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或る日、机の上に置いていた本の位置が大きく変わった時があった。それは自分が普段動かさないものであったから首を捻る。…そういえば、少し前に慌ててこの部屋から出ていく、特徴的な軽い足音を聞いたような気がして、ふと本に挟んである、とある人の写真を確認した。──穏やかな顔をした皐月さんの写真は変わらずにそこにあり、はあ、と溜息を吐く。

先程の足音の正体である中大路ななしは、府内でも有名な醤油商店の跡取り娘だ。同世代の大岡紅葉と共に実力ある選手として、若手ながら、めきめき頭角を表し、かるた界で名が広く知られつつある。
そしてこの会を献身的にサポートしてくれている重要な会員でもある。彼女がいなければ15時に会員達へお茶が出ることもなければ、塵一つない部屋で練習をする事さえも叶わないのだ。非の打ち所がない、まるで絵に描いたような才女であると思う。
しかし、どこか窮屈な世界で生きているような──時折表情を押し殺した顔をするようになったのは、いつからだったろうか。彼女が実は中大路家の養子であることを後々関根くんの口から聞いていたため、それが大いに関わっているのやもしれないと思ったが──、本来は天真爛漫な、可愛らしいただの女の子であることを分かっていた。あの日、縁側で眠っていたななしくんは、たしかに、ただの女の子だった。
先日阿知波夫妻が来ていたとき。ここへ着いたばかりのななしくんへお茶を出してほしいと頼んだ。彼女はそれを快諾すると、まっすぐ給湯室へ向かう。客間へ夫妻を案内して、歓談を続けた後、茶や菓子が彼女が持ちきれる量のものか心配になり席を一度外した。台所の暖簾が見え、──ななしくん、と、呼ぼうとしたとき。


『──そういえば。ななしちゃん、いつから先生のこと"鹿雄先生"って呼んではったっけ』

大岡くんの声がして、思わず足を止める。

『さあ…。いつからやったかな』
『いつでも構へんけど。名頃先生、ななしちゃんから呼ばれると嬉しそうに笑わはるから』

思わず口許を押さえた。大岡くんにこの時云われるまで、全くその自覚がなかったからだ。

『そう』
『何や、嬉しない?』
『──幸せよ。嬉しくて堪らへん。先生の為なら何でも出来るなあ、て思う』

──ななしくんの声は、一拍置いた言葉選びは、『まるで恋でもしているような』響きだった。その場で聞いているにはいたたまれず、足早に客間へ戻る。大岡くんが居れば手伝いは要らないだろう。縁側を通り抜けようとますます歩みは早くなるが、池の前で一度止まる。ちょうどこの辺りだったろうか。普段であればさして気にも留めないそこをじっと見る。
思えば、自分のことを急に『鹿雄先生』と呼ぶようになったのも、自分がななしくんを名字で呼ぶ度に僅かに困ったような顔をしたのも、全てはそこに起因するのだろうか。──まさか、そんな筈は。俺の思い過ごしだ。
客間まで戻ると、夫妻は和やかに話をしているのが襖越しにも分かる。ゆっくりと襖を引くと、皐月さんが此方を向いた。ふ、と目が合い俺へ微笑む。
ああ、綺麗な人だ、ほんまにええなあ。あの人は。



「席、空けてすんまへん。続けましょうか」






 

関根くんが大会前の助言がほしいと云っていたことを思い出し、所用を済ませたあと、和室へ向かった。すると遅い時間にも拘らず何やら騒がしい。関根くん以外に誰ぞ残っていたのかと、開きかけの障子からちらりと見遣ると、まだ練習試合の最中だったようだ。人だかりの中に関根くんと嵯峨野くん、それから──、そこには思いもよらぬ光景があった。
ななしくんが読手をつとめていたのだ。それも未経験とは到底思えぬほど、聞き取りやすく、抑揚も申し分がない。一字一句つかえもない。何より、周囲の反応を見ればそれは明らかだ。自分が感じただけではない。彼女には、才がある。選手としても勿論素晴らしい、けれども。
(──何て顔してるんや)
札と向き合う顔の清々しさは、本来のななしくんそのものの姿だ。札を獲ることも、勝敗と向き合うこともけして不向きではない。しかし、それに勝るものを彼女はここで手に入れなければならないような気がする。ここで見逃してしまえば、彼女は今の道を突き進んでいく。俺は師として、彼女へ可能性の選択肢を広げてやりたかった。どんな弟子へも同じように、それはしているつもりだし、これからもしていくつもりなのだ。





「鹿雄先生、いま、何て……」
「読手に興味はないかって、聞いたんや」
「そんな、急に云われても。考えたこともなくて……」
「勿論今すぐやない。選手として段を上げて、それから」

読手になるには、まず選手としてそれなりの成績を収めなければならない。しかし、それに関しては、ななしくんの現状の取り組みで十分だ。順当にいけば、最速でも来年には読手の公認資格を取ることも不可能ではない。これは、それからの話だと云いながらも、実際はかなり近い未来を見据えている。

「君の才能をみすみす逃したない。考えてほしい──頼む」
「………分かりました。考えておきます」
「話はそれだけや。すまん、益々遅なった。お母ちゃん怒ってはるやろ」
「いいえ、大丈夫です……気にも、留めてへんと思いますから……」

俺が立ち上がると、ななしくんはどこか感情を読み取れないような顔を、見せないように下へ向けている。
やがてすぐななしくんが荷物を纏め、立ち上がったとき。急に姿勢を変えたことが悪かったのか、足元が覚束無い。小さい体が前のめりにこちらへ向かって倒れてくるのを当然のように両の腕で抱えた。胸板に彼女の頭がこつんと当たる。

「鹿雄先生、すみません!」
「それはええ」
「もう、もう平気です」
「急がんでええわ、一寸こうしとき」

ななしくんは俺の言葉に驚いたような顔をした。思えばいつでも側にいるのに、彼女を、こんなに間近でまじまじと見たのはいつぶりだろうか、小さい頃はこうして抱き抱えてやるときがあった。──まるで、自分に子供でも出来たかのような心地だった。今もそうだ、彼女は大切な弟子として、そして、両の足でろくに立てぬような子どもだから構ってやりたくなる。慈愛を向けたくなる。それだけだ、それ以上の感情はない。──彼女からするひだまりの香りが、ひどく心地良いのはきっとそのためだ。
ななしくんは、ゆっくりと瞼を閉じる。長い睫毛が震えている。

「──関根くんの車まで抱えたる」
「へ…?!いっ、いやです、そんなの」
「痩せ我慢は止めとき。明日も学校やろ」
「違います、そうやなくて」
「何や、恥ずかしいんか。阿呆、俺はこんな小さい時から大岡くんや君を見てんねん、今更……」

一歩も先に進まないような問答を続けるが、赤い顔をするななしくんをこれ以上疲弊させても仕方があるまい。半ば無理矢理彼女の膝裏に手を回そうとすると、遂に「あの」と、いう大きな声と、強い制止の手が俺の肩に触れる。

「……手、を」
「ん?」
「手を、貸して下さい。それだけで、堪忍して欲しいんです」

ななしくんは遠慮がちに、俺の着物の裾をゆっくりと握った。

20170517