『あなたを覚えてしまった』
死にたい――そう思ったあの瞬間。
あたしを助けてくれたあなたの、
あなたの全ての温度を… あたしは一生忘れることはないと思う。


 ノートの端から端まで行ったり来たりの追いかけっこをする文字たちと睨めっこを続けていると、疲れを訴えてくるのは目と頭だ。休もうよー休ませろとぴょこぴょこモグラみたいに顔を出してくる、あたしの不真面目な脳の欠片たちの声に、あたしは即賛同した。
「ちょっと休憩しよっかな」
 うーんと猫みたいに伸びをすると、凝り固まっていた体がおかしな音の悲鳴を上げる。体が訴えるのは運動不足かな…。確かに最近は、ずうっと放課後居残り勉強ばっかりで…体も怠けモードに入っているのかもしれない。この原因を作っているのは――センセイ、…じゃないか、あたしか(出席日数がぎりぎりな上、卒業までの授業日数を取り返すという理由で、こうして勉強しているんだ)。
 ノートの上に突っ伏して腕を伸ばして、そっと机を触れば…ひんやりとした感触。
「…つめたい」
 教室内を見渡しても、今現在ココで呼吸をしているのは…あたしだけだ。黒板も机も椅子もロッカーも、窓もカーテンも…みんなみんな無機質にあたしだけを囲んでいる。昼間の授業中はあたし以外にももちろんクラスメイトたち(みんなあたしよりも年下なんだよね…。停学食らって留年したから当たり前っちゃ当たり前なんだけど)がいて、いっつもバカみたいに騒いでいるから…教室内はいつも動物園みたいに賑やかで、たくさんのあったかい温度がひとつ、またひとつとしゃぼん玉みたいに生まれて…ぱちんて弾けてふわってあったかくなる。

『なまえの肉、もーらい!』
 作ってきたお弁当の箱を開けた途端、食べても食べても太らないという羨ましい体質のルフィに取られ(いなくなった隙を見て開けても、いっつも取られるんだもん! 悔しい…!)

『アンタは毎回毎回なまえのお弁当を盗むんじゃないわよ…!』
 なんてオレンジ色の髪の可愛いナミが叫んで捕まえてくれる(大抵は呑み込んだ後だから、いつもルフィの勝ちで終わっていたり…。今度タバスコでも塗ってやろうかしら)。

『ねェなまえ、よければ私のお弁当半分食べてくれないかしら…? 間違えて多く作りすぎちゃったの』
『なまえちゅわ〜ん! サンジ特製の美肌弁当もあるよー』
 美人で大人っぽいロビン(あたしよりも大人っぽいの! 憧れちゃうな)と、女性にはいつも優しいサンジくん(家庭科部で唯一の男子部員。いつもクラスの女子に美味しいスイーツやドリンクを作ってくれる)があたしを気遣ってくれる。
 最初はね…、最初はバカみたいに明るい・明るすぎるこのクラスに馴染めなかった。だってそうでしょう…? ずーっと休学(半ば退学寸前)の幽霊クラスメイトだったあたしが突然クラスに現れて、しかもあたしが“何を”して退学だ、なんだって騒がれていたのか…みんな知ってるはずだもん。腫れもの扱うみたいによそよそしい雰囲気の子たちなんて、こっちから願い下げ。あのことがきっかけで約束守る為とは言え、仕方なーく学校に顔出してやりたくもないやったって何の得になるの? って聞きたくなっちゃう勉強(勢いで約束守ったと言っても…後からじわじわと勉強ヤダ、って思っちゃうんだよね)をとりあえずして、後は…独りでいればいいやって…そう思っていたのに。
『なまえ。今日から卒業までの放課後、毎日おれと勉強会だ。容赦はしないぞ』
『……なんだその不満そうな表情は。お前、昼飯の時にもそんな顔してたら……狙われるぞ』


『…その顔………やっぱりルフィに弁当狙われたか。お前もツンと澄ましてたって、やっぱりまだまだガキだな』

――失礼ね! ガキじゃないわよ…!

『いーや、ガキって言われて腹立ててるうちはまだまだガキだよ。コイツらと何ら変わらない』


「きっかけを作ってくれたのは…あなただったんだよね」

 目を閉じればいつも浮かぶのは…センセイの姿。どっちかって言えば背が高いあたし(あ、でもロビンにはちょっと負けるんだよね。ロビン、背ェ高すぎ! 美人すぎ…!)が更に見上げるぐらいに上背があるセンセイ。どこかの紳士みたいに帽子とマントが似合うセンセイ……なんて思えるようになったのは、あのことがあってからだ。

『なまえ』

 最初から…最初っからあたしを名前で呼んでくれたセンセイ。最初は随分ニヤけたツラのおっさんだなぁぐらいしか思えなかったセンセイ。いっつもしつこいぐらいに「お前はおれのクラスの生徒だ。おれにはお前を卒業させる義務がある」なーんて一昔前の熱血教師気取りですか? バッカみたい…って冷めた目つきでも見ても、あしらっても……センセイはいつもしつこいぐらいにあたしを迎えに来た――来て、くれた。  ふっと…首を窓側に動かすと、いつもは見える正門や正門沿いにずらりと並んでいる木々たちは、校庭をぽつりぽつりと照らす外灯の弱い光を受けて…かろうじて暗闇の中でシルエットを浮かび上がらせている。

 闇は、夜は、黒い世界は…嫌いだ。

 ――…!? ちょっと…、何するの!?

 学校にも行かずにふらふら遊び歩いていたあたしは、何度も警察の厄介になったことがあった。誰も見向きもしない、誰からも必要とされないあたしは…世界を呪い、どうせ線香花火みたいにぱっと散って終わるんだろうな、そう思っていた。ずっと…ずっと。そんなある日――車の中に連れ込まれそうになった。人通りの少ない道は街灯も少なく、頼りない光は完全に黒い黒い世界に勝ちを奪われていた。

 ――離して…! …、!!?
 明かりが少ないのは覚えている、周りの景色もまるで地獄みたいに真っ暗で、なのに…突きつけられたナイフの鈍い光だけは、どうしても忘れることができなかった。首筋に押し付けられたあの冷たさは…絶対、絶対味わった人間にしか解るはずはない。恐怖と絶望に押し潰されそうになったあたしは――初めて“誰か”に助けて欲しいって…願ってしまった。抵抗しようにも後ろから口を塞がれ、幾つもの手があたしの体を車の中に引きずり込もうとして…

あたしは死にたいと思った。
死ぬことを願った。
これから始まるだろう地獄の時間が過ぎったら…今ここで心臓を抉り取られたほうがマシだと思った。


「……なまえ…?」

 すぐ傍で名前を呼ばれたような気がして…あたしははっと我に返った。ほっぺたにはあったかい体温と、その温度がじわり伝わる場所には…大きな掌。そして目の前には――
「……セン…、セ、イ」
 不安そうにあたしを覗き込むビスタセンセイの顔があった。
「…どうしてカーテンを閉めない?」
「…、え…っ」
「職員室で勉強するのが嫌だと言うお前におれが出した条件…忘れたのか?」
 険しい表情のセンセイの顔に、あたしは急激に不安になる。そして次に襲ってくるのは――後悔の二文字。
「せ…、センセ、あた」
 言い終わる前にセンセイはあたしを椅子から立ち上がらせて…無理矢理に腕を引っ張って廊下へと連れ出した。
「…っ、せ、センセイ…? 怒ってるの? あたしが言う事聞かなかったから?」
 センセイは何も言わない…。全身で拒絶されているのだと気づき、あたしはまたもや急激に後悔して――今度は寂しくなった。大きな背中があたしの嫌な記憶を呼び覚ます…子供だったあたしをほったらかしにして自分たちの好きなことを優先した親を、お手伝いさんに任せっきりにして愛情を注いでくれなかった…親を。背中を見るのが辛くなって、あたしは目線を下にずらす。あたしの腕を掴むセンセイの長袖の下から…ちらりちらりと見える大きな傷跡に、あたしは背筋が凍りついた。

――瞬間…ぎゅぅっとあたしはそのセンセイの腕を…思いきり掴んだ。
「…? なまえ?」
 あたしの様子がおかしいことに気づいたセンセイは…自分の腕に残る傷が剥き出しになっていることに気づいたのか、はっと全身が緊張したのがわかった。

「…っ、すまない、これは」
「…き、ず………治って…、なかった」
「なまえ、違う、これは――」
「あたしの……せい、だ」

 センセイの腕に残る傷跡は…あの日、車に連れ込まれそうになった直前のあたしを助けたのが…原因だった。突然現れた邪魔者のセンセイ・自分達の楽しみを奪おうとするセンセイに襲いかかる男達には目もくれず、再びあたしを連れ込もうとする男から…センセイはあたしを守ってくれた。
一瞬の出来事だった。あたしを包み込んでくれた大きな影に、あたしはびくりとしたけれど、でも…
“動くな! 大丈夫だ、必ず守ってやる”

 あたしを守るように抱き締めてくれたセンセイが、罵声と鈍い音が響き渡ると同時に…衝撃でゆらりと揺れながら苦しげに呻いていた。
 あたしは…怖くて震えるだけで、何も言えなかった。ただただ祈っていた…誰か来て、誰か助けて――!と。

 ふわ、と…あたしは再び大きくてあったかい温度に包まれた。目を開けても押し付けられているから、何も見えない。けれど…見えなくても匂いでわかる。ああ、これはセンセイの匂いだって。

「――すまない…。嫌な記憶を思い出させて」
 ごめん…。なさい。声にならないくぐもったあたしの声に、先生は首を振ったんだろう。私を抱き締めた腕と体が、微かに揺れた。
「ちょっと此処だけ治りが遅いだけだ。前にも言ったろう…? おれは普段から鍛えている、と。剣道部の顧問を賭けて、ミホーク先生と対決していると」
 この学校には凄腕の剣の使い手がいる…ミホーク先生だ。センセイと互角(らしい)の腕前で、どちらが剣道部の顧問に相応しいか…ずっと決着のつかない対決を繰り返しているらしい。まるで子供みたいな勝負に、あたしは初めてそれを聞いた時――心底おかしくて、気づけば笑っていた。他のクラスメイトたちがいるにも関わらず。心の壁が取り除かれたあたしの心からの笑顔に、クラスのみんなは…安心したように一緒になって笑ってくれた。
 ここでもきっかけを作ってくれたのは――やっぱりセンセイだった。

 やっぱり何度聞いてもおかしくて、あたしはまたもや笑ってしまった。
「はは…、おかしいよな」
 あたしの笑いに一緒になってリズムを取るように、先生は軽やかな手つきであたしの頭を撫でてくれた。あったかい温度…安心しちゃう。
「ありがとな。なまえ」
「――…え?」
「卒業させるのがおれの義務だ! なんて格好つけて言っても、やはり最後はお前の気持ちなんだ。お前が学校に来て、毎日放課後おれの授業に顔を出してくれたからこそ…おれはお前を卒業させる手伝いができた。感謝している」
「そんな…っ」
 そんなことないよ、センセイ…! あたしは勢いよく顔を上げて、ぶんぶん首を横に振ってみせる。そんなあたしの顔を見て、センセイはにっと笑って…優しく頭を撫でてくれた。
「お前は素直な生徒だよ」
 “生徒”――そんな当たり前の言葉に心が痛い。あたしは………あたしにとってセンセイは、ちゃんと正面からあたしを見て、向き合って…あたしにクラスのみんなとの触れあい方と笑顔を教えてくれた、大切な…人。
「…センセイ、…」
「…? ん?」
 優しい目であたしを見てくれるセンセイ…。あたしがセンセイのクラスの生徒じゃなかったら……あたしのことなんて、どうでもよかったのかな。
「あたし……卒業、するの?」
 ああ、ってセンセイは笑顔になる。その笑顔があたしには…とてつもなく寂しかった。
「明日、クラスの皆と一緒に卒業できるぞ。頑張ったな」
 くしゃり、と髪を撫でられる。センセイの指があたしの髪に絡みつく…あたしはこの時程、あたしはあたし自身の髪の毛になりたい、なんて思ったことはなかった。
「卒業おめでとう。なまえ」
「……、まだ…早いよ」
「今からおれがとびきり旨いコーヒー淹れてやる。頑張った褒美だ」
 もう他の先生方は帰ったからな。内緒だぞ? そんな風に悪戯っぽく言った先生…。喜ぶべき…なのかな。
「ありがとう。――ビスタ…先生」
「ああ」


 卒業式前日。あたしは先生が淹れてくれるコーヒーの味を記憶して…そしてずっと忘れられないんだろう。

 先生の体温・おっきな掌・笑った顔…。真剣に怒る時もあるけれど、でもそれは…あたしをちゃんと見てくれたから。向き合ってくれたから。



 あなたを覚えてしまったあたしは、きっともう…あなた以上の人を記憶することは、ない。


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