×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -




ついこの間まで、自分の選手生命に限りは無いと思っていた。生涯を捧げるものを、奪われる気持ちは分からなかった。その日は突然訪れて、時を経る毎にじわじわと現実味を帯び始めた。そして遂に日常生活以外の場所で支障をきたした。
冷静さを欠いているのは分かっていた。自分の想定を遥かに超えた事態が起こったとしても、冷静でいなければならないとあれほど人に教えてきたのに、己はどうだ。ただ、頭が真っ白になった。
このままでは負けてしまう。そう思うと怖くてたまらなくなった。俺にはこれしかない。これだけが俺の全てで、存在価値だ。無くなってしまったら、どうやって生きていけというのか……。

 
関根くんがコンビニに車を停めた。手持ちの煙草が切れてしまったらしい。小走りで店舗の中に入る彼の背中を車内から見送りながら、同じ姿勢でいて固くなった腰を少し動かす。シートが大袈裟なほど、ぎし、ぎしと軋む。
車の中でラジオの音だけが明るい音楽と共に時刻を告げた。何やら耳障りになって消してしまうと、ななしくんの控えめな寝息だけが聞こえる。これは不思議と気分が和らいだ。シートベルトを外しながら背もたれを傾けて後部座席を見ると、窓から彼女の顔に向かってちょうど西日がかかっている。瞼を閉じているからきっと眩しくはないのだろうが……。緋色に照らされた彼女は年不相応に美しく見えた。日頃から感じているような幼さは潜んでいた。
膝の上で持て余していた羽織を掴んで助手席の扉を開けた。後部座席の扉の前に立つと、極力音を立てないようにドアレバーを引く。ななしくんはシートベルトに頭をもたげて、無防備に眠っている。ふだんは丁寧に櫛を通してほつれ一つなく纏まった髪が、額から頬にかけて顔を隠すようにぱらぱらとかかっていた。毛先も絡んでいる。
 
「ああ、あのとき」
 
無意識に声が漏れた。
俺を止めて呉れたときに乱れたのだろうか。
ななしくんの髪に手櫛を通して、耳にかけてやる。触れたとたんに離すことが名残惜しくなってくると、頬を手のひらで何度か優しく撫でた。
俺は、なりふりかまわず大声で怒鳴りつけたあとの、ななしくんの表情を見逃さなかった。体も震えていたではないか。それでも彼女はけしてあの場から去ることをせず、最後までもがいた俺を見続けていた。自分は弟子だからと、こちらが気後れするほど真剣な眼差しを向けてきた。彼女の曇りのない澄んだ瞳に──あの人を重ねてしまったのではないか。何度もあの眼に支えられてきた、生かされてきた、喜びを貰ったから。もう二度と向けられることが叶わないと分かっているから、僅かな面影に縋ろうとしたのか。
そうじゃない。俺は縋ろうとしたんじゃない。
支えられている、見守られている、慕われている。俺はそれに応えようとしただけだ。
 
「さすがに、これは要らへんな……」
 
頬から手を離すと、扉を閉めた。
夕日がすっかり建物の向こう側に沈んで、跡形もなくなってしまった。星が瞬き始めている。三日月に靄がかかって控えめに浮かんでいる。橙と金色が鮮やかに混ざって──こういった景色をなんと言ったか。
 
「うわあ、ゴールデンアワー。こういう時に限って、カメラ持ってきてへんから……」
 
卒然、離れた所から声がした。
関根くんが携帯灰皿に吸いさしの煙草を押し付けながら戻って来たかと思うと、缶コーヒーを差し出してきた。礼を云いながら受け取ると、彼は徐ろに俺の隣に来て車に背を向けてもたれかかった。自分の飲み物はポケットにしまっていたようで、取り出すと屋根の上に置く。空いた両手を空へ向けて、フレームを作る仕草をしながら残念やなあと呟いた。綺麗な景色を見ればすかさずカメラの中に収めたくなるのは職業病だろうか。

「ゴールデンアワーか」
「マジックアワーとも云います。お日様が沈んでしもてから、ほんの少しの間だけ見られるええ色ですね……って、名頃先生は知ってはりますよね。すんません」

関根くんは少し恥ずかしそうに頭を掻いた。
俺は肯定とも否定とも取れないような笑みを返す。
缶コーヒーの蓋を開けて一口飲むと、気持ちが落ち着いたのだろうか。自然と溜息が漏れた。
 
「先生、あの……」
 
俺の頭の中を読んだようなタイミングで、関根くんはばつが悪そうな顔をしていた。次にどんな言葉が出てくるのか、大方予想は付いた。
 
「今日は、君らには居心地の悪い思いをさせたやろ。……すまん」
 
俺が先に素直に謝罪を述べると、関根くんは安堵したらしかった。

「いえ……別に居心地悪くは無かったです。ただ、先生らしくないなあって思ただけなんで」
「俺らしくない?」
「ああ、何やろ。上手く云えませんけど。もし困った事があったら、何でもいつでも云うてください。僕でも、他の誰かでも……」

関根くんの云う『困ったこと』は特定の事柄を、俺の目の件を指しているわけではなかった。病について知っているのは今のところななしくんだけだ。彼女が俺のことをそう軽々と、例え親しい相手であったとしても洩らすことはないだろうという不思議な信頼もあった。
関根くんは、見えぬ核心へいたずらに触れないよう、慎重に言葉を選んで呉れたのだろう。彼にもまた別の信頼があった。親しみがあった。きっとほんとうの事を告げても受け止めてくれるだろうし、俺にとって何の不都合も無いのかもしれない。

「おおきにな、関根くん。頼りになるなあ」
 
それでも今は、精一杯の虚勢を張った。
  

俺の家の前まで着く頃には、すっかり辺りが暗くなっていた。ここはただでさえ灯りの少ない路地だのに、電球が切れた街灯がちらほらあった。辛うじて点いた灯りの周りには小さな蛾が忙しなく飛び回っている。
車のエンジンを切った関根くんは、車内灯を点けると僅かにバックミラーをずらして後部座席を見た。
俺は直接座席から身をぐっと乗り出してみる。ななしくんの呼吸が深いのをたしかめてから、関根くんと目を合わせてどちらともなく笑った。

「ななしくん」
 
一度名前を呼んでみた。ななしくんは小さく身じろいだものの起きる気配がない。余程疲れているのだろう。一先ず車から降りて、後部座席の扉を開いた。
 
「どうします?このまま寝かしておいて、家まで送っていってもええですけど」
「いや。起こしたら可哀想やし、自然と目覚ますまでうちで寝かせとく」
 
シートベルトを外すと、彼女の腕を軽く自分の首に回して抱き上げた。
人は眠っているときの方が重みを増すのはなぜだろう。ななしくんの顔をまじまじと見ていると、何ということはない、あどけない子供だ。なんの気無しに背中を擦ってやると、甘えた様子で頬を寄せてきたので口元が緩んだ。夢の中で、誰かに甘えているのだろうか。甘えていられる様な人が、彼女にはいるのだろうか。

「先生。一つ聞いてもええですか」

関根くんがブランケットを丸めながら、静かな口調で問うてきた。



離れの方に向かう途中で、ななしくんが目を覚ました。どこを見ているのか分からないような顔つきでぼんやりとしている。
 
「せんせ、ここ……」
「俺の家の離れ」

ななしくんは大人しく腕の中に収まっていた。暗い廊下を抜けて居間に着くと、レースのカーテンから月の光が差し込んで部屋を薄明るくしていた。彼女を両手で抱えているから、部屋の電気を点けられないなと思っていたけれども、これ位明るければ足元は十分に見える。

「取り敢えず、君の家に電話をしてくる。一旦ここに降ろすけど」

そう声を掛けながら、首に回していたななしくんの腕を優しく外したとき。
 
「夢みたいです。鹿雄せんせが、こんなに近いから」

眠りから覚めたばかりだからだろうか、ふだんの大人びたような口調ではなかった。
 
「夢か……」

もしこの身に起きたことがすべて夢なら、果たしてそれは喜ばしいことなのだろうか。
 

 
「こんばんは。お世話になってます、名頃です」

電話を掛けた先はななしくんの家だ。二コール目でいつもの家政婦の声がした。

「お世話になっております。ななしさんに、何か……」
「昨日今日で疲れが出てしもてるみたいで。今うちで眠ってはるんです。良う寝入ってますし……起こすのも気の毒やと思いますから、目え覚ましたら飯食わせて帰します」
「それは……。ななしさんがお目覚めになったら車でお迎えに上がりますので、ご連絡下さい」
「ええ、分かりました。それでは」
 
受話器を置くと、ふと自分のしていることの危うさを感じた。
関根くんの申し出を断り、わざわざ彼女の家に電話をかけて最もな理由付けをして、少しでも後ろめたいさを減らしたかった自分の狡さがどこからくるのか。
居間へ戻ると明かりがついていた。ななしくんはすっかり目を覚まして、しゃんと座っている。そのことに少しがっかりした。彼女は壁掛けカレンダーを眺めていた。予定を忘れがちな俺が、細かに書いた文字を読んでいるふうに見えた。
締め切っていたはずの窓もななしくんが開けたのだろう。冷たい風が入ってきて肌寒いくらいだった。日中の暑さが籠もっていた部屋の空気が新鮮なものにすぐ入れ換わる。
 
「ななしくん」
 
声をかけると弾かれるようにこちらを向いた。何だか泣き出しそうに見えた。

「先生。すみません、私」
「……もう一眠りしたら。今日は疲れたやろ。客間に布団敷いたるから」
「いえ、車の中で沢山眠ったのでもう大丈夫です」
「そう……。喉乾いたやろ。茶でも淹れてくる」
「お茶でしたら私が。先生はお座りになっていて下さい」
「それやったら、いつもと変わらへん」
 
俺の言葉にななしくんは不思議そうに首を傾げた。思わず何でもない、と後付をしたけれどもこの真意に彼女が気がつくはずもあるまい。
ななしくんは半腰でいた俺の肩を触りながら、やんわりとした口調で座ってください、と促した。慣れた手付きで机の上のリモコンの電源を押して部屋を賑やかにしていくと、
 
「変わらなくていいんです」
 
やはり彼女には全て見透かされているのではないか。

20180927