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鹿雄先生が目の違和を自覚したのはここ一、二ヶ月の間なのだという。思えば驚くほど新聞へ顔を近づけて文字をなぞっていたことも、時折目を細めて視点をさだめるような仕草をしていたことも、私の顔がよく見えると急に距離を縮めてきたことも、全てがそれに繋がっていたのかと考えれば考えるほど、なぜ私はもっと強く言及できなかったのかを悔いた。先生のことを思っているなら強引にでも問うべきであった。それが出来なかったのは私が先生を好きでいて、やはり単純に疎まれたくないと思う短絡的な思考に根ざしたものだった。
あの白い封筒の正体は大学病院への紹介状で間違いなく、私が車の中から見かけた先生は診療を終えてすぐだったらしいこともうかがえる。私は先生がぽつりぽつりともらす、ごく小さな言葉さえ聞き逃すまいと耳を澄ませていた。
 
「あの時、今すぐななしくんの姿を見れたなら──声を聞いたなら、どんなに楽になれるかと思てたから……。せやから、驚いた。よう出来た偶然やなあ」

先生は中身の無くなった徳利を机の上から下げながら何事もないように云った。わたしはその言葉の真意の不確さから、一体どんな顔をしたらいいのか分かり兼ねて、ええ、と一言だけ呟いてまた視線を手元へ戻す。
確かにおそろしい偶然だった。私がたまたま見慣れた姿を日暮れの雑踏の中から見付けなければ、こうして今日一緒に食事を摂ることも無かっただろう。病のことも知らずに居続けたのかもしれない。
それから、先生は珍しく饒舌になって私に少しずつ胸に貯めていた思い出を教えてくれた。皐月会長とは子供の頃に出会ったことを。年上の会長は先生にとって憧れの対象であったことを。そしてかるたをするあのひとは、今でも誰よりも美しいのだとも云った。会長のことを語るその目にはせつない熱を帯びていた。先生は、あまり自分のことをすすんで語りたがるような質ではなかった。身の上話なども殆ど聞いたことがなかった。子供には尚更語らなかった。時折大人だけの集まりでお酒を飲む席の中で広げられた話題の端々を関根さんが偶に洩らしてくれることが頼りで、それでもすべてを知るには程遠いことだった。
だから、私は今こうして先生が語ってくれることの全てはとくべつで、他の人の知る所にないものなのだと分かっている。鹿雄先生だけが抱えた思いを、経験を。ぐしゃぐしゃに床に転がされた玩具を一つずつ拾い上げて、元の場所に戻していくようにそれは紡がれた。
私が大好きな先生は、その身を焦がすほどの情熱的な恋を原動力に今日まで生きてきたことが痛いほど分かった。一通り語り尽くしたかと思うと、結びに「若い君にとっては、大人の詰まらん昔話かもしれへんけどな」と、微かに笑いながら云うのだ。
何故、誰よりも愛おしそうに皐月会長の写真を眺める先生を会長は愛して呉れなかったのだろう。それを考えたとき、以前矢島さんの放った言葉のほんとうの意味が、そこにあるようにも思えた。
矢島さんは恐らく、鹿雄先生のこの複雑な気持ちを抱えていることを知っていて、だのに私に教えて呉れもしないで本人へ聞いてみたら良いだなどと云ったのだろうと邪推をした。真実はわからない。
ただ無性に、あの人は意地悪だと思いたかった。もし、ほんとうに何も知りもしないで私が好奇心の赴くままに無邪気に先生へ問うたならどうなるか、解っていて私をけしかけようとしたのだ。あの日はあの場で、家族より矢島さんだけが助けてくれるような心地さえしていた。しかし実のところはそうではない、矢島さんは"私の"味方ではないのだ。だから、私自身の感情の云々はどうなろうと矢島さんにとって知ったことではない。
そう考えたとき、私は私自身が嫌になった。おくびにも出さず、綺麗な言葉を並べていたくせに、無意識に自分は先生の幸せひとつだけでなく願わくば万に一つでも、私も幸せになろうとする道を見出そうとしていた。それが私一人のちからでは叶わないと悟ると大人の、矢島さんのせいにした。
鹿雄先生はどうなのだろう。皐月会長の幸せを願っているのだろうか。その幸せのなかには先生が居ないことを飲み込んで、それでも幸せを望み続けているのだろうか──きっとそうだから、先生は今穏やかに居られるのだ。
ならば尚更心のなかには誰かが入り込む余地など無いではないか。その存在自体を、先生自身が望まないのだから。
 
「今日診てくれはった医者の見立てでは、俺の目はあと一年くらいのものやと」
「一年……」
「まず、かるたは出来へんようになるやろなあ。この事は──ななしくんが一番乗りやから、まだ内緒にしといてな」
 
そうつとめて明るく告げようとする鹿雄先生が、余計に痛々しく見えた。
 
「そうしたら名頃会は、先生は一体どうなさるんですか」
「それは俺も考えてる。今少しずつ、君らがこれからも安心して稽古に励める場所を探して──」
「いやです……!私は、先生の所じゃないと」
 
思わず立ち上がって先生の傍に寄ると右腕へ抱き縋った。目頭がじんと熱くなる。涙目の私の顔を見るなり、まだ先の事やから、と優しい口調で背中をやわらかく擦ってくれた。手のひらから伝わる体温が余計に私の涙腺を脆くして、ただいやいやと泣きじゃくる私を鹿雄先生は根気よく宥め続けていた。
名頃会以外の場所で、自分が競技かるたを続ける未来は想像に難かった。鹿雄先生以外の人から教えを請うことなど信じられなかった。第一、先生が私に読手を目指せと云った、あの言葉の所在はどうなってしまうのか。ほんとうならば、鹿雄先生が一番自分の病へ対して辛く思っていることは解っている。気持ちの整理もついていないはずだ。だのに私の涙が止まらないから、先生は自分の感傷より先に私を労ることを優先している。そう思えば思うほど私は自分がより情けなく感じられた。喉がひどく熱を持って痛み出すと、私は謝り続けていた。この謝罪は具体性を持たなかった。自分でも何に対して許しを請うのか分からなかった。ただ謝らなければならないという感情に支配されていて、今はそれ以外何も出来そうにないのだ。
私の言葉を遮るように、鹿雄先生は卒然腕からそっと私を離すと、頬を両手で包んでくれる。先生は私のような子供を叱ったり、諭したりした後等は特にまっすぐ顔を向けさせるのが癖なのだと最近になって解ってきた。こうして相手の感情を読もうとしているのだ。まじめな顔が少し曇っている。これも私が曇らせてしまっているのだと解るから堪らず背けたくなった。そんな罪悪感と自己嫌悪の奥で不思議と冷静な自分も居るためか泣き顔を見られるのは何度めだろうかとも思っていた。
 
「ななしくん。俺は君に謝らなあかんことがある」 

鹿雄先生は眉間に皺を寄せながら、はっきりとした口調で云った。
 
「先生が謝ることなんて、ひとつも」
「ある。君がさっきも云うてくれた様に、俺の力になりたいと願って呉れる気持ちは、ふだんから勿体無いほど有難く貰てる。遠慮も無うなってきた。最近は、特に……」

珍しく要領を得ないたどたどしい言葉のこの先を、何故か聞きたくなかった。じぶんの浅はかさが細やかな幸せさえも奪ってしまうような予感がした。やめてほしい、と言いかけて口を開いたとき、大きな呼び鈴の音が一度鳴った。
 
「せんせ、呼び鈴が」
 
救われた、というような不思議な嬉しさから自分の顔が少し綻んだのがわかった。どさくさに頬に触れている手を顔から外そうとするのだがそれを察したのだろう、何故か却って力が強くなる。
 
「あんなもん、後で出たらええわ。今、大事な話を……」
 
そう無表情で玄関の方を一瞥したあと改めて私を鋭く捉えたとき、今度は玄関の引き戸が開く音がした。
すかさず、ごめんください、と中年男性の声がする。先程私をここへ送り届けた運転手のものだった。

20180102