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会場の正門に車が停まると、扉の鍵が解除された。少しだけ開けて外を見るとあかるさにぼんやりとしていた頭も覚めはじめる。
広い玄関の前にはまばらに人が立っていた。そこへじっと目を凝らせば、すぐに見慣れた背格好をみつけて傍へ駆けた。軽く弾んだ息を整えてから声を掛ける。
 
「おはようございます、鹿雄先生」
「お早う。……ほんまにはやいな、受付時間までまだだいぶあるけど」
「遅刻してしまったらいけないと思って……」
「君らしいなあ」
 
先生は静かにほほ笑んでいた。
──昨日の出来事などは無かったことになっているような互いの振る舞いに心の何処かで安堵する。
昨晩、あの後は家から思いがけず早い迎えが来たため挨拶もそこそこに玄関へ向かった。早く帰らなければと震える手で必死に靴紐を結ぼうとして、何度か結び目が作れずまごついた。先生は最後まで靴を履く私の背中を何も云わずにじっと見つめていただけだった。
緩い感覚が残ったものの立ち上がったところで、先生は「ななしくん」とひそめるような低い声で私を呼んだ。恐る恐る振り返れば自分の鞄が視界いっぱいに入ってくる。先生が私の鞄を大事そうに抱えていた。 
 
「忘れもん」
 
差し出されたそれをただ黙って受け取った。その時の先生の眸はすっかり熱も冷めきって穏やかなまま戸を閉じ切る最後までそうであった。
こうして先生が、私へ云いかけたいいしれない不安を孕んだ言葉は明かされなかった──否、明かされずに済んだのだ。

「紅葉ちゃんも、すぐに来ると思います。さっき連絡をしたら近くに居てるって云うてましたから」
「駐車場の場所、分かるやろか。入り組んでて厄介やから……。地図を送ってあげたらどう」
「地図ですか」
 
提案に首を傾げる。
それというのも、鹿雄先生は以前関根さんの車に相乗りをした折、駐車場の場所がわからず受付時間のぎりぎりまで何度も同じ道を通るはめになった経験があったらしい。その後何度かここの会場を使う機会があるうち、周辺の地理に明るくなったことが伺えた。先生が指を指した先には大きな立て看板があった。この辺りの地図が簡略化されて描かれている。雨風に晒されているせいか、継ぎ目には錆が浮き出て色や文字が褪色しているものの読み取るには十分だ。私は巾着から携帯電話を取り出すと、看板へ向けた。

「赤い矢印があるやろ」
「ええ」
「もう少し上。ほら」
 
鹿雄先生は上手く照準を合わせることが出来ない私へ遂にしびれを切らしたのか、少し屈むと携帯電話を握る私の手の上からすっぽりと先生自身の大きな手を重ねた。爪の先を丸く短く整えた指がよく見える。あかぎれ一つない、靭やかで繊細で美しい手だ。それでいて、青白かった。血管が薄い皮膚の下に透けて見える。私の視線が自分の手の方へ向けられていることに気がついたのだろう。先生は、まだ眠たいんやろとからかうように呟きながら満足がいくように私の手先を調整をする。すぐにシャッターを押すように促された。かしゃり、と電子音が響く。
日差しで画面に影がさすので、先生は自分の手で庇を作って覗いている。私はそばから気持ち一歩だけそろりと離れてまっすぐ画面に目を遣っていればたしょう気も和らいだ。それでも、未だに心臓が平生より速く鼓動を打つのを収められずにいる。何気なく触れられた箇所は熱を保ちつづけていた。
私のおかしな調子に先生はなにか薄っすら感じたことがあったのだろう。懐手をしながらどこか都合の悪そうな顔をする。そしてやがて、言い出しづらそうに、
 
「昨日のことは気にしなくてええから」
 
そう云われたとき、自分が先生を傷つけてしまったことに初めて気がついた。
 
「いらんことまで色々云った、忘れてくれ」
「いらない事なんて、一つも……」
「それやったら、こんなに体強張らせんでも」
 
もともと鹿雄先生の前ではある意味緊張している。それは出会ったときから、形は変われどそうだ。その緊張の中に居心地の良い安らぎを感じていたし、それは私にとって必要なものであることに少しも変わりはない。ただ、今こうして気取られてしまうほど態度に現れてしまっているのは、やはり昨夜先生の言葉の続きを意図的に遮った私がいるからだった。もし昨夜の続きを、私の中で勝手に想像するとしたら──先生は優しいから、きっと思い続けている人がいる自分の心とを照らし合わせて、私の気持ちを受け止めた上で、毅然とした態度のなか先を期待させない言葉を私に呉れるだろう。それは優しさで溢れているのにいちばん恐ろしい。
これもまた空想の域で、それでも私がもし全て聞いた上で、まだあなたが好きだと云ったら、どんな顔をするだろう。困りはててしまうだろうか。先生の傍に居るだけでは飽き足らず、そんな事を考えてしまうほど私の心は随分と傲慢で、我儘になってしまった。想うことを認められはしようが、許されるわけではないのを痛いほど分かっているのに。
 
「先生。忘れて欲しいなんて、云わないで下さい……」

身勝手な私の言葉に、先生は何も返さない。
頭上で木々の枝葉の擦れる音だけが一層はっきりと聞こえた。
 
畳敷きの会場の中に人が増えてきた。
いよいよ大会が始まるというのに頬が妙に火照っている。手を握ったり、開いたりしてみるものの鈍い動きをする。膝下に並べた札も目を滑るだけだ。
口数が少なくなる自分の一方、隣に座っている紅葉ちゃんはいつまでも場馴れしない私へ何度もやさしく声をかけて呉れた。それは、緊張を解してくれようとしたのかこの場のこととは全く関係のない話題ばかりが選ばれていた。昨日の夕飯のこと、流行りの雑誌に載っていた服のこと──もう直ぐ夏休みだから、休みの間何処か二人で出掛けないかと云われた時、ようやくそこで紅葉ちゃんの顔をはっきりと捉えたのだった。

「ななしちゃんと、折角やし海にでも行けたらって思うけど」
「海?」
「伊織も着いてきてくれるって。そうですよね」
「はい、お嬢様」

伊織さんは表情の幅の少ない人だ。卒然話を振られても眉一つ動かさず丁寧に答えると、手を前に組み直してから会場の全体を見渡すように視線を戻した。
私は紅葉ちゃんから、昨年久しぶりの家族揃っての旅行に海を選んだ話を聞きながら頭の中でぼんやりと自分の思う海を描いていた。車窓からのぞむ水平線、きらきらと輝く水面、潮の匂い。暖かな砂を素足で踏み歩く心地よさを思った。

「行きたいな」
「ほんまに?」
「うん」
「──あ。やあっと眉間の皺とれた」
「……緊張していたから」

そう改めて指摘されると恥ずかしさも相まった熱さを冷ますように自分の手を頬にあてた。紅葉ちゃんが確かめるように私の頬へ触れると、少し困り笑いを浮かべる。
 
「ななしちゃん。手のひら出して」
 
云われたことに対してただぽかんとした顔で首を傾げていると、紅葉ちゃんは私の右手を遠慮なく取った。きれいな細い人差し指で私の手のひらに大きく人、を一文字書ききってみせる。
 
「人の字を飲むと、緊張が和らぐんやって。名頃先生がずっと前にうちに教えてくれはったから」
 
もう一度、飲んでと急かされたので大きく飲み込むしぐさをすると──不思議なことに緊張がわずかに和らいだ。
 
「僕も書いたろか?」
 
丁度どこかから名頃会の会員の人だかりへ戻ってきた関根さんが私達の様子を見ていたらしい。すかさずお願いします、と返すと関根さんがしゃがみ込む。すこし強引に左手を掴まれたかと思うと、せっかちに手のひらへ文字をなぞった。続けて同じ調子で飲み込んでみる。

「名頃先生も。ほら、中大路くんの手に書いたってください」 
 
関根さんは思いがけず鹿雄先生の方へも声を掛けた。

「どおれ」

他所の会員に囲まれて話をしていた先生は、関根さんに大声で呼ばれると輪の中から直ぐに立ち上がった。着物の裾が皺になるのを少しも気に留めない様子で徐に膝をつく。
ゆったりとした仕草で私の右の手を掴むとじっと眺めた。厚い手で包んでくれながらはらいまで丁寧に文字をえがくのを、私はまた飲み込んだ。自分からほう、と小さな溜め息が無意識に漏れる。
──私をどうにか私で居させてくれるのは先生の存在無しでは有り得ない。それと同じくらい自分でいられなくなってしまうほど心が乱されるのもそうだ。
つられて、自分の手のひらを覗き込んだとき既に手の震えは跡形もなく消えていることに気がついた。

「贅沢に三人分も飲み込んだら、緊張なんてどっか飛んでいったやろ」
「はい」
「やったら、そんな顔止め。ぼうっとして」
 
鹿雄先生が右の手で私の頬を親指と人差し指でつまむと軽く横に引いた。否が応でも引き攣った表情のまま口角が上がるので「くすぐったいです」と応えながら、首を左右へ軽く逃げるように動かしてみるもののあまり意味を成さなかった。
そうして不意に、先生と見つめ合う。
 
「鹿雄先生」
「うん?」
「……ごめんなさい」
「何のことか、分からへんなあ」
 
この日、私は三位入賞、紅葉ちゃんは優勝という形で無事に大会を終えた。

20180320