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鹿雄先生のお宅の広い庭には様々な木が植わっている。
その中でも、門をくぐってすぐの所に根を張った紅葉の木へは特に鹿雄先生が目をかけていた。庭の中でも比較的日当たりのよい場所にあるのは、先生がここに住むずっと前からのことらしい。
私は休日の昼前からお宅へお邪魔をして庭の掃き掃除を進めていた。昨晩は風が強かったので、きっと玄関先が落ち葉で汚れているだろうと思うと俄然やる気が湧いた。
案の定訪れてみれば、石畳を埋め尽くすように落ち葉が広がっている。
葉の具合や庭を見渡すと、紅葉の色づきはじめは例年とほぼ変わらないことが伺えた。立て掛けてあった竹箒を動かして庭の一点へ落ち葉を掃き集める。
ここはまだまだ青もみじのほうが目立って見えるが、鞍馬はそろそろ紅色の紅葉が見頃だろうか。観光シーズンのピークを迎える京都市街はどこへ足を運んでも人でごった返しているから、わざわざ紅葉を見に出掛ける気持ちにもなれなかった。ここ数年は先生の庭と自宅の庭、行きがかりや帰りがかりに眺める紅葉が秋の訪れを教えて呉れている。

「鹿雄先生、掃き終わりました」
 
私が家へ向かって声を張ると、中で片づけをしていた鹿雄先生が顔だけひょっこりと出してきて「助かる」と嬉しそうに笑った。
 
「日が陰ったら寒なってきたなあ……。もう家ん中へ戻っておいで」
「はあい。すぐにいきます」

丁寧に土埃を払った玄関はぴかぴかだ。手間を惜しまず水撒きもしてよかった。冷えてかじかんだ手を擦りながら中へ入った。
借りていたつっかけを脱いで揃えながら、靴箱の方を見る。すると、先程まで隅の方に立て掛けていた私のスニーカーが鹿雄先生の草履の隣に寄り添うように並べられていた。息をするように自然と、先生はこうしてくれたのだろうか。深い意味もなく。そう思うと自然と頬が綻んだ。この些細な瞬間を、いちいち切り取ってしまっておきたくなるほど嬉しかった。
鹿雄先生は居間へ炬燵を出すか悩んでいたけれど、結局私が外で掃除を済ませている間に納戸から一式出して組み立てていたらしい。臙脂色の炬燵布団に真四角の机はこの季節にお馴染みの顔だった。
炬燵の中へ足を入れると、じんわりと足先が暖まってきた。
机の上には切り分けられた林檎と淹れたての煎茶が二つ置かれている。鹿雄先生はまめな人で、林檎を切ったときには必ず塩水につけて表面の色が変わらないようにひと工夫していた。そのうちの幾つかにはうさぎの形に飾り切りまで施している。

「うさぎちゃんりんご、おあがり」
 
この、うさぎの形に切った林檎を「うさぎちゃんりんご」と愛らしく呼ぶのは昔からずっと変わらなかった。
楊枝を刺してわざわざ手渡ししてくれるのを受け取って齧りつく。鹿雄先生が呉れるものだから、それはきらきらと輝いて赤い実も宝石に見える。瑞々しい果実は口の中で解けた。
林檎を頬張りながら、

「次は何をしましょうか」
 
そう問うと、鹿雄先生は眉を動かした。
 
「だって先生、物はいらへんって云わはりますし」
 
私はむくれたふり、わざと頬を膨らませた。
今日は鹿雄先生の誕生日だ。だからこうして会いに来た。
事前に欲しいものも聞いた。しかし先生は『何もない』と何度問うても一言一句変えずに私に云うのだ。それならせめて、何かをさせてくれと私が強引に我を押し通して、漸く掴み取ったのが玄関掃除だった。
鹿雄先生はけして無欲な人ではない。かるた以外の物事には興味がないだけだ。金銭への執着も薄いし、あまり贅沢をしない。他人へ積極的に何かを求めないし、求める理由もないのだろう。私はそういう風にこの人を見てきた。だからこの際、いっその事無理にでも先生から何かを引き出さなければ私の気が済まなかったのだ。
 
「折角のお誕生日ですから」
「ななしくん、今日はそればっかや」
「嬉しいことは何度云ってもええんです」 
 
僅かに先生の口元が弧を描く。

「じゃあ……お言葉に甘えて、いっこだけ我儘」



鹿雄先生の我儘というのは、今度東京から観光に来る友人夫婦へ先立って土産を用意しておきたいから祇園へ行くのに付き合ってくれ、というだけだ。ついでに錦市場にも寄って、先生の好きな卵焼きを買って帰ること。我儘のうちにも入らないが、先生が折角考えてくださったことだ。用意して貰った林檎をあっという間に平らげると、すぐ出かける支度を始めた。
コート掛けに掛かっている自分のコートを羽織って、並べてもらった靴を履いた。マフラーは買ったばかりでまだ新品の匂いがする。肌触りがまだ硬い。ひざ掛けにもなりそうな位の大きさのものを買ったので、未だ巻き方に悩みながらどうにか首に巻きつけている。私が先に外に出ると、ゆるゆると支度を済ませた鹿雄先生が遅れてやってきて、玄関の鍵を締めた。ちりん、と聞き慣れたいつもの鈴の音がする。私達は何も云わずに歩き出した。 
大きな道へ出ると、正面から丁度市バスが近づいてくるのが見えた。フロントガラスに示された番号は、鹿雄先生の家から一番近いバス停に止まる車両だ。外から見てもわかるほど車内は人でごった返している。先生も目を細めながらそれを確かめたのだろう、あからさまなしかめ面をしたのを見逃さなかった。
 
「ななしくん。長めのお散歩も我儘のうちに入れてもええかな」
「勿論です」

鹿雄先生の家から祇園までなら歩いても全く苦にならない距離だ。履きなれたスニーカーを選んで良かったと朝の自分を褒めたくなる。
先生と話をしながら歩くうち、あっという間に八坂神社が見えてきた。平日でもそこそこ人の多い通りが、休日と観光シーズンであることもあいまって観光客が犇めいている、という云い方をしてしまいそうになるほど賑わっていた。時折人に阻まれて、先生より歩き遅れてしまうのを小走りで追いつく、ということを何度か繰り返した。

「先生のお友達は大学の頃の……」
「そう。くされえんやったけど、向こうが嫁はん貰てからはさすがにあんまり連絡も取らんようになったかなあ」
「お嫁さんを貰うと、疎遠になるんです?」
 
純粋な疑問を投げかけると、鹿雄先生は面食らった顔をした。なにか変なことを云ってしまったのだろうか。

「いや、彼が嫁はんを貰たことが全てやない。俺もあの頃は色々あったし……」
 
少し考えるような仕草をしながら、突然何も言わずに八ツ橋の店に立ち寄った。どうやらここで買い物をするらしい。さっと籠を掴んで私を手招きした。
 
「うーん、ぎょうさんあって分からん。ななしくん、ここから幾つか選んで。君の欲しいもんがあったら勝手にかごに入れてもかまへんよ」

何も無かったように話題を変えた鹿雄先生を見て、やっぱり余計なことに触れたのだと思った。




八ツ橋を買って店を出ると、ちょうど観光客が列になって歩いているところに居合わせた。鹿雄先生はそれを見て、はぐれへんように、と私に云って歩き出す。ひと一人分しかない間を器用に、縫うように抜けてゆく先生の背中を遅れて追った。運悪く横断歩道にぶつかって、赤信号に変わってしまえばますます先生が遠ざかっていく。早く追い付かなければ、と思うほど人混みに阻まれて前に進めない。気がつけば先生の姿はまったく見えなくなってしまった。
思わず習慣から鞄の中にしまっておいた携帯電話を取り出してみたものの、私は先生の番号を知らない。よしんば知っていたとしても、先生が携帯電話を持ち歩いていることはそうそうない。
あまり歩き回っても却ってお互い見つけづらいだろうと、四条大橋まで歩いた。人通りが多いぶん、すぐに会えるかもしれない。橋の欄干に背中を預けた。
先生の家を出るときは空に薄雲がかかっていたが、今は雲ひとつない活色が広がって清々しい。太陽が出ている割に風が強いので、立ち止まると肌寒かった。マフラーをぐっと鼻先まで上げて、暖を取ろうとしたとき。 
 
「中大路醸造の娘はん。偶然やなあ」
 
透き通った聞き覚えのある声が降ってきた。顔を上げると、紺色の着物を着た若い男性――水尾さんが足を止めて私を見下ろしている。
 
「水尾さん!先日はおおきに有難う御座いました」
 
思いもよらぬ人との遭遇に驚いた。大げさなほど深々と頭を下げると、水尾さんは困ったような笑みを洩らす。 
水尾さんは――というより水尾さんのお母様がというほうが正しいけれど――うちの醤油をいたく気に入って下さっているらしく、時折二人で店の方に買い求めにもくるので、彼のことはよく覚えている。私が稀に店番を任された日に来店された時には、長く話をしたりする。すっかり顔馴染みだから水尾さんはこうして親切に声を掛けて呉れたのだ。
目鼻立ちのはっきりした涼しい顔立ちの水尾さんは、たちまち周囲の目線を惹きつけた。それがたとい、自分へ向けられたものではないと分かってはいてもたしょう居心地の悪さを覚えた。一方、水尾さんは職業柄注視されることに慣れているためか顔色一つ変える素振りもない。
こちらもはじめは気に留めない様にと会話をしていたけれども、そのうち水尾さんが私の表情の強張りを察したのだろう。河川敷の方へ降りようか、と促してきた。確かに人通りの多い橋の上より河川敷のほうが良いのかもしれない。
河川敷へ階段を使って降りていく途中、数歩先を歩いていた水尾さんはこちらへ何度か振り返った。それが、勾配の急な場所での私の足元を気にしての事だとわかると、細やかな心遣いを感じた。
階段を降りきったところで橋を見上げる。そこでふと、先生を探すにはあの場所へ留まったほうが見つけてもらうにも、こちらが見つけるにも都合が良いことに気がついた。けれども、水尾さんが気を配ってして下さったことを無下にする訳にもいかない。何よりまた衆目に晒されることは不安だった。
私は川へ向かって真っ直ぐ腰を下ろす。水尾さんは人ひとりぶん離れて、肩を並べるようにはせずこちらへすこし体を傾けて座った。

「店以外で会うたこと無かったから、着物姿やない君を見るんは初めてかな。何処に行かはる予定やったん」
「錦市場まで。ゆっくり先生と歩いていく予定やったんですけど」
「先生いうたら前に聞いた、あの……」
「はい。競技かるたの先生です」
「その先生は?」
「人混みの中ではぐれてしまって……」

そう云うと、水尾さんは気の毒そうな顔をする。
 
「確かに、この人の多さはかなんなあ。私も17時までで良ければ一緒に探そか」
「そんな、悪いです」
「ええよ。時間あるから。どんな方?」
 
どんな方、と改めて問われると言葉に詰まった。本人の顔を知らない人へその特徴を伝えることは難しい。見慣れた先生の顔を思い浮かべながら言葉を探した。

「前髪を右に分けてはって、背ぇが高いです。切れ長の目元してはるんですけど黒目が大きくて。それから……格好良くて……」
「格好いい?」
 
私の言葉選びに水尾さんは目を眇めた。
 
「ええ、そうじゃなくて……着物!着物着ています。灰色の」
「灰色の着物着た背の高いお人なあ……」

水尾さんは私の言葉を繰り返し確かめながら、先程の私のようにまずは橋の上を探す。私ももう一度橋へ目を遣った。
 
「ああ、今、そこを歩いてはるあの人みたいな――」
 
鹿雄先生に似た背格好の男性が歩いているのを見て、水尾さんが指を指したそのとき。その男性が突然欄干を掴んで少し身を乗り出したかと思うと、ななしくん、と――声こそ川の音にかき消されてしまったが、自分の名前を呼んだ気がした。私は目を凝らして橋の上の男性を捉える。
間違いない、鹿雄先生だった。
 



「はあ、ひやっとした……」

鹿雄先生は橋の上からあっという間に階段を降りて、私と水尾さんの居るところまで駆けてくる。ほんの少し上がった息を整えながら私の肩を抱いた。今まで何処に居たのか、何故はぐれたのか、矢継ぎ早に質問を私へ投げかける先生には水尾さんが見えていないのだろう。冷静に一つずつ答えていく私が、遂にごめんなさいと謝るのを聞いて、先生はやっと微笑んだ。風で乱れた髪が、襟元が緩んでそのままになっている。身なりが崩れることを厭わず私をずっと探していてくれていたのだ。漸く先生の注意が水尾さんへと向いたのだろう。私の肩を強く抱いて、自分の方へ身体を引寄せながら彼を訝しげに見る鹿雄先生の目は、警戒をはらんでいる。
私は思いがけず、先生と距離が狭まったことに動揺して、荷物の入ったかばんを足元に落としてしまった。反射的にかばんを拾い上げようと伸ばした私の腕を、先生はさせまいと絡め取る。これもまた思いがけないことだった。
 
「ななしはん、この方が探してはった――君の先生?」

水尾さんはそんな様子の鹿雄先生を見て、少々驚いた顔をしながら問いかけてくる。
 
「そうです……。先生、この方はお店のお得意様で、能の水尾流宗家、水尾春太郎さんです」
 
私が紹介をすると水尾さんは鹿雄先生へ丁寧に頭を下げた。先生も私と水尾さんが知り合いだとわかると、途端に眉間に寄った皺がとれて、ぱっと目を丸くしながら、

「そうとは知らず。弟子が世話になりました」
「いいえ、私が不遠慮やったので。不審人物に見えましたやろ」
 
冗談っぽく笑う水尾さんの言葉に、鹿雄先生は何も云わず苦笑するところを見ると、彼が私を誑かしていると思っていたらしかった。先生は嘘がつけないたちだ。私の肩から手を離すと、足元に落ちたかばんを拾って埃を落とす。私にそのかばんを手渡して呉れながら、知り合いかどうか聞けばよかった、とまだ気まずそうにした。
 
「ななしはん、ずっと泣きそな顔してはったのにもう笑て……。まるでお二人は崇徳院の歌のようですなあ。水の流れのように分かたれても、必ずまた逢えるような……」
 
そんなとき、先生と私のやり取りを見ていた水尾さんがふしぎなたとえで私達をさすものだから、心臓が高鳴る。水尾さんにとって、先生と私はどううつって見えたのだろう。彼の次の言葉が紡がれるのは、恐ろしくもあり、一抹の心のきたなさを含んだ期待もあった。私はこの歌を、恋の歌だと信じて覚えてきたから。
だから――

「ええ師弟関係です。私の目から見ても」
 



 
空はすっかりくれない色に染まっている。
澄んだ鴨川に空の色が反射して、まるで落葉した紅葉が川いっぱいに流れているようだ。こんなに美しい色を二人で眺めることが出来るなんて、なんて贅沢者なのだろう。
そんな喜びが胸に迫る一方で、また今年も何もできず、その上迷惑をかけてしまったことを悔いていた。

  
「先斗町のお店にだんだん明かりが点いてきましたね。まっ暗くなる前に先生のお好きな卵焼き買って帰りましょうか……?まだ残ってるかも……」
 
先生の方へ顔を向ける。私と同じように川の方を眺めているだろうと思っていたその目は、なぜか少し前から私を捉えていたようだ。何か云いたげに先生の口が開いたが躊躇って、まず、ななしくん、と私の名前だけを呼びかける。
 
「今日は寿命が縮まる思いやった。俺をも少し長生きさせて欲しいもんやわ」

至極もっともだ。返す言葉もない。

「ごめんなさい」
「――ああちがう、そうやなくて……またきつい物云いして……」

先生は自分で選んだ言葉を、なぜか少しずつ直していきたがった。心から私の心配をして呉れたのだということ、それ故に先生があえて強い言葉を使ったことも、私はもう十分に分かっているのに。先生の優しさは知っているのに。

「君はもう、俺の袖から手離したらあかん」

何と云ったら良いのか、先生の中で正しいと思う答えは出ないようだった。その代わり、飾り気のない思いを口にして、鹿雄先生は私の手を強引に取る。先生自身の着物の袖をしっかりと握らせてくれて――私達は足早に歩き出した。横顔へ夕日が目一杯にかかると、頬を紅くしているように見えたのは……。

「……ななしくんの作る卵焼きが食いたい」

ごく小さな声で絞り出された、その我儘とも呼べぬものが愛おしくて――涙が出そうだ。

「はい、いくらでもお作りしますから」

私がそう答えて先生の手に触れたとき、その手は手汗でほんのり湿って冷たかった。
 
20190112

遅くなってごめんね先生……
お誕生日おめでとうございました!