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「中大路くん、トイレ長すぎ」

体を強く揺さぶられるまで、自分がぼうっと立ちっぱなしでいたことに気が付かなかった。はっと、声のする方向へ振り返ると関根さんが呆れた顔をして私の肩を掴んでいる。驚いた顔をしていたからだろうか、こちらの様子を伺いながら不思議そうに首を傾げていた。そんな関根さんを見て、少しだけ気持ちが穏やかになった。小さく息を吐く。
試合開始時間が差し迫っているからだろう、人でごった返していた廊下も物寂しくなっていた。アナウンスの声が一際大きく反響している。
頼まれもののペットボトルのお茶は手の中ですっかりぬるくなってしまっていた。きっと冷たいほうがいいに決まっている。買い直さなければいけないだろうか。

「……関根さん」
 
安堵感からもらした声色が思いの外不安げなものになってしまって目線を反らした。何かあったのかと気取られるのが怖かった。右手はペットボトルについた水滴で濡れている。反面、左手はひどく乾いていた。どうにか顔を上げると「お待たせしてすみません」と続けた。
 
「もう名頃先生の試合始まるで。君、今日撮影係やるって自分で云うてた癖にちっとも戻って来いひんから」
「少し迷ってしまって」
「帰り道に?それとも、どの茶にしよか……って?ほら、カメラ持って。ベルトに手通す」

ペットボトルを取られ、代わりにビデオカメラを握った。
これは、鹿雄先生が家電に詳しい関根さんに勧められて買い求めたものだった。手ぶれを自動補正してくれるから、前よりも試合が綺麗に記録できるようになるのだと話していたのを聞いたことがあった。いつか、先生は稽古中にこれを使って試し撮りをしていた。あの時の動画に何が撮されていたのかは見る機会が無かったため分からない。取り留めもなく部屋を映していたのだろうから、きっともう消してしまっているはずだ。ただ、あのときの先生は、おもちゃを貰った子供っぽい無邪気さでビデオカメラを構えていたのが可笑しくて、愛おしくて──私はそれを遠くから眺めていた。先生が映す世界の一つの背景になれたような気がして、それが嬉しかった。カメラのレンズ越しに先生を見ていた。
関根さんに背中を押されながら小走りで大ホールに戻った。するとすぐ鹿雄先生の姿を捉えたものの、先生は声を掛ける暇もなく中央へ向かって歩き出してしまうのを目で追うことしか出来なかった。挙げかけた右手は行き場を失って、静かに下ろすほかに無い。先生がいつも私にして呉れるように、一言何か気の利いたことを云いたかったけれども──それは叶わなかった。
鹿雄先生は試合相手の前に座った。先生は背筋をぴんと伸ばして正座をしている。試合前、畳の上で姿勢が一度も崩れることがないのは名頃会の会員なら皆知っている。
今回の対戦相手は皐月会の会員で、大会の大小問わず何度も上位入賞を経験している中年の男性だ。過去の皐月杯のポスターの一角を飾ったこともある。私もその人の顔には当然見覚えこそあったが、鹿雄先生と当たるのは初めてのことだ。洩らさずに記録しなければならない。

「ななしちゃん、大丈夫?」

ビデオカメラの電源を探していると、横から紅葉ちゃんが声を掛けてきて呉れた。

「うん。関根さんみたいに上手く出来るか分からへんけど」
「そうやなくて。顔、真っ白やから」
 
不意に、紅葉ちゃんの指先が頬に触れる。
すると触れた先から何故か悲しくなって、先程のことをすべて打ち明けてしまいたくなった。この心の蟠りを、留めておかねばならないものを、早くどうにかしたい自分が居た。
阿知波会長が掛けてくれた言葉は私を慮ったものに相違ないのに、どうしてこんなにも虚しくなるのだろう。私が、会長の前でどこか情けない顔をしていたのかもしれない。鹿雄先生のことをただしく伝えていたら、私の言葉が足りていたら。そうしたらきっとこんな気持ちにはならなかったのではないか。 
 
「……人ごみで疲れただけ、大丈夫」

紅葉ちゃんの手を優しく包んで、頬から離した。
私の学ぶべき所は名頃会以外何処にも無いと、そう思っているから。誰かにも、他人にもそう見えていてほしかったのかもしれない。
これ以上考えるのが嫌になって、逃げるようにビデオカメラを構えた。焦点が、鹿雄先生へぴったり合った。自分の視界に先生だけが写っている。真剣な眼差しは真っ直ぐ相手を射抜いていた。
試合は接戦だった。僅かに相手が札を多く取っているものの、先生ならば巻き返すことはけして難しくない。難しくないはずなのだ。
 
「……?」

鹿雄先生の横顔に、焦りと苛立ちが見え始めた。明らかに冷静さを欠いている。ふだんであれば、まだ焦る必要も無いこの段階でらしくもない焦りを感じている理由が分からず、一度カメラから目を離す。そして、改めて肉眼で先生の姿を捉えた。先生は眉間に深く皺を寄せてから瞼を閉じて──再び開いてすぐ、ほんの一瞬表情が凍りついたのだ。その時ふと、先日のことを思い出した。
 
『今日診てくれはった医者の見立てでは、俺の目はあと一年くらいのものやと……』

過ぎった言葉に心臓が跳ねる。

「秋の田の──」
 
読手によって次の札が読まれたとき、ばちんと手同士がぶつかり合う鈍い音がした。一枚の札を手元に置きながら、鹿雄先生と対戦相手の男性がぽつぽつと会話を交わしている。初めは互いに小さな声だったものが、徐々に熱を帯びてゆく。

「今のは俺の方が速かったやろ!」

そしてついに、大声が静寂を打ち消して──私は思わず身をこわばらせた。
ホール全体がざわつきはじめる。一際響く声の主は他の誰でもない、鹿雄先生のものだった。「揉め」だ。
激昂した姿を見るのは勿論初めてではない。入会したばかりのときにはじめてその姿を見たあとも、もう数え切れない程目の当たりにしてきたし自分自身もその対象だった。何と熱のある怒り方をする人なのだろうと思ったものだった。
私の周りには、少なくとも本気で人を怒る大人は一人もいなかったのだ。大人は皆冷たい声で胸をえぐるような言葉を向けて、時には痛みを伴った。しかし、先生は違った。私を本気で説いて、導くための怒りを呉れた。
だがこれは違う。先生の手が相手の手によって弾かれた。これは相手が先に札を取ったことを意味している。私ですら目視できるほどであったのに、先生は何故かそれを頑なに認めようとせず、憤っている。
競技かるたの試合に、審判はつかない。したがって、何かあった時は当人同士で話し合う形をとっている。
遂に座ったままで話をしていた先生が急に立ち上がった──かと思うと、相手の胸ぐらを掴みかけた。辛うじて相手が身を翻したのでその手は空を切る。

「な、名頃先生……!?」
 
紅葉ちゃんの小さな悲鳴が漏れ聞こえたと同時に、私はカメラを畳の上に置くと駆けた。誰かの制止する声も聞かずに、まっすぐ先にいる先生めがけて。自分でも何故こんな風に体が動くのか分からなかった。けれど兎に角、何も出来なくとも今は先生の元へいかねばならないと思ったのだ。
自分よりも遥かに背の高い鹿雄先生の肩や、腕を引くことは叶わない。今大きな声も出るかどうかわからない。確実に止めるにはきっとこれが一番良い。半ば強引に後ろから先生の腰に手を回して強く抱き縋った。すかさず、誰や、と怒鳴り声が降り掛かってきて体が縮こまる。私はそれに益々腕の力を込めた。
周囲のざわめきは随分と遠くに聞こえた。

「せんせえ、私です。中大路です」

鹿雄先生の背中の骨に頬が痛いほどぶつかった。湿った着物から少しだけ、汗の匂いがした。見た目よりも先生の体は筋張っていて固い。
余裕など無いはずなのに頭に浮かぶのは、小さな頃に甘えておぶってもらった記憶だ。目を閉じて初めて鹿雄先生の鼻歌を聞いた。ひと昔前の、私には耳馴染みのない歌謡曲だった。こだわって何かを聞いているなんて話は一度も聞いたことがなかったけれど、先生も歌など歌うのかと顔が見えないのをいいことに一人笑った。時折外れる音程がおかしかった。そんな記憶と今の状況とは何もかも重なる所などないのに、不思議なものだ。
私の体は震えていた。鹿雄先生が恐ろしいわけではない、ここで自分が出しゃばったことで万が一試合自体が無効になってしまったら、と今更思ったからだ。それでも、あれ以上感情の昂ぶった先生をただ見ているだけでいるのは嫌だった。

「先生……」

体の力が抜けて、ずるずると畳にへたり込む。それでもどうにか鹿雄先生をここに留めねばと、今度は情けなく足に縋る。

「……失礼します。少し、時間貰てもええですか」 

卒然、頭上から毅然とした声が聞こえた。
鹿雄先生がゆっくりと私の腕に触れると、丁寧に自分の体から外す。座ったままの私と向きあうように片膝をついてしゃがみこんだ。ぼろぼろに泣いた私の顔を見て、唇の端だけを少し上げて笑っている。急に恥ずかしくなって顔を背けてすぐ。先生は予告もなく私の膝裏に手を差し込んで体を横抱きに持ち上げた。
思いがけないことに声を上げる間もなく、後頭を強引に抑え込まれたせいで先生の肩に顔が勢いよくぶつかった。おそらく先生が、私の情けない顔をこれ以上周囲に見せまいとしてくれたからだろう。目尻に溜まった涙は先生の着物の肩口を濡らした。
先生が私を会場の隅まで運んでくると、関根さんと紅葉ちゃんが慌てて近づいてきた。

「関根くん、大岡くん。ななしくんを頼むな」
「分かりました。……あのう、流石に僕はお姫様抱っこ出来ませんけど?」
「せんで宜しい。ちゃあんと一人で立てるようになるまで、傍に居ってやってくれ」

私をゆっくり畳の上に下ろして、足先がついたことを確かめると二人へ私を渡した。先生の手を離れても、すぐに紅葉ちゃんと関根さんの手のひらが背中に触れる感覚に安堵した。
先生は私と同じ目線の高さにまで腰を落として、私のくしゃくしゃになった前髪をゆびさきで器用に整えてくれる。

「ななしくん」
「……はい」
「君はええ子や」
 
ひどく優しい声にまた、じわりと涙が滲んだ。
 
「いいえ。先生……ちっともええ子に、なれないんです」
「こらまた遠慮しいやな……あと少し、ここ居ってくれるか」
「勿論です。先生の弟子ですから。最後まで」
「はは、そうか。そら良う出来た弟子がおって嬉しいわあ……。さあて、頑張ってこよ」

私の頬に伝った涙を指で強引に掬い取ると、立ち上がって、ざわめきの中へ戻ってゆく。
その日、鹿雄先生は三位入賞を勝ち取った。
 

 
道中、関根さんの運転する車の中は殆ど関根さんから切り出される会話が中心だった。助手席には先生が座って、いつものようにのんびりと返事をしていた。私は後部座席で時折振られる話題にええ、と頷いた。
関根さんの明るい声と、鹿雄先生の優しい声と、ラジオの賑やかな音と、心地の良い揺れが私の瞼を重くする。何度か窓の方へ倒れそうになる。気分を紛らわそうと景色を見ればまだ見慣れない道を走っていた。会場を出てもう随分と経ったのではないかと鞄の持ち手に巻きつけてあった腕時計の文字盤を確かめてみれば、まだ10分ほどしか針を進めていなかった。時間はおそろしく緩やかだ。

「中大路くん眠そうやなー。横になったら」
 
赤信号で車が止まった折、関根さんは一度後部座席に向かって振り向いた。
 
「平気です」
「目半分閉じながら云っても説得力無さすぎやろ。座席に毛布あるから使てええよ。先に先生の家着いたらその時起こしたるから」

そう云われれば我慢のならない眠気が襲ってくる。隅に畳まれた薄手の毛布を広げると柔軟剤の香りがした。

「エアコンの風、寒ないか」
 
先生はそう問いながら、座席から身を乗り出して私の手首を探って触れる。そして何も言わずにほんの少し風量を下げた。
ブランケットを鼻の先まですっぽりと被った。座席の隙間から二人の横顔が見える。ラジオの音量まで小さくなって、二人の会話の声もささやくようだった。

「俺は……ななしくんには、どうも弱いなあ」
 
先生の呟きがエンジンの音に紛れて聞こえる。
それが夢か現実かも区別かつかないほど心地の良い眠気に沈んでいく。

20180904