×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -




「──ななしちゃん!」

大岡紅葉の目の覚めるような声が意識をこちらへ引き戻した。
久し振りに昔の事を考えてしまっていたのだ。名頃会へ来たばかりの時のことを。 客間で先生が待っているのに、客人の顔、あの方を見るといつもそうなってしまうのは悪いところだ。あの頃は新しい親に、知らぬ土地で色々なことがあったけれども、数年住んでしまえばそれも慣れてしまった。とりわけ、鹿雄先生に出会えたことは幸運と云えるだろう。両親との関係は相も変わらずであるけれど、それはそれだと思えば楽に思うこともできた。名頃会が何よりも心の拠り所になったのだ。

『ななしくん、ええとこにおった。お客さん来たから、茶頼むで』

鹿雄先生は練習に来たばかりの私に声をかけてきた。──別に平日ではなし、時間も十分に取れるから雑用の一つや二つ位構わない。私よりも新しい会員は居るけれども、先生が私に頼むのならばそれはありがたいことなのだ。ただし、問題なのはその後ろに佇んでいた人達のこと。──阿知波夫妻が来ている。

「──紅葉ちゃん。」
「やかん鳴りっぱなし。お手伝いいるやろ、お茶請けどこ?」
「ごめんね。二番目の棚の中に鹿雄先生が好きな羊羹があるよ、黒文字はその一番小さい引き出し」

紅葉ちゃんはコンロの火を止めてから、私の言うとおり、棚から羊羹を取り出す。流石やな、と呟く声に喉の奥で笑う。確かに、この台所には殆ど私しか出入りしないうえ、三時にお茶やお菓子を出すのも私だけの仕事になってしまったため、最早急須の場所一つさえ皆こぞって聞きに来るのだ。

「──そういえば。ななしちゃん、いつから先生のこと"鹿雄先生"って呼んではったっけ」

唐突に、紅葉ちゃんが私に問うてきた。

「さあ…。いつからやったかな」
「いつでも構へんけど。名頃先生、ななしちゃんから呼ばれると嬉しそうに笑わはるから」
「そう」
「何や、嬉しない?」

お茶の葉が入った缶の蓋を開く。

「──幸せよ。嬉しくて堪らへん。先生の為なら何でも出来るなあ、て思う」

先生の事ほんまに好きなんや、と紅葉ちゃん。問いとも、独り言とも云えぬ言葉に敢えて何も返すことはない。私が名頃先生の事を"鹿雄先生"と呼ぶようになったのには、勿論理由がある。 
私が名頃会に入ったあと、すぐに先生は私のことを『ななしちゃん』から『中大路くん』へ呼び方を変えた。それはどんなに歳が幼くとも、学びに来ている人間へ対しての先生なりの敬意の現れだった。 それを分かっていたのだけれど。ある時、先生が、皐月会の会長である阿知波皐月さんの事を少なからず想っているのではないかと考えられる、あるものを見てしまった。──あの人には私は敵わないと心の何処か、楔のように打ち付けられた感情があったことは云うまでもない。未熟で幼い、そんな私がそれを察することも出来ず、其れでも少しでも、先生へ近付きたいと願ってある時呼んだもの。勿論窘められれば辞めるつもりだった。



『し、鹿雄先生。お茶です』
『……。おおきに、かぐや姫ちゃん』
『え?』
『茶零してるで』
『あの。いえ、拭きます。そ、そうやなくて、それ昔の…』
『あァ、覚えてたんか。──ななしくん、名字で呼ぶと変な顔するしなァ。嫌なんかと』
『いま…な、名前…!ずるいですよ先生』
『大人は狡いんや』



あの時は肯定も否定も無かった。ただ鹿雄先生のご厚意に甘えてしまった、それだけで希うものが思いもよらぬ素晴らしい形で叶った。私のほうこそ、忘れるわけがない、忘れてたまるものか。鹿雄先生が、昔の私がいやがったあの呼び名でさえ覚えていてくれていた事だけでも嬉しいのに。

「──でも私、最近かるたの成績も悪くて。鹿雄先生に呆れられてしまうわ」
「そんな事ない。うちの練習に付きおうてくれるの、ななしちゃんだけや。他の人は相手にならへんし」

紅葉ちゃんのフォローに反し、かるたの成績がこの頃思うように振るわないのは自分が一番良くわかっていた。一方で同年代の彼女はどんどん優秀な成績を収めている。将来のクイーンを有望視されるほどに。──名頃会のかるたは攻めがるた、その指針を確実に遂行しているのは、彼女と関根さんであろうか。私は──どちらかと云えば守りがるたに近い。

「おおきに紅葉ちゃん。元気出た。次の大会で三段取る」
「その意気や」

それでも私は名頃会に居たいのだ。勝って、少しでも名前を挙げて、先生の役に立ちたい。いつか自分が、不必要とされるその日まで。







「失礼いたします、お茶をお持ちしました」

障子を開くと、丁度話を終えたところのようだった。紅葉ちゃんは練習に先に向かってもらったため、自分が一人で客間へ入る。ちらりと此方を窺って、小さく会釈をする皐月会長は相も変わらず美しい。
夫妻の方へ先にお茶と菓子を並べ、続いて先生の側へ置いた。

「ああ、今話題の中大路くんか」

と、阿知波研介さん。

「話題……?」
「大会の映像を見たよ。大岡くんと引けをとらない有力選手とね、堅実なかるたをするな、君は」

嫌味のない笑顔でそう云うと、お茶を一口飲んだ。その言葉に皐月会長の方もああ、と私の顔を改めて見ると優しい声で呟く。

「ずうっと前に、皐月会へ見学に来てくれた中大路さんとこの娘さん。覚えとるよ。これからも期待してます」

皐月会長の言葉に思わずくらりとした。あの一瞬、札を手渡した子供の顔を今でも覚えていたというのか。二人の言葉にただ何も云わずにいた鹿雄先生は、あっという間に皿の上の羊羹を食べきると丁度横に座っている私の頭に徐に軽く手を乗せた。その行動に思わず体が固まってしまう。そんな私をつゆ知らず、夫妻に向かって、挑戦的な笑みを浮かべて。

「自慢の弟子達ですわ。もっともっと強うなる」





 

お開きになると、阿知波夫妻が車で帰宅の途につくのを先生と二人で見送った。鹿雄先生はその姿が見えなくなるまで道の先をずっと眺めている。──先生は、ふたりを見ているのではない、おそらくあの方だけを名残惜しんでいるのだと思った。
先生の顔を見ようと見上げると、ちょうど此方を向いた。不意打ちの仕草にやましい気持ちもないのに顔を背ければ、ふ、と含み笑いが聞こえる。

「写真」
「へ?」
「俺の机の上の、本の間に挟んである皐月さんの写真、見たやろ」

図星である。はい見ました、とも自分の口からは云えず。今度は全くこちらから目線を逸らさない鹿雄先生は、云わずとも私のことをすべて見透かしているような心地がする。
無言は肯定だ。何もない手元を見て、先生の次の言葉を待つ。ややあって、阿呆やなァ、と一言だけ云うと先に建物の中へ入ってしまった。先生が玄関の引き戸を閉めたのを確認したと同時、その場にへたり込んでしまう。
──ああ、どきどきした。先生の大切なものを見てしまったことを先生は知っていた。擦り切れてすっかり角が丸くなって、何ど慈しんだから分からないそれへ、悔しさとも寂しさとも虚しさとも、どれもぴったり当てはまらない気持ちをわたしが抱えていたことも、自分だけしか分かり得ないこの感情を、同じように温めている先生ならば容易に汲み取れてしまうかもしれない。──私はどんな顔をして中に入ればいいのだろう。土埃の上がる地面へ、お尻をぴったりくっつけてしまったせいで、着物が汚れてしまう。早く入らねばならないのに、踏ん切りがつかずただそこに座ったままでいると。

「中大路くん、軒先で何してん」

関根さんの声が上から降ってきた。

「せ、関根さん。こんにちは。今から練習ですか」
「見たら分かるやろ。悠長に挨拶なんかしてんと立ち。服汚れるで」
「あ……はい。……」

訝しげに云われ、足と手に力を込める。が、一向に立ち上がれる気配がない。すみません、と彼を見上げた。

「ん?何や腰抜けてしもたんか」
「すみません…」
「しゃあないなあ、ほら、手」

おずおずと右手を差し出すと、優しく引き起こしてくれた。汚れた袖口や袴の裾を、嫌味なく払いながら貸し一やからなと笑った。

20170515