レールを踏み出す<後編>


あれから忘れたいがゆえに一心不乱に仕事へ打ち込んだ。あれは夢だったのだ。相手には婚約者がいるし時期に無事結婚する。私は今まで通り働いて夜は友達と遊ぶ。それが良い。それでも私は以前のように街をふらふら歩かなくなった。脳裏に警鐘が鳴っているのだ。万が一また出会ったら――


4週間が経ったころ、異変が襲った。いや、厳密に言うと前から眠気やだるさはあった。が、突然の吐き気……ついに嫌な予感を隠しきれなくなった。いや、もしかしたら気にしすぎてそういう症状が出るようになったのかもしれない。いっそ死んだっていい、別の病気であることを願いながら、仕事に差し障りがあることを恐れた私はついに病院へ行った。








「おめでとうございます、妊娠一ヶ月ですね」

こんなにも嬉しくない祝福があるとは思わなかった。残念ながら一年前彼氏と別れてから他に思い当たりがない。つまり、あの夜しかない。

絶望。降ろすなら一日でも早くしなければならない。誰も望んでいない子など産んだ方が可哀相だ。昔はそう思っていた。だが実際自分の中に新たな生命がいると思うと急に怖くなった。その命を奪う権利は私にあるのだろうか。しかし――
誰に相談すればいいのかわからない。母親? 友人_ 駄目だ。相手が彼だと言った瞬間どういう軽蔑の目を向けられるかわからない。思い出とか言って一発したのが悪いんだと言われたら立ち直れない。あの美貌に財産、どう考えても被害者は向こうだと思われてしまうだろう。
お金は――きついが節制すれば一人暮らしだしなんとかなる。頼めば仕事も増やしてくれるだろう。彼に言えばその代金くらいくれるかもしれないが、そうされると「やはり自分は邪魔者だ」と言われるようでこわい。
もう何も考えたくない。明日、さっさと行って手術を予約しよう。してしまえばどうにでもなる。全てを忘れられるだろう。それでも私は中々寝付けなかった。



***



足取りが重い。自分とは別の命を背負う責任感が襲う。だが他に頼れる人はいない。私は一人だ。外は雨で余計に憂鬱だった。

「――紫帆?」

ふと、そう幻聴が聞こえた気がした。あり得ない。調子が良すぎる。が、その幻聴は消えるどころか大きくなっていく。

「紫帆、おい紫帆!! 聞こえねーのか!」
「……あとべ?」

それは会いたくて会いたくなかったもう一人の当事者だった。
「真っ青じゃねーか! こんなところで何してやがる」

雨のせいかいつも以上に渋滞の中、跡部は外車から飛び出した。スーツを着ており仕事での移動中だったのだろう、運転手が何か叫んでいるが雨音でよく聞こえない。

「傘もささねえで何してんだよ、身体冷え切ってんじゃねえか!」
「……め」
「あ?」
「だめ、私に近づいちゃ、ダメ」
「……紫帆?」

私はもうどうしたらいいのかわからなくなった。跡部のいかにも高そうなスーツがあっという間にずぶ濡れで、私をがしがしと揺さぶる。

「跡部には婚約者がいるの。生活を壊しちゃだめなの」
「…………お前何いって、」

まただ。何故こんなときに。突然の腹痛に身をかがめお腹を押さえる。思わず跡部も言葉を切らし、そしてこの聡明な男は。




「…………妊娠、してんのか?」



気付いてしまった。

嗚呼、なんでたった一日でこんなことになるのだろうか。昔の彼氏とは何度かやっても何も起きなかったのに。今の私にはそれを誤魔化す余裕がない。雨で良かった。無言が恐くない。無言は肯定の意。無気力の私をどうするのかと思えば跡部が力づくで車に乗りこませた。
「お前、ますます風邪引いたらいけねえだろ」
「いいの。おろすから。そしたら跡部にも迷惑がかからない」
「じゃあ、どうして泣いてんだよ」
濡れていたから気づかなかった。私、泣いてたんだ。




「結婚してくれ」




ああ、また幻聴か。嫌になる。妊娠するとこんな声も聞こえてしまうのか。自分に調子の良いことばかり、考えてしまっている。って、え?

「承諾するまで、車からおろさねえ」

わかった。この人は優しいのだ。だから私もおろすと決めた。打ち明けたらきっと、この人は自分の人生を捨ててでも責任をとろうとする。それは良くない。
「馬鹿言わないで。貴方には相手がいるでしょう」
「一度しか会ったことねえ奴と結婚なんてできるか。じじい共がいつまで経っても結婚しない俺をみかねて跡取り問題で勝手に決めただけだ。ただの他人だぜ、あんなの」
「でも。私令嬢じゃないし……」
思考が鈍っている。考えろ。流されるな。相手にとっての最善を選べ。

「うるせえよ。俺の決定を否定する奴はクビにしてでも排除する。言っとくけど責任感なんかじゃねえぞ。俺はな、お前が好きなんだよ」
「……え?」
「お前は違うのか? 好きだから一緒に寝たんじゃねえのか? ったく、何も言わずに出て行きやがって。心配しただろうがよ」
俺様の一大決心をなんだと思ってやがる、跡部の口調とは逆に表情はとても柔らかかった。真顔でいるだけで鋭い瞳で射抜かれそうなのに、こんな顔できるんだと他人事のように驚く。



跡部が、私を好き?


嗚呼、なんで思い出せないんだろう、あの夜のこと。悔しいな。てっきり酒に流されただけだと思ったのに。跡部は覚えてるの?
私が呆けている間に跡部はぶつぶつ何かを言っている。
「おい、会議は中止だ。至急産婦人科に迎え。その次は役所な」
「ちょ、何言ってんの?!」
「アーン、何か文句あんのかよ。先に役所でも良いが母体に問題がねえか確認しねえと俺の気が収まらねえ」

当然のことく自分が正しいという口調の跡部に、私は諦めて寄りかかる。実際一日中気を張っていた私にとっては久しぶりの安らぎの場で、一人じゃないってどんなに有難いことかしみじみ思い知らされる。跡部は自信満々だが、実際簡単じゃないことくらいわかる。婚約破棄、仕事の中断、私の経歴。でも今は何も考えたくない。結婚しようと言ってくれた人との幸せを、今くらいは感じていたい。安堵の瞬間疲れが一気に押し寄せてきた私を、跡部は優しく受け入れてくれた。



END
20130713


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