毒牙に咲かれ.下


それから私は皇女様の部屋に入り浸るようになった。入るというより、連れ去られると言った方が正しいかしら。毎度毎度強引に後宮の女官を自室に招く皇女様はどう見ても変わり者の類。それに甘える私も私だけれど。


「帳簿の見方はわかりますか?」
「うん。これは帯締めが流行ったころのだね」
「はい、手軽に色を変えられるので大口の取引もありました」
「麗良は何色がすき?」
「淡い色が好きです。木蘭なんか何にでも合いますし、気分を変えたいときは藍染の水縹を結びます」
「ふふ、麗良の髪ならなんでも合うね」
「…まあ、そういう意味では重宝していますね」
「私は唐紅かなあ。帯締めなら多少華美でもいいし」
「なまえ様は赤が似合いますね」
「紅炎兄様の色だからね!」
「はい。……ん?」


「御髪はまとめられないのですか?」
「できないもん」
「よろしければ私が」
「いい」
「ですがそのままだと煩わしいのではありませんか」
「うん」
「では、」
「いらなーい」
「…………」
「ほら、櫛も結び紐もないし」
「あら、それなら丁度ここに」
「なんで!?」
「淑女の嗜みでございます」
「あっ、仕事しなきゃ!」
「やっぱり嫌がってますよね!?」


「あの……」
「ん?」
「あまり見られると緊張するのですが」
「気にしないで」
「針仕事なんて眺めて楽しいですか…?」
「麗良の指は細くてきれいだね〜」
「……あ、申し訳ございません」
「ん?」
「なまえ様の服、釦の留め外しができなくなりました」
「アハハハ!」
「直します……」
「おまかせします〜」
「こういうことになるので見ないでください」
「がんばれ」
「布団と服縫い合わされたいですか」
「お茶汲んできまーす」


「この腕の傷なんだと思います?」
「箪笥の角にぶつけてたね」
「ぶつけられたんです」
「ひどい! 麗良がいったい何をしたっていうの!」
「最中に笑ってしまいました」
「あ〜、それはちょっとないな〜」
「私の言いたいことが分かりますか」
「あの豚野郎も箪笥の角に足ぶつけて小指の骨折ればいいのに?」
「閨事の最中に変顔をするのはやめてほしいということです!」
「だってしんどそうだったから! よかれと思って!」









「今日という今日はその髪をなんとかしますよ」

寝転んだ姿勢から見事なスタートダッシュを決めた彼女の腕を掴む。いつもいつも皇女だから遠慮していると思っていたら大間違いよ。気軽に接して欲しいと言ったのはそちらなのだから観念してもらいたい。

彼女は暫く抵抗していたが、5分で終わらせます、と言うと大人しくなった。やっぱり。じっとしているのが耐えられないだけなのだわ。

「本当に5分ね? 今から計るからね?」
「はいはい。少し顎を引いて。じっとしていてくださいね」

櫛で頑固に絡まった髪を解いていく。兄の紅炎様の御髪を見てもしかしてと思ってはいたけれど、櫛を通しただけでこの艶めきよう。掬う掌からさらさらと零れ落ちていく。誰もが羨むような髪を、よくもここまで雑に扱えたものだ。

「できた?」
「お待ちください」

引っかかりも癖もない故に集める端から逃げていって結びにくい。彼女が整えるのを嫌がっていたのは、自分の髪を結うのに時間がかかることを知っていたのもあるのでしょう。長い髪をせっせと束ねながら私は彼女の気を会話で紛らわせることにする。

「今まで誰かに結んでもらったことはあるのですか?」
「紅炎兄様と紅明兄様がやってくれたよ」
「へえ……」
「意外って思ったでしょ」
「実は少し」
「二人ともぶきっちょだから、やる前よりボサボサになっちゃうの」
「紅炎様など根っからの武人ですものね」
「嬉しくて自慢して歩き回ろうとしたら止められちゃった」
「止めますね、それは」

全力で止めると思う、主に紅明様が。紅炎様の反応はどうだったのかしら。あの方はいつも真面目な顔をされていらっしゃるから何を考えているのか分からないところがある。なまえ様が仰るには、何か考えていそうで何も考えていない、何も考えていなさそうで様々なものに思考を巡らせている、らしいけれど。

「なまえ様は両名と仲が宜しいのですよね」
「うん」
「皇子様方はどう思っていらっしゃるのですか、その……」

王弟の閨事を見ていることとか、こうして掃き溜め同然の後宮女官を連れ込み介抱していることとか。言葉は濁したものの聡明な彼女には伝わったのでしょう。うん、と頷く。

「知ってるよ」
「心配なされないのですか?」
「されるよ」
「お叱りを受けないのですか?」
「自室に連れてきたのはさすがに怒られたかな」

主に紅明兄様に、と付け足される。彼の心労が眼に浮かぶようだ。

「他の宮女にも、同じように?」
「ううん」
「王弟様に呼びつけられませんでしたか」
「うん。空き部屋をつかってお世話したよ」
「――なぜ、私だけ」

彼女は何も応えることはなく、ただにこりと笑った。後宮で不遇な扱いを受けていることはお見通しなのでしょう。やはり随分頭の回る子供だと思った。同時に行き場のない怒りが私の中でぐるぐると渦巻いている。









そこは懐かしい我が家。

目の前には父と兄。呪文のような難しい言葉が幼い私の頭上を飛び交う。互いに怒鳴りながら商品について話し合う彼らが格好良く見えた。流通には貯める時期と、吐き出す時期がある。それを見極められるのが商人だ。耳にタコができるくらい父から聞いた言葉。

父と兄の背中を追いかけて私はたくさん勉強した。いずれこの商会を継ぐ兄を側で支えていくのが夢だった。兄も私に仕事を任せてくれるようになった。あの頃の父と同じように、兄と会議という名の取っ組み合いを交わしていたとき、ドンドンドン、と乱暴に戸が叩かれる。そのときから私の地獄は始まったのだ。

後宮に連れてこられて数日が経った。下働きである女官でありながら大部屋を与えられた私のことが貴族たちは気に入らないようだ。彼女たちの言う尊い血、とやらが私には流れていないらしい。大部屋を与えられた意味は後から知った。私は最初から落ちこぼれの王弟の慰み者として連れてこられたという。

けれどそんなことを知らずにせっせと働く私を同じく何も知らない彼女たちは虐め続けた。同じ庶民の子達からは豪商の娘と煙たがれている。誰も私を助けてくれる人はいない。絶望の淵に立たされながらその日も川の側で妃嬪付きの女官に見つかり、いわれもない罪状でお仕置きを受けていた。張られた頬が熱い。胃が捩れそうだ。手足の力が抜けて地面に転がる私を彼女たちは汚い汚いと嘲笑う。

ああ、呪いあれ。呪いあれ。ただ祈ることしかできない矮小な存在を、川の向こうで誰かが視ている。赤い少女が私を視ている。助けて、と手を伸ばした。







重苦しい夢から浮き上がる。寝る前よりいくらか軽くなった体を持ち上げて、ベッドの淵で寝こけている少女を見下ろした。すうすうと寝息を立てる彼女。小さくて、幼くて、天使のような寝顔。丸い頭を撫で、長い髪に触れて、

細い首に手をかける。

――しかし、寸前で避けられてしまう。飛び退いた彼女を見て、あーあ、と思う。最初で最後のチャンスだったのに。気付かれてしまったらもう打つ手はない。感情を削ぎ落とした瞳を睨みつけた。

「狸寝入りとは趣味が悪いわ」
「いたいけな幼女を襲うよりマシな趣味だと思うけど」
「理由は聞かないのですね」
「恨まれてるのは知ってた」

まさか、と思った。やはり、とも思った。彼女は変わった人間だと分かっていたから。

「……どうして私に優しくしたんですか。自分の部屋にまで入れて」

最初は油断させるための策かと疑った。痺れを切らして手を出したところを捕らえるのね、と。けれど彼女はあまりに無防備だった。私の出したお茶に毒味無しで口を付け、隠し棚を隠さず、合鍵を渡し、髪を弄らせて欲しいと頼めば言われるがままに首を晒す。白い項を見ながら何度袖の下で剃刀を揺蕩わせたことか。

とても私を嵌めようとする者の態度ではないので戸惑った。もしくはそうして悩む私を愉しんでいるのかもしれないとも考えたけれど。どちらでも構わなかった。彼女を殺す機会があるのなら。

「貴女が欲しかったの。ずっと前から」

なまえ様は徐ろにこちらへ足を向けた。自分を殺そうとした人間へよくも平気で近づけるものだ。余裕の表れだろうか。小さな体躯。彼女に成人女性を抑える力があるとは思えない。けれど、底知れない何かを感じる。威厳?いいえ。では恐怖?少し違う。それは畏怖――に、近いもの。

「前から……?」
「そう。すごく前から」

嫌な予感がする。

「いつから、ですか」

小首を傾げる彼女のなんとイノセントなことか。カーテンを閉じた暗い部屋に赤い宝玉が爛々と光っている。

「貴女が後宮に入る前から」

まさか。

「そうだよ」

なまえ様はくつりと笑った。悪魔のような笑み――ああ、やはり躊躇などすべきではなかったのだわ。すぐにあの首を締めてしまえば、彼女は永遠に天使の寝顔を浮かべていられたのに。

他ならぬ彼女が王弟に麗良の存在を仄めかし、唆したのだ。

珍しい白髪の娘がいるの、と囁いたその口で愛しげに名を呼び、地獄へ招いた手で穢れた体を拭き、油塗れの手に撫でられた髪を差し出して。だって、と子供臭い言い訳の枕詞を置く。

「間に合わなかったらこまるもん」
「間に、合わなかったら……」
「商会を継いだり結婚したりしてほしくなかったの。私はまだ自分で平民を雇うことをゆるされてないから、早めに後宮に置いておいて、時期が来れば引き抜く方が安心じゃない?」
「…………」

保留のために後宮へ呼んだという。なんて、自分勝手な。やはり認識は間違っていないようだ。彼女は少女の皮を被った悪魔に違いないわ。けれどそれなら、どうして。

「……貴女が私を欲したのなら、どうして!」

服の内側に仕込んだ匕首(あいくち)を握って彼女に掴みかかった。



川の向こうから私を視ていた少女。高価な衣に身を包んだ赤い子供に、藁に縋り付く想いで手を伸ばす。目を見開いた彼女は数秒私と視線を交わして、――ふい、と視線を逸らした。

悲惨な光景に泣きわめくでもなく。驚くでもなく。青ざめるでもなく。怒るでもなく。戸惑うでもなく。狂人のように笑うでもなく。まるで道端に落ちたごみの横を素通りするのように。面倒ごとを我関せずと避けるように。両目を細めて。何が起こっているか理解したうえで、見て見ぬ振りをした。その瞬間の私の絶望を知る者はいない。



「どうしてあの時、助けてくれなかったんですか!」

呆気なく押し倒され、切っ先を喉元に突きつけられてなお、彼女の仮面は揺るがない。凍てついた血の色は更に温度を下げていく。

「弱い人間はいらないもの」

……流石にこの答えには驚いた。少しは同情に訴えるとか、そういうことをした方がいいんじゃないかしら。弱い人間、確かにその通りだわ。私は弱い。あなたに比べれば矮小な存在でしょう。ねえ、あなたはなぜそうしていられるの。なぜそんなに冷徹でいられるの、他人にも――自分にも。

どうしてあなたは強くいられるの。

私は誰かのせいにしてばかりなのに。他人を呪ってばかりなのに。こんなに無力なのに。

「ね、麗良」

その声で名前を呼ばないで。優しげな声音は思い出を起こしてしまうから。悪魔を信じていた自分が悔しいわ。殺したいほど憎いのに、酷いことを言われているのに、信じたいと思ってしまう自分が嫌なの。誰かに縋り付きたい自分が嫌いよ。手を伸ばしたって、誰も掴んではくれないわ。

「もう思い知ったね。権力は理不尽で、王族は身勝手だ」

私の頬に手を添える。温かくて紅葉のような小さな手。忌々しい白髪がさらりと彼女の腕を滑る。彼女が前に言った通り、何にでも似合う色だった。天使のような笑顔が白を纏って私に話しかける。

「こう言った方がいいかな」

ああ、分かった。
私、なまえ様(このひと)が苦手なのだわ。

「豚の餌か、私の下に付くか。選びなさい、麗良」

そうして彼女は選択を求めた。なんて理不尽。なんて身勝手。私の選択肢はあってないようなものだというのに。匕首を握る手から力が抜ける。皮肉ね。あんなに欲しかった手の平が、切り捨てようとした瞬間に差し出されるなんて。

「……本当に、私、本気であなたを殺す気だったんですよ」

負け惜しみとはわかっているけれど。もしあの悪夢を見る前に決意ができていたら、この切先は悪魔の喉に届いていたのかしら。







かねてよりの研究が成功に成功を重ね、今や我が主の評判は飛ぶ鳥を落とす勢いとなっている。そんななまえ様がある日私王弟の部屋を呼び出した。その時点で予想はしていたつもりだけれど、覚悟ができていなかったのでしょう、扉の前で声をかけ、重厚な扉を開けて、その光景にぞっとした。紅徳様と寄り添って座る主様。彼女はついに父を籠絡したのだ。

頬を緩ませっぱなしの王弟に二つ返事で許可を貰い、私はなまえ様の側近となった。部屋を出た後は廊下で二人きり。けれど油断はできない。陰謀蔓延る腐った王宮はどこで誰が聞き耳を立てているか分かったものではないのだから。いつもの通りなまえ様の部屋に二人で入って扉の鍵を閉め、そこで漸く口を開く、

「あの……ひとつ、お聞きしたいのですが」

なまえ様は「はいよー」と軽く返事をした。殺人未遂の後から砕けた口調と奇妙な行動に拍車が掛かっている。

「いえ、答えにくければ、よろしいのですが」
「なになに、そんなに言いにくいことなの? 気になるじゃん」

思ったより食いつきが良いのでつい身を引いてしまった。こほん、と咳払いをして続ける。

「なまえ様は、……その、紅徳様と、」
「待って」
「はい」
「そのさきは言わないで」
「で、では、本当に、」
「想像するのもイヤだから言わないでって言ってるのー!」

ムキーッ! と口で言うのでいまいち迫力に欠けていた。ほ、と私は息を吐く。

「それは良かったです」
「まったく失礼な勘違いだよね!」
「申し訳ありません。でも、あの紅徳があんなに骨抜きにされてしまっていては、疑念を抱かない方はいませんよ」
「豚だけに、骨ぬき。ぷぷ」
「一体どんな手品を使ったのですか?」

すると一人で笑ってからなまえ様はそれを挑発的なものに変えて、ぺろりと唇を舐めた。

「心を暴くのに体はいらないでしょ」

彼女がそう言うのなら、そうなのかもしれないけれど。今は紅徳様も心で満足していても、時が経ち美しい生娘に成長すれば揺らぐのではないかしら。急須で茶を注ぎながらふと抱いた疑問はさすがのなまえ様にすかさず拾われていく。

「その対策がもうすぐできる頃さ」

(のち)に聞かされた『対策』とやらは正に悪魔の領域に至っていた。人類はきっと彼女に敵わないことでしょう。唯一対抗策として有効なのは彼女の上のお兄様を用意すること、かもしれないわ。したたかな悪魔だから、兄を魔王へと進化させてから、手を取り合って世界を滅ぼしてしまう可能性もあるけれど。そうなれば私はさながら悪の手先ね。

なまえ様が疲れたようにベッドに飛び込むので、悪の手先らしく小口のナイフで無防備な足首に斬りかかる。すんでのところで避けられてしまった。彼女は意地悪げに笑う。

「そのお茶、今日はなんの毒を入れたの?」
「当ててみますか?」

何のためらいもなく口を付け、トリカブトを当てた悪魔に笑みを返す。この小さな体を一体いくつの毒でいじめ抜いてきたのかしら。理不尽、身勝手、と言うけれど、この皇女もその被害者なのでしょう。

私が手を伸ばした川の向こうは変わらず地獄で、そこに佇むのは傷だらけの赤い悪魔だった。

けれど彼女は己に降りかかる不幸を許さない。環境に甘んじたりはしない。自分の実の父も、自分と関わりのなかった他人も、端から見れば可哀想な身の上も、すべてを引き込み利用し使い捨てて這い上がる精神に、いつからか敬服の心を抱くようになってしまった。それさえ計算の内だと言われても、今更疑う余地はない。

「あなた、ロクな死に方しませんよ」
「知ってる」

その最後を私は見届けたいのです。私の人生を地獄に貶めて、身体を穢して、魂を奪った悪魔の最後を。あなたが破滅するときはきっと私も一緒でしょう。だから、その時まで。


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