短編 | ナノ




足取りは重い。まるで鉛を付けて歩いてるような気分だ。茹だるような暑さの中響き渡ったピストルの音と共に開始された真夏のマラソン大会は正に地獄という一言に尽きる。喉は乾くし滝のように流れ出る汗で体操服はびしょびしょだ。休憩地点まではまだ数百メートルもある。ゴールまでを考えると倒れてしまいそうになる。いやいっそのことこのまま倒れてしまえばいいのではないか、そんな妙案が浮かんだが公衆の面前で恥を晒すなんて到底出来はしない。ため息を吐きつつ諦めて走り続ける私の前に鉄板のように熱いコンクリートの上で、こんな公衆の面前で堂々と倒れ込んでいる人物がいるではないか。よく見れば身体中から煙のようなものが出ている。どうして誰も気付かないのか、私は辺りを見回したが直ぐにその答えは出た。皆関わりたくないのだ。倒れている人物に気付いてはいるものの障害物を避けるようにきれいに避けて何も見なかったように走り去っていく。それが賢明な判断だろう。誰しも面倒事には巻き込まれたくないものだ。あたしも前を走る人に倣い通り過ぎようとした、が。どうしても気になり元から遅いスピードを余計に落としてその人の近くを通った。すると今にも死にそうな声で、「み…み、ず」と切実に訴えているではないか。私は途端に良心が痛み、倒れた人物の腕を掴むと近くの土手に引っ張った。



「お〜い、大丈夫か〜?」

自販機で買ってきたお茶を頬に付けてやれば今までぴくりともしなかった人物、いや、男の子が初めて目を開けた。意識が朦朧としているのだろうか。焦点が合ってないどころか右目は右上を、左目は左下を向いている。なんて器用な奴だ。

「お〜い」

目の前で手をひらひらと振ってやると漸く私の存在に気付いたようで、目を丸くしていた彼は次の瞬間号泣した。

「あ、あ、あ、ありがとうございます、ありがとうございます!貴方がいなければ僕は今頃干からびたうんこのように道路に転がってました…!」

すごい表現だな、と関心しているとまるで目の前に丁度良い具合の白い布があるから拭いちゃえというような自然な動作で人の体操服で鼻を噛んだこの少年に拳骨をお見舞いした。体操服は色んな水でぐしょぐしょになった。

「で、君」
「ヒビキです」
「…ヒビキ、君はどこの子?家わかる?」
「わかりません」
「………あ、私マラソンの途中だった。じゃあ後は頑張って」
「まって下さい!!!」
「あべし!」

ヒビキが立ち上がった私の足を掴んだせいで私はそのまま地面に全身を強打した。助けてやった恩人にする態度かこら。

「ちょっと、君」
「僕、本当に家がわからないんです。」
「…はぁ、」
「ヒノアラシ達もいないし、ここが何処かもわからないし」
「…へぇ、」
「暑さで倒れてても皆素通りするし」
「そりぁね」
「こんな世知辛い世の中で唯一手を差しのべてくれたのがお姉さんなんです!」
「…ほぉ」

だから助けてと言わんばかりに涙で潤んだ瞳を私に向けてくるヒビキ。でもね、人生そんなに甘くないの。見ず知らずの人間を面倒見るなんてそんな馬鹿に親切な人この世の中にいるもんじゃない。私はため息を吐いて再び立ち上がった。

「…君が、迷子なのはよくわかったから。兎に角交番に行きなさい。何とかなるから……多分。」
「…今小さい声で多分って」
「言ってない。いい?私は今から家に帰らなきゃいけないの、だから残念だけどここでお別れ。あとはお巡りさんに何とかしてもらってね」
「そんなぁ…」

私は後ろ髪を引かれる思いで学校に引き返した。このままゴールを目指すなんて無理がある。裏門から忍び込めば楽勝だ、と思っていた私が馬鹿でした。チェック地点を通過しなかった者は後日マラソンと同じコースを放課後に残って走らなければならない、と終礼に言い放たれた。人生そんなに甘くない。家の前に着いた私はふと昼間に会ったあの少年を思い出したが、頭を振って消した。今頃警察署の人がどうにかしてるさ、そう思いドアを開ければ玄関に何故か昼間会ったあの少年が居座っているではないか。これは幻だろうか、と目を擦ってみたが消えることはなかった。私は声にならない悲鳴を上げた。

「身寄りがないって言うからね、家で暫く預かることにしたの。」

母はにこりと笑って言った。

「おま、ちょ、」
「宜しくお願いします、ななしさん!」

ヒビキの笑顔がやけに輝いていた。