短編 | ナノ






人間と野生の生き物ではどうしても越えられない一線があって、入り込めない距離がある。触りたい近付きたいと思ってもそう出来ない壁がある。不用意に近付けば逃げられるか或いは牙を剥けられるか。ではこんな時どうすればいいんだろう。目の前に傷付いたポケモンが横たわっている。けれど近づこうにも鋭い瞳でこちらの様子を伺い警戒している。あたしは足を止めてじっと、木偶の坊のように突っ立ってスイクンの様子を見ていた。

「………」

何もしないと感じたのか暫くすると野生のスイクンは傷付いた前足を頻りに舐めはじめた。見れば所々に切傷のようなものがあった。トレーナー達から追いかけられ攻撃された時についた傷だろう。やるせない、何も出来ない自分が情けなくて悔しい。あたしは唇を噛んだ。

空に星が瞬きはじめたと思えば辺りはもう暗闇に包まれた。夜が来た。あたしは鞄から毛布を取り出して体に巻き付けた。振り返れば木の下でスイクンが目を閉じて眠っていた。あたしは傷薬を手に持つとスイクンを起こさないように足音を忍ばせて近づいた。しかし音に敏感なのかスイクンは直ぐ様目を開いて赤い瞳であたしを射抜くと唸り声を上げて威嚇した。

「…スイクン。あたし、君を捕まえたいなんて思ってないよ。モンスターボールだって持ってないしポケモンもいないよ。」

あたしは毛布を剥いで地面に落としボールを持っていないことを主張した。毛布にくるまっていた体が寒さに襲われぶるっ、と身震いした。

「絶対、絶対捕まえない。君が嫌がることはしないから、だからその傷を治させてほしい。お願い…!!」

あたしは睨むスイクンに負けじと赤い目を見つめた。スイクンの目はあたしの本心を探るように瞬きもしないでこちらに向き続けていた。駄目か、と諦めて小さく息を吐いた時ふいにスイクンが頭を下ろし前足に顎を置いて瞳を閉じた。あたしは目を丸くしてその光景を見ていた。
近づいてもいいんだろうか?
恐る恐る一歩、足を踏み出したがスイクンが起き上がる気配はなかった。あたしは息を呑んだ。スイクンが警戒を解いてくれている。歓喜に跳び跳ねそうになった衝動を抑えてゆっくりと足を進めた。

「………、」

夜風がふわりと、スイクンの美しい鬣を撫でて行く。神秘的でどこか神々しくもある目の前の生き物にあたしは恍惚を感じた。

「スイクン…」

呼び掛けてから数秒後、薄い瞼を上げて覗いた赤い瞳があたしを映し出した。そっと腰を落として、スイクンの前足に目をやった。傷はまだ開いてはいたが出血はしていないようだ。

「薬、塗っていい?少し痛いけど、すぐ良くなるから…」

スイクンはあたしを見つめると、小さく鳴いた。
あたしは出来るだけ優しく傷口に薬を塗った。痛いだろうに、スイクンは暴れることなくじっとあたしが薬を塗る様を見ていた。

「これで、大丈夫だから。……ごめんね。」

人間のせいで怪我を負わせて、痛い思いをさせてごめんね。優しい君のことだからきっと攻撃だって出来たのに、それをせずに逃げて来たんだね…今までずっと。

あたしはスイクンが眠るまでずっと、塞がった傷口を撫で続けた。