でも食べる


光の点った青を確認して足を踏み出した。

どこからか焦ったような大声が聞こえて、それは突然響いた不協和音にかき消される。黒板を爪で引っ掻いた音を何オクターブか低めにした不快感。何事だと振り向こうとしたその時、私の体は宙を舞っていた。


暗転。


「あー!あうー!」

乳房を晒す女性と、腕を伸ばしたつもりが視界に映った、小さな紅葉二つ。

誰かこの状況を説明してくれ。





前世の記憶という特典付きで、私はすくすく育っていった。
定食屋を営む父と私より数ヶ月あとに生まれた弟に囲まれ6年。その特典が役に立つ場面は、未だ訪れない。

私の実の両親は、私が1歳を迎えた年に交通事故で亡くなった。
分別もない幼子を好き好んで貰い受けるお人好しなんてこのご時世存在する訳もなく、私の親権は揉めに揉めたらしい。大人たちの醜い押し付け合いの中、唯一引き取り手を申し出たのが、父の学生時代からの友人である幸平城一郎さんだった。

私は目を疑った。次にその男は幼女趣味を持つ変態なのだろうと結論付けた。ごめんなさい全部勘違いでした。被害妄想激しすぎて今すぐ穴に埋まりたい。幸平さんは産まれたばかりの息子を持つパパさんでした。
ちなみに幸平さんは当時の記憶も曖昧だろういたいけな幼女に残酷な事実を隠している気でいるが、記憶にきっちりと両親の遺影を刻む中身成人女性には無用な気遣いである。

養子として引き取られた当時既に、彼らの家庭には何故か『母親』と呼ばれる存在がいなかった。しかし、私はそのことに疑問は持てど口にすることはしない。
可愛げのない私を実の娘のように可愛がってくれた彼の笑顔を、曇らせるようなことはしたくないのだ。

親戚にハブられていた私を快く引き取り、男手1人で自我の芽生えもない(と思っている)子供を育てるのはどれだけ大変だったろうか。言っておくが私は生まれた当初からまるで可愛くない赤ん坊であった。

恐らく死んだであろう前世の自分と、家族と友人を想い嫌がらせのように夜泣きする日々。オムツは盛大に汚してやったし、ガラガラにはうるさい黙れファック!と顔を顰めていた。
ショックにやさぐれていたとは言え、大人の尊厳ボロボロである。ああ恥ずかしい。
手のかかる赤ん坊を捨てずに育ててくれた両親には頭が上がらない。あの優しい2人の元に生まれた幸運を、愚かにも私は全て失った後に気付いた。私を見て頬を緩めた男女2人は、もういないのだ。

本題に戻る。
世界に何も出来ない赤ん坊として放り込まれ、そこでも両親を失った私は存在も知れぬ神を恨み夜な夜な祟り、そして盛大にやさぐれた。新しい家庭でまた同じ愚を犯した。しかも最初の家庭では思い出したように演じた『何もわからぬ無邪気な赤ん坊』を、この家では一切断ち切った。
嫌がるように玩具を避け、夜は大声で喚き散らし、定期的にしつこくぐずるしかめっ面の赤ん坊を、彼はどんな心地で世話していたのだろう。やけに手のかかる養女の傍ら息子のおしめを替えていた彼を、今の私は心から尊敬している。

成長するにつれ中身成人女性もやっと大人としての自覚を取り戻し、大人らしい落ち着きを手に入れた。それはそれで心配をかけることにはなったが、私は彼に余計な面倒をかけたくなかったのだ。もう遅いわ、という囁き声は無視するに限る。きっとあれだ、身体に精神が引き摺られていたのだよ。

しかしよくよく見れば城一郎さんはかなりの美形で、そう考えると弟もそれなりの美形になるということだが、とにかく私たちのお父さんはイケメンだ。イケメンでイクメンだ。

家事も店の経営もちょちょいのちょい!でもやっぱり一番得意なのは料理で、そこらの高級イタリアンとか、フレンチとか、お洒落なお店の凝った料理より、ぱぱっと手軽に作ったお父さんのとろとろオムライスの方が100倍美味しい。そこ、貧乏舌とか言わない。本当に美味しいのだ。舌が蕩けるくらい美味しいのだ。ボキャ貧つら……。

お店の料理に向き合う姿はいつになく真剣で、それでいて楽しそうで、私や弟を見る時にはそっと目が和らぐのがとても嬉しかった。何事も卒なくこなすお父さんが私たちの前では精悍な顔付きを崩して、でろんでろんにだらしなく口元を緩めるのだ。
一月に一度必ずタンスの角に小指をぶつけるし、初ハイハイの弟の写真を大興奮で撮るし、私がバランスが上手くとれなくてころりとでんぐり返しをしたら矢に射られたように心臓を抑えて身悶えていた。

かっこよくでだらしがなくてかわいくて、誰より私達を愛してくれるお父さん。昔の尊敬は崇拝にランクアップしていたが、いつしか私は彼に親愛を抱くようになった。
『わたしのお父さん』という作文が宿題に出されたとしたら、私はそれを一生提出できないだろう。たかが1枚400文字の用紙に書き綴るには、『わたしのお父さん』は魅力が多すぎる。
でもそれだと授業参観に来たお父さんが部屋の隅にきのこ生やして嘆きそうなので、やっぱり大切なところだけ抜き出して書こう。

こうして見事なファザコンに育った私だが、大好きなお父さんでも許せないことはある。
彼は時折私に酷い仕打ちをしでかすのだ。アレを思い出しただけで私の背中にはひやりと汗が伝う。
いたいけな幼女をえずかせた最悪の代物は、いたいけな幼女の弟にまで魔の手を伸ばしていた。ただし弟は私の敵側である。

いつもお父さんの営む大衆食堂の厨房で行われる、悪癖とも呼べるそれは、今日は何故か春うらら日差しの下で行われていた。

「なまえ!今日のおやつはこれだ!」
「これだー!」

ほらよ、と差し出された1本の串。いくつも刺された食材には僅かに焦げ目がついていて、焼きたてらしく白い湯気がゆらりと身を踊らせた。それを包む茶色のたれも手作りのようで、てかてかと光って見る者の食欲をそそる。
知らず知らずごくりと唾を飲み込んだ。

だがなぜ、と思う。

なぜここまで素晴らしい技術を持ちながら、このような残虐行為ができるのだろう。
なぜタレは自前なのに、中身は市販品なのだろう。
なぜパッと見焼き鳥から甘い匂いが漂ってくるのだろう。
なぜ七厘でそれを焼くのだろう。

なぜ、七厘で焼いたマシュマロに焼き鳥のタレをかけようなどとと思ったのか。

これが彼、いや彼らの悪癖である。
ニヤリと口端を上げるお父さんは悪カッコイイ。だがしかし、弟まで悪の道に引きずり込むのは後生だからやめて欲しい。

「これ食べるの……?」
「なぁに遠慮してんだ。それはお前の分だぞ」

いや遠慮じゃなくて躊躇なんですけど。おそるおそる受け取った串を前にもう一度、ごくりと唾を飲む。胡乱げに父を見やって、それから私とほぼ同じ身長の弟をちらり。創真は妙にわくわくとこちらを観察していた。

「なまえねえ、くってみて!それすっげえまずいから!」
「おまっ、創真バカっ……!」

なぜここでネタばらしをしたのか弟よ。お父さんが慌てて創真の口を塞ぐ。素直なのは良いがその口はいつか身を滅ぼしそうだな。

創真もこう言っていることだし、正直この焼き鳥用タレ付き焼きマシュマロは食べたくない。今すぐそこの植木に投げ捨ててしまいたい。でも食べ物は粗末にしてはいけない。

私は食べるのが大好きなのである。神様は信じないが食べ物は信じている。育ての父とこの世のあらゆる食物を崇拝する私にとって、これはある種の試練にも等しい。不味いものも美味しいものも食い尽くすのが私の流儀。愛するものは前世の両親と今世の両親と育ての父親と血の繋がらない弟。よし覚悟は決まった。6歳、幸平なまえ、行きます!

「…………」

なんとも言えない味わい。あまじょっぱいタレの下にはパリふわの薄い層。それを砕くとやたら甘い生地が口の中で粘ついて、タレと絡み合ってねちょねちょどろり。甘い甘いしょっぱい甘い香ばしい甘い。
結論、焼き鳥用のタレは焼き鳥に使うべし。せめてなんでもいいから肉を持ってこい。

「……ごちそうさまでした」

それから私は無心で残りの2本を頂き、全てを腹の中に収めた。おててのしわとしわをあわせてー、全ての食材と農家の方と工場の方と諸々関係者の皆様に感謝を。そしてごめんなさい。

「どうだった?」
「まずかった」
「そうかそうか!」

ぺろりと口端についたタレを舐めながら率直な感想を言った。お父さんは何がそんなに嬉しいんだか上機嫌で、創真もニコニコ笑いながら私の腕に手を絡ませている。今日の夕飯は焼き鳥だ!と笑って、お父さんは私達の頭をかき撫ぜた。


戻る

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -