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鹿雄先生の様子が明らかにおかしいことに気が付いているのに、私は直接先生自身へなにも追及できずにいた。
先生がこうしてらしくもなく嘘ばかりつくのは、何か訳があるのだろう。知れば何かが変わってしまうような大きなことなのだろう。
あの白い封筒の中身は一体何なのですか。壊れてもいないホースを買いに来たと私に云ったのはどうして。今日、大学病院から出てきたわけは。私の顔を見たとき、途端に小さな子供のように弱々しく泣きそうな顔をしたのは。聞きたいことは山ほどあるのに声に出そうとすると唇が震えた。むやみに聞くことを恐れていた。聞けばきっと先生はいやな気持ちになるだろうと思ったからだ。



「おい、何処見てんねん」
 
私が一寸でも稽古に集中していなかったことを見透かされた。怒号にはっとしたとき、鹿雄先生は足元のかるたを踏みながら、乱暴に私の左腕を握ると、自分のところへ引き寄せた。驚くほど距離が近い。珍しくすこしいらいらしているようだった。それは私だけではなく別の何かにも苛立っていて、ちょうど目前の私へ一緒にぶつけたのであろうことを察してしまった。先生こそ集中を欠いているのだ。それでも十分過ぎるほど洞察力に優れているので、弟子如きの鈍い動きは当然わかってしまう。
 
「師匠相手に余裕やな」
「……違います」
「負けてもええのか」
「いやです」
 
あなたに嫌われるのは。そう続けていってしまいそうだった。
私のはっきりとした言葉の調子を聞いて、鹿雄先生は手を離した。力強く握られた腕がほんの少し痺れて痛む。思わずその場所へ触れてしまいそうになったけれども余計な気を遣わせてしまってもいけないとそのまま下ろしてから、黙って散らばった札を並べ直した。自陣を全て綺麗に並び直すまで先生は私の手元を見つめている。出来ました、と云って顔を上げてまっすぐ見つめ返した。すると、先生も迷いない手つきで自陣の札を並べてから何も云わずに止まっていた読み上げ機のボタンを押した。

結局呼び鈴が鳴るまで私が先生から札を取れることは一度も無かった。
玄関から微かに男の人の明るい声が聞こえると、先生はぱっとふだん通りの穏やかな顔をして余韻もなくさっさと私の分まで札を纏めて集めてから、読み上げ機まで片付けてしまった。私の手の届かない程の高い棚の中にわざわざその二つをしまって引き戸を引いて隠す。一連の流れに正座のまま呆気にとられていると、そんな私へ先生ははにかんだ。

「稽古は終いや。飯にしよか」

ふだんならこんな事はない。あの大きな呼び鈴の音にさえ、稽古の最中なら先生は大抵気が付かない。私や私より幼い子とする時でさえそうだった。それなのになぜ今日は気が付いたのだろう──やはり集中していないのか。それとも今の私とはしたくはない、という気持ちの現れなのか。

「寿司貰てくるから。君は茶と箸の用意を頼むわ」
 
そんな私の心も当然知らず、先生は自分の胸板を軽く叩いて懐に財布があることを確かめると慌ただしく玄関の方へ歩いていってしまった。私一人だけがぽつりと部屋の中に取り残されると、とたんに寂しくなった。前はこの離れに来られたことが嬉しくてたまらなかったのに、今の心持は沈んでいる。
開け放しの襖を閉めて台所へ向かった。先生に言われたとおりにお茶の支度を始める。湯呑みと急須をお盆に並べて、お湯を沸かしていれば後ろからじゃらりと珠暖簾が擦れる音がした。先生はこちらへ声もかけずに私の背中を見ている。

「鹿雄先生」

振り向きもせず此方から呼ぶと、なに、と低い穏やかな返事が返ってきた。

「私……。お醤油の場所をど忘れしてしまって。どちらにありましたっけ」
「冷蔵庫の二段目」
「そうでした、そうでしたね」

今度は振り返ってほほえんだ。先生もつられて小さく笑うと冷蔵庫の中から醤油差しを取り出してから、私の出した皿を持つと先に離れの方へ向かった。
居間のちゃぶ台の上には大きな桶いっぱいに寿司が詰まっている。到底二人では食べきれない量に思わず声を上げると、先生はうっかり頼みすぎたのだと軽い調子で云った。
二人で手を合わせたあと並べた湯呑みへお茶を注いで一つを差し出した。
 
「熱いので、気を付けてください」

先生はそれを受け取ると少し息を吹きかけて傾けた。熱いものが好きな先生だけれども、実はすこし猫舌らしく、湯気が立つものを口に含む時まず恐る恐る唇へすこし当てて確かめる。これはふだんあまり見せないもので、実はこうする癖を気恥ずかしさなどから隠しているのではないかと思っていた。今日、まっさきにそれをみつけたので自分のお茶を飲むふりをして暫く見ていると、先生は流石にこちらの視線に気がついたらしい。決まりが悪そうに湯呑みを置いた。
 
「漸く笑てくれた」
「えっ」 
「さっき会うた時から今までずっと、すこし顔が曇っとったから……」
 
そう指摘されて心が揺れた。確かに何度か自然と口角を上げたことはあったものの表情が強張るのを誤魔化すための愛想笑いに近かった。それというのも全てはひとつの不安からもたらされるものであったけれど──私が勝手に先生へ不安を持っていたからで、先生自身とは全く関係がなかった。しかしものごとの大なり小なり結局は見透かされてしまうので、隠しても無駄なことだと分かっているのに何度もこうして見透かされるまで忘れてしまう。遅かれ早かれ、結局私の気の沈む訳をみつけて解きほぐそうとする。
 
「今日はな、とくべつななしくんの笑う顔が見たかった。何でか……」

先生は漆塗りの寿司桶の中から一つだけ取り出して口にした。私もそれにあわせてつられて同じものを食べた。

「美味い?」
「美味しいです」
「そうか、良かった。たんと食っていき。余らせてもしゃあない。なまものは……腐るまであっという間やから」

目の前のものに対するこの呟きは何故か他のことを思うようなものにも取れた。


桶の中の寿司は随分と減った。私の取り皿の中身が空になるたび、これは取ったか、などと違う種類のものを頻りに勧めてくるので普段よりも沢山食べてしまったような気がする。
私の箸が止まったところで、先生はゆっくり立ち上がったかと思うと、関根さんが持ってきたという枇杷を大皿に入れて運んできた。洗われてしっとりと皮が濡れている。皮入れも横に置いてくれた。
先生は皿から枇杷を取ると齧りついた。先ほどと同じように、私も手にとって皮を剥いて一口含む。完熟しているようで実は柔らかくとても甘い。夢中になって食べていると掌に果汁がたまって腕を伝った。袖が濡れてしまうと慌てていると向かいからくつりと笑い声がして、靭やかな腕が伸びてきた。先生はじっとしとき、と云うと懐からハンカチを取り出して拭ってくれる。ハンカチは水分を含んで藍の生地を色濃くした。私の腕を丁寧に、布を這わせるように拭いていくとその動きが一寸止まる。険しい目線は先ほど強く掴まれて赤く残った薄あざに向けられていた。慌てて隠そうと手を引いたときには遅いようだった。思わず丁度今朝ぶつけたのだと口からつまらない言い訳をしたけれども、先生はそれには触れずハンカチを黙って机の上へ置いてため息を一つつく。慎重な面持ちになった。

「君に、話さなあかんことがあるんやけど……少し、酒を飲んでもええか。しらふやとな、素直に話がでけへん時があるから……」
「……どうぞ」
 
先生は私が頷いたのを見ると、席を外して台所の方へ向かった。やがてすぐ戻ってくると、手に徳利とお猪口を一つずつ持ってきて同じ場所に座る。手酌でお猪口にお酒を注ぐと、一気にそれを飲んだ。
 
「見てもらいたいもんがある」
 
そう言って、膝の横から古い本を取り出した。
ぱらぱらと頁を繰っていって、中から一枚の写真を取り出した。私の方へ差し出すので恐る恐る受け取ると、見たことのある写真だ。皐月会長が写ったものだった。
 
「誰にも見せたことあらへん、ななしくんだけや。……まあ、覗き見していたし見たことあるやろけどな。阿知波さんと皐月さんの披露宴の時のものやから、今よりだいぶ若いわあ……ははは、失礼かな」

先生は自分の言葉に対して面白そうに笑った。

「何でこんなに大事なものを、私に見せてくれはるんです」
「それは……」

一度言葉を止めて、空になったお猪口を手遊びした。私がお銚子を手に取ってみせると小さく首を横に振る。
 
「──俺はな、皐月さんのことが好きやった。子供の頃からずっと……あのひとのおかげで、今の俺が居る。かるたを始めたのも、皐月さんに憧れたからやった」

ひと息で告げられた言葉の重さに私は何も云えずに、受け取った写真を見ながらすこし俯いた。
改めてそれをじっくり眺めると披露宴というだけあって、絢爛な色打掛に身を包んで艶やかな化粧をした皐月さんは殊に人形のようなきれいさで枠の中に収められていた。私は、先生へ向けて丁寧に写真を戻した。
 
「俺の、初恋のひと……」
 
先生が長い指でそれを受け取ると、懐かしそうな目をして表面を撫でる。その顔を見て感情を明らかに聞いて思わず胸が痛んだ。
やはり、皐月さんが好きだったのだ。そして、今もきっとその想いを持ち続けている。そうで無ければこんなに嬉しそうな顔を弟子の前で見せる訳がないのだから。
それにしても、なぜ先生は今更それを私へ吐露したのだろう。私の隠しきれない思いが先生にとって辛くあたっていたのだろうか、煩わしかったのだろうか。頭のなかでは先ほどの言葉がいつまでも響いている。
恐ろしいほどの静寂に、思わず逃げてしまいたくなった。あれだけ知りたいと願っていたのに、聞きたいと思っていたことであるのに、いざ先生の口からその答えを聞いたとき──私が今まで如何に綺麗事で淀んだ感情を正当化していたのかが明らかになった。私は、本当のところ少しも先生の幸せを望む資格のない人間だった。
先生の顔へほんのりと紅色がさしてきた。少しずつお酒が回ってきたらしい。
──大人はずるい。お酒のちからを借りる事ができるから。口を滑らせやすくするし、その言葉を『酒のせいだ』と取り消すこともできる、都合の悪い言葉を聞いても次の日には忘れてしまう事だってできる。子供の私にはそんな手段は一つも用意されていないのに。
それならば、私も云ってもよいのだろうか。
 
「鹿雄先生、なんぼかお伺いしたいことがあるんです」
「云うて御覧」
「なんで、さっき札を片付けてしまったんですか」
 
私の問いは思いがけないものだったらしく、先生はほんの僅かに目を丸くした。
 
「稽古は、飯がくるまでって君と約束したやろ。だからや、それ以外になんの理由もない」
「でも、ふだんなら一試合はかならず終わらせてくれます。あんな風に、中途半端に終わらせたりしないのに。それに……先生、今日は集中して下さらなくて……」

そう云うと押し黙ったまま返事がない。私は言葉を続けた。
 
「鹿雄先生。私は、そんなに実力がありませんか。なんで…なんでいつも、勝ってこいって、云うてくださらないんですか」
「ななしくん、何を……」
「私は、先生のお力になりたいのに」

自分の声が段々と涙声に変わるのが情けなかった。
私の全ては、大好きな鹿雄先生のお役に立つことだけに注ぎたかった。先生の為なら何だってしたいと願っている。それが私がここに有り続ける不純な理由だった。
会員が大会に出る時、先生はかならず一人ひとり欠かさず言葉をかけていた。その言葉はみんな違っている。私にはいつも得意札だけは逃すなとだけ云っていた。それ自体は嬉しいことであった。けれども、一度も一番を取れ、勝ちにいけ、と云われた事はなかったのだ。どんなに試合で良い結果を残せなくとも、糧になれればと思うからこそ惨めな思いをしても食らいついていけた。突然読手を目指せと云われたときも動揺しながらも頷いた。──けれどもこの全ては、一番を取ることを望まれていない前提であると考えたとき、私の心には薄影が差していた。先生へも、名頃会へも、私はきっと役には立てないのだと自分のけして美しくない原動力を棚に上げて、勝手に希望を失ったのだ。それがどんなに身勝手なことか分かっているのに、拙い言葉となって口から次々と溢れる。出来れば、明日にはこの全てを忘れてほしいと願った。
鹿雄先生は私が言い切ったのを見ると、ななしくん、と名前を読んだ。恐る恐る顔を上げる。
 
「まず、俺は掛ける言葉は責任持って選ぶ。根拠もなく云わへん」
「それは……」
「話は最後まで聞き。ななしくんは、確かに同世代の選手の中では頭一つ出てる。けど、えらいプレッシャーに弱いから。そないな事云うたら萎縮して、取れる札も取れへんのは目に見えるし……せやから、いっぺんでも君が云う様な言葉は選んだことあらへんなあ」

先生は私のすぐ横に座ると頭を二度強めに撫でて呉れる。掌は頭の上に載ったままだった。
プレッシャーに弱い事は自分でも自覚していたものであったし、全てを見抜いた上の言葉だと云われれば、もうこれにつり合うだけの返答を出来そうになかった。先生はまだ続けた。

「それから……。集中してへんかったのは、ななしくんの明察通りや。さっき、ほんの一瞬やったけどうまく見えへんかったから……君に気取られるのを恐れてやめた」
「見えない?」

確かに不穏な言葉を聞いて、思わず顔を上げる。
それとともにすぐに不思議と例の白い封筒のことが浮かんだ。大学病院から出てきた先生の弱々しい姿もよぎる。いやな汗が背中を伝った。
 
「神様なんて呼ばれるもんが果して、居てるかは分からへんけど……酷いわあ。かるた以外能のない詰まらん男から、それを奪うんやから」

感情一つ込めず、鹿雄先生はそうぽつりと呟いた。
 
20171208