短編 | ナノ


どんよりと黒く重い積乱雲が今にも下界を押し潰しそうだ、と教師の話をそっちのけに窓を眺めていたななしが思った。静かではないが騒がしくもない教室の所々から傘を忘れただとか、天気予報外れただとか、テストの点数一桁だとかそんな会話が声を潜めて聞こえて来る。ななしはぷらぷらと指先で軽く握ったシャーペンを揺らして黒板に目を移した。英文をノートに写し、赤線を引いて出来るだけシンプルかつ見やすく綺麗に纏まったノートを書くのはノート点を考慮してのこと。カリカリとシャーペンがノートを滑る音が教室に静かに流れる。教師がチョークを黒板に滑らせるのを見てから再びノートに目を落とした。

「あ」

突然後ろから聞こえた声に一瞬肩が跳ねた。

「ごめん、消しゴム取ってくれないかな?」

肩を叩かれ振り向けば申し訳なさそうに眉を下げるヒビキ君と目が合った。何処にあるんだろう、と椅子の下を覗いてみるとあたしの足先に彼の使い込まれて小さくなった消しゴムが落ちていた。

「はい。」
「ありがとう。」

いいよ、と言えばヒビキ君ははにかんだように笑った。あたしは再び机に向かい黒板とノートへ忙しなく目を移した。日本語訳を書いている途中、後ろからあたしの背に向かって「ねぇ、」と話しかける小さな声が聞こえた。振り返ればヒビキ君がいたずらっ子のような笑顔を浮かべて窓の向こう側に目をやって言った。

「雨降ってきたね」
「ほんとだ…」
「傘あるの?」
「…ない。」

今更どうしよう、と考え出したあたしにヒビキ君が妙に明るい、けれどあくまで小さな声で「じゃあさ、」と続けた。ちらりと見た黒板はもうびっしりと白いチョークと英文で埋められていた。それにも関わらず教師は手を休めずにその文と文の小さな隙間に意味やら日本語訳やらを書き足していた。

「僕の傘使ってよ」
「え?」
「さっきのお礼」

消しゴムを持ち上げて笑うヒビキ君は、ね?と小首を傾げた。

「ヒビキ君が濡れるよ?」
「あ、そっか」

どうしよう、と悩み出したヒビキ君にあたしは黒板を見やってから言った。

「じゃあ一緒に帰ろうよ」

ヒビキ君は驚いた顔をしてあたしを見た。まずかったか、と思い訂正しようとしたあたしよりも先にヒビキ君は何か嬉しいことでもあったのか、満面の笑みを浮かべて頷いた。

「そうだね。一緒に帰ろう」

にこにこと人懐っこい笑みを浮かべて言った彼に今更やっぱりいい、とは言えずあたしも縦に頷いた。体を机に向き直しノートの続きを書こうとしたあたしだったが既に続き部分は黒板消しで綺麗に消されていた。