかった。
それ故、進化の家の最強生命体がとある現人類に敗れた事にも研究が完全に終わってしまった事にもさしてガッカリはしていなかった。これから自分の衣食住をどうしようかという心配の他は何の感慨も沸かなかった。

またそれ故、自分は博士よりも質が悪いと思っている。
特にこのゾンビマンに対しては、ある意味博士以上に酷い事をしてしまった。
"ただ博士に飼われたついでに"
"何の目的意識も強い探求心もなく"
ナナシはゾンビマンを実験体として弄び続けたのだ。正確には彼が如何に不死身であるかを検証する実験に直接立ち会ったりはしなかったが、実験データを取ったりそこから考察と今後の実験について博士と議論したりと、結局ゾンビマンを実験体扱いしてきたのには変わりはない。
そんなナナシの生半可な志がバレるのを恐れナナシはまた嘘を言う。

「残念だったよ。研究を台無しにされて、そりゃ悔しかった。」
「へえ…。」
じっとりとした赤の視線から目を逸らし、アーマードゴリラが出してくれたお茶を一気に飲み干した。さながらそれは自棄酒を煽る中年男のようだと自分でも思った。 やがてその訝るような視線は外され、ゾンビマンは溜め息混じりに

「…ま、簡単に言えば萎えたんだよ。アンタらのそんな面見たらな。」
「萎えたってそんな…。」
「復讐なんて馬鹿馬鹿しくなっちまった。」

どうやら本当にゾンビマンはナナシを殺す所か危害を加える気もないようで、ナナシはやはり狼狽してしまう。納得がいかない。それは何か間違っている気がする。
そしてそんな釈然としない感情に、自分の心の内にゾンビマンに対しての消しがたい罪の意識がこびり付いているのだと改めて気付かされる。
それは彼がいなくなってから10年間、ずっと身の内で飼い慣らし肥大化させてきたものである事も。

「…やめてくれよ…。」

呻くようにナナシは言った。

「殺されたって文句言えないんだ、俺は。憎いだろ?憎んで当然さ。」
「…潰してやろうと10年間追っかけるくらいにはな。」
「で、遂に追い詰めたんだろ。だったら…」
「研究は止めてたこ焼き屋やってんだろ。もう用はねぇよ。」

ブスリと爪楊枝をプラスチックパックに入ったたこ焼きの一つに刺して、ゾンビマンは淡々とした口調でそう言った。
納得出来ないというように顔を歪めるナナシをチラリと見遣って

「意外だな。いや、予想はしてたが…そこまでだとは思わなかった。」
「何がだよ…。」
「つまり、アンタは俺に殺されでもしなきゃ気が済まない程罪の意識に駆られてるって事かよ。」

ナナシは口を噤んで押し黙った。
その通りその通り。まさに図星だ。
10年以上前、ナナシはゾンビマンにとって兄貴分。また、ジーナス博士が産みの親だとしたらナナシは育て親のような存在だった。
今自分が言える立場ではとてもないし果たしてゾンビマンがそう思っているのかは定かではないのだが、少なくともジーナス博士はこう評していた。
歳はナナシの方が3つ上。ナナシは幼かったゾンビマンとよく遊んでやった。本を読み聞かせてやったり、文字や数理学の基礎を教えやったり。
不死身シリーズで唯一人間らしい容姿と知性と生理機能を備えた貴重なサンプルであるゾンビマンにジーナス博士が重視する"品性"を植え付けようと教育係りにナナシを任命したのがそもそもの始まりだった。
初めこそ博士の命令で余り気乗りのしないゾンビマンとのやり取りだったが、ナナシはゾンビマンを弟分として可愛がるようになった。
ゾンビマンはなかなか賢く、スポンジのように知識を吸収していくのも面白かったし、自分が育てているという新鮮な実感が湧いた。それにこんな風に真っ直ぐに誰かから慕われるのは当時のナナシには初めての経験で、ちょっぴり兄貴風なんて吹かしてもみたものだ。

しかし、そんな関係を作って置きながら一方でジーナス博士と共にその弟分を実験体として扱ってきたのだ。
それは裏切り行為に他ならない。表では兄貴面をしておいて、その面の下で次はどんな実験をしようなどと考えている。そんな最低で汚い行為をし続けた。
ジーナス博士はゾンビマンを御し易くするための飴鞭の飴としてナナシを使っていたのだろう。ゾンビマンを進化の家に縛り付けるためにナナシに懐かせたのだろう。
ジーナス博士もなかなかだが、本当のクズはそんな博士の思惑にうっすらと気付きつつも兄貴面したいが為にゾンビマンと"兄弟関係"を続けたナナシの方だ。


「そうだよ…。」

ナナシは俯きながら重々しく口を開いた。

「殺せ、殺せよ。俺は許されない事をしてきた。そもそも、俺が此処で研究や実験をしてきたのだってただの暇潰しと衣食住の保証に食い付いただけなんだ。高尚な思想も目的もあったもんじゃない。そんなクズに騙され続けて、裏切られて、悔しいだろ?!憎いだろ!?」

さっさとその外套の内に隠し持っているだろう拳銃の引き金を引いて欲しかった。
なのにゾンビマンは赤い瞳でナナシを見据えながら黙っているばかりだ。そんな様子のゾンビマンにナナシは縋るようにテーブルに手を付いた。先程お茶を一杯飲み干したというのに喉が渇いて仕方がない。

「なあ、頼むよ。俺は死ぬ事以外でお前にどう償っていいのか分からない。あれだけたくさんお前を殺して苦しめてきたんだ。お前に殺される事でしか俺は…」
「ふざけるなよ。」

乞うようなナナシの言葉をゾンビマンは強い口調で遮った。

「そりゃ無責任な自己満足だ。俺を死ねない身体にしておいて、アンタだけ死んで楽になろうなんて俺が許すと思うか。殺してやるもんかよ。断固お断りだ。俺はただ…」
「なら、どうしろってんだよ!どうしたら俺はお前に償える?!それともこの咎と罪意識を背負って苦しんで生きろって言いたいのか?それでお前に償えるなら俺は…」
「違ぇよ。んな事を言ってるんじゃねえ。」
「じゃあ何だっていうんだ!ハッキリ言ってくれよ!」
「ったく、アンタ全然分かってねえな!
いいか、俺はアンタが思う程アンタを恨んじゃいない。」

は?
意外な言葉にナナシは一瞬動きを止めた。

「…嘘吐けよ…。」
「嘘なんか吐くか。アンタ歳食って被害妄想激しくなったんじゃねぇか?」
「俺はお前を騙していた…。」
「あのなあ、俺がいつまでもアンタの立場を理解できないガキのままな訳がねえだろう。アンタとの関係はジーナス博士が仕組んだ、俺の暴走を防ぐ予防策だって事くらい8つの頃には悟ってた。その上でアンタと接してた。」

ナナシは驚いてゾンビマンを見つめる。赤い瞳は呆れたようにナナシを見つめ返すばかりで、ナナシは何も言えなかった。

「昔の俺だって馬鹿じゃねぇよ。どっかの誰かが知識も常識も詰め込んでくれやがったせいでな。」

そのどっかの誰かは間抜けに口を開いたまま、自身の記憶を探ってみる。あの頃ゾンビマンは二人の関係についてそんな風に言及した事があっただろうか。

「それに、騙してたっていうなら俺もだしな。」
「は…どういう意味…?」
「俺が何も知らねぇで懐いてると思い込んでるアンタが俺に対して悪いと思っている事に気付いてたが、俺は何も言わなかったし気付かない振りしてた。」
「なんで、言わなかったんだ…?」
「昔の事だからよく覚えてねぇが、多分偶にはアンタも苦しめくらいの事、子ども心に思ってたかもしれねーな。」

ナナシは絶句した。
あの頃の、10才そこらの可愛かったゾンビマンは決して純粋無垢ではなかった。何か10年来抱いてきた前提が根底から覆されるような、そんな音がした気がした。

「まあつまり、その辺はお互い様って訳だ。」

そんなゾンビマンのあっけらかんとした言葉。ナナシは呆然と、その言葉が事実なのか目を泳がせながら考える。
ゾンビマンが嘘を言っているようには見えない。彼がそう昔の自分について語るならそれは事実以外の何物でもない。
だったらこの10年間に抱え込んできた罪悪感は何だったのか、とは思わなかった。
そんな事よりも

「…そんな…ロク、お前あんな無邪気な目をしてたじゃないか…。」

ガックリとうなだれてそう呻いた。
少年は人間離れした綺麗な赤い瞳を輝かせてナナシを慕っていた。同じベッドで寝てやった事もあった。博士の目を盗んでは少年と他愛もない話をして。
誰よりもその少年と親しく付き合ってきたにも関わらず、此方の抱える葛藤を知られていたと、彼がそんな歪みをその目に潜めていたと、気付けなかったのが情けない。
裏切りだとは思わないしそれについて怒っている訳ではないが、ただ、普通にショックだった。

「ロク、か。懐かしいな。」
「あ…わ、悪い…。」
「はあ?何がだよ。」
「…嫌だろ…そう呼ばれるの。」

つい口に出してしまった言葉はゾンビマンの、謂わば渾名だった。
実験体サンプル66号。長いからナナシは"ロク"と呼んでいた。

当時も思ったし今も思うが、なんの捻りもない安直なネーミングである。けれどゾンビマンはその渾名を嬉しがってくれた。
だが、その安直な渾名を呼ばれていた頃というのは勿論進化の家で実験体として非人道的な人体実験に付き合わせれていた頃な訳で…

「あの頃の事なんて思い出したくないだろ…。それなのに」
「んなもん、一々気にしねぇよ。」
「だけど」
「というかな。あの頃が思い出したくないものかどうか、アンタが勝手に決めんな。嫌な事もあったが、良いこともあった。今だってそうだし、生きるなんてそういうもんだろ。
って俺に言ったのはアンタじゃねぇかよ、ナナシ。」

今日初めて彼から名前を呼ばれた。それは勿論10年振りの出来事だった。
呼ばれる事はもう二度とないと、呼ばれたとしても殺意と憎しみの籠もった声でだと思っていたのに、たった今鼓膜を震わせたゾンビマンの声はそんな予想に反して優しかった。呆れと気恥ずかしさ、でも確かにそこには昔と変わらない慕情の念が込められているようで、そんな不意打ちにナナシは目の奥が熱くなるのを感じた。
しかしそれを押し殺すような反論をする。

「お互い様な所があったのは分かった。お前があの日々を…その…そこまで嫌ってなかったってことも。だけど俺が、俺達がお前にした事は変わらない。実験体として数え切れないくらい殺して、苦しめてきた。本当に…済まない。でもこんな謝罪で赦される事じゃ…」
「だから、グダグダとアンタが悩む程俺は気にしてねえっつってんだよ。」
「でもそれじゃ俺の気が済まない…。どう償えばいいのか俺は」
「ったく黙れ!本っ当に面倒臭ぇ奴だな!」

痺れを切らしたようにゾンビマンが声を荒げた。ダンとテーブルを叩いて立ち上がる。
そんなゾンビマンの突然の行動にナナシは驚き、その拍子に目の奥の熱がスッと引く。

「分かったよ!アンタが其処まで気に病んでしょうがないってんなら、被害者としてアンタに請求してやるよ!
まず俺に償うだなんだとか二度と口にすんな。その事で変に俺に気を使うのも止めろ。いいか、これは被害者側の命令だ。償いたいってんならこの命令に背くな。分かったな?!」

ゾンビマンの剣幕に圧されてナナシはぎこちない頷くよりなかった。

ゾンビマンはそこで疲れたように大きく溜め息を吐く。立ち上がったままに頭を垂れてブツブツと、誰に向かって言う風でもなく零し始める。

「…つーかよ、なんで俺が気を使う羽目になってんだよ。なんで察せねぇんだ、本当に相変わらずだな。そんなだからあの頃だってガキの俺にすら…。立場逆になってんじゃねえか。なんで俺の本心くらい汲めねえんだよ クソ…。兄貴の癖に…」

ナナシに聞こえるか聞こえないかくらいの、極小さな音量で影を落としたような顔で紡がれたそれらはまるで呪詛のようだった。
そんな呪詛の中の聞き捨てならないワードを拾ったナナシはまたも間抜けに口を開けた。
今、まさか"兄貴"と言ったのか?彼は…ロクは…。
兄貴なんて言ってくれたという事は、まだロクはナナシを兄貴分として認めてくれていると解釈してもいいのか?

「もういい。今日の所は帰ってやる。」

頭の整理を付けるべく動きを停止させてしまったナナシを一瞥してゾンビマンはそのまま帰ろうとする。
たこ焼きの家と書かれた暖簾を付けた屋台の陰で実はひっそりと息を潜めていたアーマードゴリラに「帰るからな」と一言投げて、ナナシの方は振り返りもせずに歩き出す。ゾンビマンは未だにナナシを好いていてくれている。
それは只の希望的観測ではなく、先程からの会話とブツブツと述べられた愚痴のような呟きから導き出される結論だった。
常人の何倍も優秀なナナシの頭脳がこの数十秒間に何十回と考察した結論だった。
正直とてつもなく信じ難い。研究における自分の判断が間違っていた事は一度もないし、またその研究者としての直感や洞察の優秀さは自負していたが、今回ばかりは自分の判断に自信が持てないでいる。嘗ての研究対象だった彼の言動についてであるのに可笑しな話だ。
だが

「ロク!!」

意を決したようにナナシは叫んだ。

自分の判断は未だに信じられないが、ゾンビマンの言う"命令"とやらは聞かなければならない。
"俺に償うだなんだとか二度と口にすんな"
"その事で変に俺に気を使うのも止めろ"
こんな命令とも云えないような事をわざと命じてくれた、彼なりの主張を信じてやらなければいけない。

「あのさ…。また、いつでも帰って来いよ!…茶くらい出すからさ。」

叫んだ声が震えないように精一杯で、兄貴が弟に掛けた声とはとても思えないくらい尊厳も落ち着きもない情けない声になってしまった。
足を止めたゾンビマンは一瞬此方を振り返ろうとしたが、またそのまま歩き始めた。代わりに背を向け歩きながら左手をヒラリと振ってみせた。
随分と気障ったらしい別れの挨拶を覚えてきたものだとナナシは思ったが、遠ざかる彼の短く刈った黒髪の隙間から見えた耳が赤いように見えて、ナナシは小さく笑った。

「はは。照れてやがるよ、ロクの奴。」

そんな独り言を零すナナシはナナシで頬どころか目元まで赤かった。
それをしかと見てしまったアーマードゴリラはというと、この一部始終を博士に報告すべきか否か真剣に悩み始めるのだった。

贖罪なんて要らないから
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