「久しぶり、ちょっとキッチン貸してくれ。」
「帰れ。」

ガロウは勢いよく扉を閉めた。安いアパートのボロ扉が衝撃で軋んだ嫌な音を立てる。しかし閉めたはずの扉の隙間からは未だに外の光が入り込んでいた。原因は言うまでもない。扉を隔てた向こうにいる人物が足を挟み込んでいるのだ。迷惑なガッツのあるセールスマンの如く、扉と枠の間に廃れたスニーカーに包んだ足をドアストッパーよろしくねじ込んでいる。

「ケチケチすんなよ。減るもんじゃあるまいし。」
「ふざけんな!テメェぶっ殺して…」
「邪魔すんぜ。」

ガロウの文句と脅しが終わる前に扉は開けられてしまった。いとも容易く扉は外側へ引っ張り出され、ガロウもそれに引きずられるようによろけ出た。踏鞴を踏むガロウとすれ違うように、勝手に部屋の中へ上がり込んで行く男。それを尻目にガロウは盛大に舌打ちをした。

勝手極まりないこの男、ナナシはガロウの兄だった。7つ年の離れた彼との接点はあまりなく、この男の姿を直接見たのだってもう何年振りかというくらいだ。そんな男が突然自宅にやってくるとは。心当たりは一つしかない。
ガロウは睨みを利かせながら酷く不愉快そうな声で言った。

「俺を殺しにきたのかよ。ヒーローさんよぉ。」

兄ナナシはガロウの大嫌いなヒーローだった。C級、それも200位から100位の間をうろうろしているような程度の低いヒーローだが、それでもヒーローということには変わりない。こいつもヒーロー狩りの一貫として狩ってやろうか。
敵意を剥き出しにするガロウに対して、ナナシは何の事?とでも言いたげに首を傾げて

「昼飯まだだろ?炒飯作ってやるから食え。」

そんなことを言ってくるナナシにガロウは肩透かしを食らってしまった。一瞬遅れで「ふざけんな」と反論しようとしたガロウだったが、ナナシはすでに手に持っていたレジ袋の中から野菜を取り出して勝手にシンクを使って洗っている。
数年振りに会ったと思ったらいきなり料理を作り始めるとは。意味が分からない。
呆れ果てたガロウは、言っても無駄だろうとナナシを放って置くことにした。さっきまでそうしていたように居間の床に寝転んで、雑誌を広げる。
兄の目的はまるで分からないが、あんなC級程度のヒーローがいきなり襲ってきた所で返り討ちにするだけ。それにナナシに敵意も見受けられないから無視していても問題ないだろう。
野菜を洗う兄の後姿をしばらく鋭い眼光で睨んでいたガロウも、ついにはそう思い雑誌に集中し始めた。







昔から、よく分からない兄だった。
7つも歳の離れたナナシはガロウが中学に入学する頃には家を出てしまっていた。ガロウが小学生の頃だってナナシが家にいることは少なく、彼を目にする機会はあまりなかった。友人の家に泊っているのか家には帰ってこないし、帰ってきたとしても深夜で朝にはもう出掛けてしまう。放任主義の両親はさしてそれを気にした様子もなく、ナナシがまともな出席日数と成績を取ってさえいれば文句は言わなかった。ただ、ナナシが学校で問題を起こして呼び出された日は流石にナナシを叱っていた。それでもナナシは上の空でどうでもよさげに項垂れながら叱責の言葉を受け流していたが。
小学生の低学年時からすでに怪人になる決意を固めていたガロウからすれば、そんなアウトローで問題児な兄はどちらかというと好感が持てた。いや、憧れすら抱いていた。
ガロウの見ていたジャスティスマンのテレビを横から眺めてポテチを食べながら心底うんざりしたように「くだらね」と漏らした時も、ガロウが自分は怪人になりたいのだとこっそり打ち開けた際、「なればいんじゃね」と否定しないでくれた時も、ガロウはこう思ったものだ。
もしかしたら兄も自分と同じなんじゃないか。ヒーローという仮面を被った醜いエゴイストが大嫌いなんじゃないか。
しかしそれは自分の勘違いだったと、ヒーロー協会などというふざけた組織ができた時に悟った。兄がその協会に所属してヒーローをやっていると知って、あの時の憧れは煙のように消え、代わりに裏切られたという負の感情が湧いてきたものだ。
しかし面を付き合せなければどうでもよくなってくるものなのか、怪人になるための毎日の特訓で忙しかったからか、こうして久しぶりに会った今、これと言って強い憎しみも殺意も沸いてこなかった。気だるげな世の中の全てが面倒くさいと言わんばかりの雰囲気が昔と変わらずで、全くヒーローらしくないだろうか。
それどころか、あの兄がこうして普通に自分と接しているのを嬉しく思っているような。兄弟は兄弟なのかもしれない、とらしくもないことをしみじみ思っている自分に気付いてガロウは舌打ちと共にそれを打ち消す。

「ガロウお前、ヒーロー狩りやってんだって?」

単刀直入過ぎる言葉にガロウは思わず振り返った。しかしナナシは先程と同じようにトントンと小気味良い音を立てて野菜を切っているだけである。その様子は別段変わった様子もなく、思えばその口調も「今日、誰それと会ったんだって?」というようなどうでもいい世間話をするような物だった。

「テメェみてえな末端にも情報が行ってるとはな。それともあれか?テメェが俺の…」
「それで、何人狩れたんだ?」

挑戦的な言葉を遮って、放たれたナナシの言葉にガロウは一瞬黙ってしまう。
こいつは一体何を考えている?
相変わらず平坦な口調で、それこそ苺狩りの成果でも尋ねるような言葉を吐く兄が理解できなかった。ヒーローのくせに、同業者がやられて何とも思っていないのだろうか。
ナナシは切り終えたらしい野菜を脇に避けて、スーパーのレジ袋を何やらごそごそ漁っている。パックに入ったひき肉を片手にナナシがガロウを振り返る。「なあ、何人だってば。」

「…4人。」

促されたガロウはぼそりと答えた。ナナシはそれにふうんと頷くと、また調理の作業に戻っていく。

「ふんふん。4人ね。それでガロウは怪人になれた?」

さらりと言い放つ兄がやはり理解できない。説教でもするつもりか。皮肉でも言うつもりか。読んでいた雑誌を閉じたガロウはナナシの背を睨む。

「…何が言いてぇ。」

油の弾ける音が響き、それから肉の焼けるいい臭いが漂った。
殺気の滲む視線を背に受けてもナナシは全く動じず、菜箸で鍋の中をかき混ぜている。

「その様子じゃなれてないっぽいな。お前は詰めが甘いからなあ。ちゃんと殺したの?」

さらりと言い放ったナナシのその問いにガロウは耳を疑った。
こいつはさっきから、なぜ仲間が殺されてもどうでもよさそうな発言ばかりしているのだろう。C級といえどもヒーローとして協会に所属しているこいつが、なぜそんなことを言うのか。普通逆じゃないのか?「まさか殺していないよな?」と言うべき所じゃないのか。

「なあ、殺したのってば。息の根止めた?頭と胴体分断した?人間って脆いようで結構しぶといからな。」

なおもしつこく訊いてくる兄をガロウは睨んだ。

「俺はヒーロー気取ってる連中の鼻っ柱へし折りってやりたいだけだ。奴らが死んでいようがしぶとく生きていようが、どうでもいい。」

ナナシはヘェと落胆したような返事を寄越して、それからは料理に集中し始めた。冷蔵庫から勝手に冷や飯を取り出し、フライパンの中にぼとぼとと溢していく。その動きはプログラムされた機械のようで薄気味悪い。もう会話をする気はないのか、それ以上兄が口を開く様子はなかった。無言の背中をしばし睨み付けた後、ガロウは舌打ちをして再び雑誌に目を落とした。








ガロウが身体の不具合を感じたのは、それから3時間程後になってのことだった。


「なんだ、やっぱり効いたの?もしかしてもう効かなくなってるんじゃないかって期待してたんだけどな。」

ナナシは漫画を読む手を休めてそんなことをさらりと宣った。心配するでもなく、想定内のことのような口振りでそう言ったナナシにこいつのせいかとガロウは瞬時に悟った。

「何、しやがった…」
「何って、炒飯にフグの肝臓いれてみたんだ。おいしかっただろ、アレ。」

フグの肝臓?猛毒じゃねぇか!有り得ねぇ。こいつ料理に毒盛りやがったのか。
罵倒の言葉を浴びせようとしたガロウだったが、その言葉は出て来なかった。口や唇が麻痺して動かない。その痺れはどんどん身体に広がっているようでガロウは胡座をかいた状態ですらいられなくなり、床に崩れ落ちた。
自分が這いつくばっているのに気付いたのは目の前に兄の足が見えたからだ。精一杯の気合いでガロウは頭を持ち上げ、そこに突っ立っている兄をあらん限りの憎しみを込めて睨んだ。
しかし兄と目が合った瞬間、ガロウは腹の底が気持ち悪く引き締められるような感覚に襲われた。
死に掛けの虫けらでもみるような熱のない目をしていた。弟に毒を盛ってその毒で弟が苦しんでいるというのに、心底どうでもよさそうな顔をしていた。毒殺が成功しかけているのを喜ぶでもなく、ただただ冷たい瞳でガロウを見下ろしていた。

「フグ毒ってさ、意識なくならないんだよな。」

踵を返したナナシがどこかへ行ってしまう。そのまま帰るのかと思いきや、ナナシは戻ってきた。それもその手に包丁を握って。

「心臓も脳も麻痺しない。でも呼吸筋は麻痺する。その結果どうなるか分かるか?」

平坦な口調でそう尋ねるナナシをガロウはただ睨むことしかできない。

「意識があるまま、呼吸できない苦しみに悶えて死の恐怖に震えながら死んでいくってこと。ええと、毒の名前は忘れちまったな…。ああ、致死量は2mgだって。あれには何グラム入ってたんだろうな、あの肝臓。そうそう、あのフグ俺が素手で捕まえてきたんだぜ。クサフグって言うらしい。ガロウ、お前よかったな。死ぬ前にフグなんて食えて。俺も初めて食べたよ。」

突っ込み所が多過ぎる台詞をベラベラと喋る兄が、人間ではない別の生物に見えて仕方がなかった。
ナナシの言葉通りに麻痺が進んできているのか、だんだんと呼吸が浅くなってくる。肺が求める酸素を必死で取り入れようともがこうとしたが手足も口も全くいうことを聞いてくれない。

「苦しそうだな。」

増してくる息苦しさの中で、兄が自分の顔を覗き込んでくるのが分かった。相変わらずどうでもよさそうな口振りだ。手の中の包丁を弄びながら、それこそ猛毒を投与した実験動物を観察しているような目でこちらを見つめていた。
身体さえ自由ならば今すぐその顔面を蹴り砕いて叩きのめしてやるのに。

「お前が悪いんだぞ、ガロウ。なんで俺を家に入れちまうかなあ。」

勝手無理矢理に入ってきておいて何言ってんだ。

「しかも俺の作った飯なんかなんの疑いもなく食っちまってさ。俺だってあの協会に所属してる身なんだぜ?こういう事態の想定くらいしなきゃ駄目だろ。」

ヤレヤレと言わんばかりの口調で一人語るナナシをガロウはただ茫然と見つめた。
兄は自分を殺そうとした。それも協会に所属するヒーローとして。
それはガロウにとって酷い裏切りだった。怪人になりたいという自分の夢を否定しないでくれた兄。問題を起こすわ、良識に逆行した行動と態度ばかり取るわでお世辞にも正義の味方とは言えない性格をした兄。
ヒーロー協会に所属しているのだって、どうせ憂さ晴らしに敵を潰すだけで金を貰える楽な仕事だとかそんな動機しかなくて、協会内で問題児扱いされているのかと思っていたのに。
俺を殺すのか?協会に味方して。多数派という偽りの正義を振りかざして嫌われ者の少数派を潰そうというのか?
俺はお前の弟だっていうのに?

「あ。兄弟だからまさか自分を殺すことはないだろう、なんて思ってたのか?」

図星を指されてガロウは息を飲んだ。実際は毒でそんなことはできなかったのだが微かにその瞳孔を開かせた。
それを見ていたナナシは、長く重たい溜息を吐いた。わざとらしい程の溜息の後、ナナシは「馬鹿だな。」とぼそりと溢した。

「怪人になりたいんだろう?お前は昔から言ってたよな。怪人は兄弟なんて、同じ女の腹から生まれたってだけの他人を特別扱いしないだろう?だから怪人になりたいなんて言うお前がそんなもの求めちゃいけないんだよ。」

手にした包丁をくるくると手の中で弄びながら、平淡な口調で言葉を投げ続ける。

「俺が憎いか?憎めよ、沢山。憎しみや怨みは怪人化の要因の一つらしいぜ。でもお前には無理かもな。そんなあまちゃんじゃ、怪人にはなれねぇよ。絶対。精々怪人のコスプレだ。」

言っている意味がわからない。目の前で自分を殺そうとする男が本当に兄なのかすらわからなくなってきた。
違う。こんなの兄貴じゃない。俺の兄貴は……


「お前は口ばっかりで中途半端なんだよ、ガロウ。いや、お前が善悪を語る時点でもう駄目だ。お前は怪人になりたがるくせに、ちゃんと惻隠の情とやらを持ってんだから。なあ、なんで良心とか常識とか道徳心とか、俺じゃなくてお前が持ってんだ?ずりいよ。ムカつく。」

喋り続ける男の声が遠くなる。
朦朧とした意識、霞む視界の中見た男の目はガロウが成りたくて止まなかったはずの怪人のそれだった。
成りたかった怪人のはずなのに、どうしてこんなにも恐ろしいと思うのだろう。
本当に、俺は怪人になりたかったのか?

「だからさ。お前を殺して食いでもしたら、俺にもそういうの、身に付くのかな?」

死にたくない。誰か助けて。
暗転した世界のなかで叫んだ言葉はガロウの口から発される事はなかったが、目の前の怪人が酷く愉快そうに笑ったような気がした。

助けて、ヒーロー
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