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大会の二日目。
短いクラクションの音が一度だけ外から聞こえる。玄関の戸を引いて外を見れば関根さんの車が門の前に停まっていた。今日は関根さんが鹿雄先生と私を乗せて会場まで向かう予定になっている。

「お早う御座います、関根さん。宜しくお願いします」
 
車の中には未だ誰もいない。どうやら一番に拾われたらしい。関根さんがお早うと遅れて私に返す声を聞きながら後部座席に乗り込む。膝の上にお弁当を載せてすぐ、車は走り出した。ここに来るまでに吸っていたのだろうか、車内からはめずらしく煙草の匂いが強く感じられた。
路地へ入っていくとすぐに先生の姿が見えた。助手席側の窓越しに、先生は私をふっと見ると微かに目を細めたような気がした。そして、扉を開くなりすんと鼻を鳴らしたかと思うと、

「関根くん、車の中煙草臭いで」
 
からっとした声色で云いながら、座席に腰を落ち着けた。

「ああ、すんません──気が付きませんでした」
 
鹿雄先生が云うほど気になるものではなかったけれど、指摘された関根さんは車を進ませながら、窓を開く。冷たい風が車内に吹き込んであっという間に空気を入れ替えた。
ふと自分の服の袖を鼻先へ近づけてみる。意識を向けてみればまだ仄かに匂いが残っているような気がした。
名頃会は喫煙者が少ない。関根さんと二、三人程であろうか──鹿雄先生は吸わない。家の中はとうぜん禁煙になっているので勝手口から出てすぐのスペースが事実上喫煙所になっている。そこには、小さな灰皿を置いてあった。気が付いた人が灰を捨てる決まりになっていたようだけれども、私が片付けをするようになってからその決まりは無くなったらしい。
お稽古が始まる頃は空っぽにしてあるのに、帰り際に見に行くと吸い殻が山のように積まれているから不思議だ。どこからか自然と湧いたその吸い殻の火が全て消えていることを確かめてから、小さな袋にすべて纏めてしまうだけだから手間ではない。ただ、どうにもあの独特の焦げ臭さだけはあまり好きになれなかった。
 
「昔は名頃先生も煙草吸ってはったのに」

不意の関根さんの言葉に、私は顔を上げた。
 
「今はもう少しも欲しゅうならへんなあ」
「へえ、僕も禁煙しようかな」
「思ってもないくせに。止めると、匂いに敏感になるみたいやな。それから、少し太るし」
「食いもんが美味く感じるらしいですね」
「うん。それもあるけど、口寂しくなるからや。俺は飴ちゃんばっかり食べてた」

鹿雄先生は懐から何かを取り出した。関根さんが笑いながら自然な仕草で左手を伸ばすと、先生は手のひらの上に小さな飴玉の小袋を一包置いた。

「ななしくんも食うか、ほら」

つづいて先生は振り向きながら此方へ手を伸ばした。
私が小さく頷いて右手を開くと同じ赤色の包が置かれる。すぐに包装を破いて口に含んでみると、優しい甘さが広がった。苺味だった。前の方から飴玉を噛み砕く気味の良い音がする。関根さんはすこしせっかちだから不思議ではない。

「そういえば」

鹿雄先生は前に戻した体をもう一度後ろの私へ向けた。
 
「昨日のうちに推薦状を書いたから。君やったら、直ぐに公認読手になれるやろ」

自分のことのように誇らしそうにして呉れる先生を見ていると、単純に自分の力のことを思うよりも嬉しく感じた。
そんなやり取りには、関根さんは特に入ってくることもなく黙ったまま前を見ていた。
飴玉を砕く音が少しだけ大きく聞こえる。

 
会場には既に紅葉ちゃんと伊織さんが私達が着くのを待ちわびていた。
まだ試合が始まるまで時間があったので、御手洗いを済ませるために手荷物を紅葉ちゃんに預けてから入り口手前へ戻った。昨日一度ここを使っているため、施設の中の設備が大方頭の中に入っているから迷う心配もない。途中、関根さんに頼まれていたお茶を自販機で買い、皆の集まる場所へ戻ろうと廊下を早歩きで進んでいたとき。突然肩に軽く手が掛けられる。中大路くん、と聞き慣れた低い声に振り返ると、阿知波さんが私をやさしく見下ろしていた。

「やっぱりそうや。中大路ななしくんだね」
「阿知波さん……!ご無沙汰しております」
「まあ、そう畏まらんでもええよ。昨日はおめでとう。優秀な弟子を持って──名頃くんもさぞ喜んだろう」
「有難う御座います。ぎょうさん褒めてくれはりました」 
 
気恥ずかしさから頬が火照った。
阿知波研介さん。皐月会長の旦那様であり、皐月会運営の支援者でもある。
鹿雄先生がこの人自身について言及することは殆ど無かった。私だけがこうしてきちんと顔を突き合わせて話をする機会に恵まれたのも、今日位のものだ。はじめこそ、阿知波さんの顔を見上げて少々戸惑いながら言葉を選んでいたものの見た目よりずっと話しやすい人だ。目下の子供にも親しみを持って接してくれる。次第に自然と笑みが溢れるほど会話がはずんだ。

「ところで、君は読手を目指していると小耳に挟んだんやが、本当かね」
「そうです」

私の返事に阿知波さんは少し顔を曇らせる。
 
「名頃会に、君に教えられる知識や経験を持った人は居るのかね?」
「鹿雄先生が一番お詳しいですから……。先生から教わっています」
「今はどうやって練習を?」
「お稽古の中で、私が読む機会を頂いています」
「ふむ。直近の協会主催の練習会名簿に、中大路くんの名前があったから、驚いたよ。当日は是非聞かせて欲しいものや。それに……」

阿知波さんは一度、何か云い淀んでから続ける。

「それから、皐月会には公認読手の資格を持った会員もおるから、いつでも勉強をしにおいで。皐月も君を気にかけとるからね。会と会の枠を超えて、学ぶ権利がある」

最後まで阿知波さんの言葉の一つひとつはどれも丁寧で、私を心から気遣ったものだったけれども、その端々からふしぎな居心地のわるさを覚えた。
何故あんなに優しい人へこんな気持ちになるのか、皆目検討もつかなかった。阿知波さんが廊下から姿を消すまで、その背中をぼうっと眺めていると通りすがりの人の腕が時折ぶつかる。迷惑そうに眉間に皺を寄せられる。それに謝ることもままならない脱力感が残っている。
阿知波さんは、非の打ち所がないとても良い方だ。他の会の会員の待遇について心を砕くことが出来る人はそうそう居ないだろう。色々な人に信頼されている。人望が厚い。阿知波さん自身が読手の資格を持っているし、皐月会のことを持出したのも自然のことで納得がいく。いつでも来てもいい、だなんて選択肢を呉れる。その選択を私から望んで取ることはけしてないけれど。

「有難う御座います……」

ようやく絞り出した声はあの人には届かない。


2018427