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最寄りの停留所でバスを待った。目の痛むほどの青空に焼けるような日差しが路面を照りつける。陽炎が浮かんでいた。今年は雨が少ないらしく、昨日のどしゃ降りは凡そ数十日振りであったのだとニュース番組で取り上げられていたのを思い出した。
他所の家の庭から張り出した木の枝が大きく広がって丁度庇代わりに影を作っている。スマートフォンを頻りに触っているサラリーマンの隣へ並んだ。彼は自分よりも随分と前から待っていたのだろう、額や頬に薄ら汗をかくのを度々ハンカチで拭っていた。交通量の多いこの大通りではバスやタクシーが目まぐるしく行き交うのがよく見えた。時折新しい風が吹き抜けると、青々と繁る葉同士を擦らせてざわめきとなる。緑の美しい季節である。
定刻より少し遅れてバスが停まった。車内に入ると人が犇めいていた。修学旅行の学生であろうか、同じ校章の入った真新しい白シャツを着た男女の集団が姦しく会話をしている。椅子は全て埋まっていたため人の隙間を縫うようにして奥まで向かうとつり革を握った。先程までこれに触れていた乗客が居たためか知らぬ誰かの掌で生ぬるく温められていた。不規則な揺れに身を任せて、窓の外を見る。代わり映えのしない景色が過ぎては消えていった。
目的の停留所で降り、徒歩で数分の場所に大学病院はある。建物の中へ入ると外よりは大分過ごしやすい温度に保たれているようで、暑くもなく寒くもないのだが特有の生温さが体全体にべたりと纏わりつくような気分がした。受付で手続きを済ませ呼び出し用の機械を受け取った。掌の中から少しはみ出る程のこの端末には画面がついていて自分の順番になればアラーム音が鳴り、該当の診察室の番号が表示されるのだという。物珍しさから真新しいロビーを暫く歩き回ったのち人の疎らに居る長椅子へ座った。側に今日の新聞が綴じられているのを見つけたので、特に見出しから選びもせず無作為に一つ引き抜いて大きく開いた。時間を忘れるように差し込まれている本日付の新聞を取り替え取り替えしながら、遂に広告欄まですべて読み終えたため膝の上に置かれた端末を見たものの特段変わった様子はなかった。
喉が渇いた訳でも無かったが手持ち無沙汰さから自動販売機へ向かった。この階には大手の珈琲店が入っているのでそこで腰を落ち着けても良かったのだが、どうも一人で入るような気分にもなれず珍しくジュースを買うと一口飲んだ。よく冷えている。目と鼻の先の開放的な窓からは院内の中庭がよくよく見渡せた。きちんと手の入れられた鉢植えが整然と並んでいる。庭の隅の方には控えめに紫陽花も咲いていたが早々に散り際を迎えているようで色褪せた花びらと葉が所々に残り裸の枝が晒されている有り様は見窄らしかった。
丁度カップの中身を飲み干したところで卒然懐にしまっておいた端末が鳴り出した。指示された診察室のある部屋へ入る。紹介状を持っているので大方のことは下手に説明をしないほうが分かってもらえる。きっとすぐ済むはずだ。初めに少し目を合わせたきり、モニターの前で殆ど姿勢を崩さない医者の横顔を見ながら思った。


帰路へついている。時間帯のせいもあり、昼にも増して人のごった返したバスを使いたい気分にならず、結局数キロ先の別の停留所まで歩くことを決めた。街灯が点かずとも支障なく、どこまでもゆけそうな仄明るさがある黄昏時だった。
石畳の敷き詰められた歩道を歩きながら、頭の中では先程医者から告げられた言葉を意味もなく繰り返していた。
自分は目の病を患ってしまったようで、これから少しずつ視野が狭まってゆくこと。そしてそのうち、かるたを出来ない程になってしまうということ。俺はあの時淡々と説明を聞きながらどこか遠くにいるような心持ちがしていた。全く現実味を帯びなかった。何故か耳鳴りがしだした。足を止めて、濃く伸びる自分の影を見た。すると途端に不安になってくる。世界の果てに一人きり残されたような気分になったとき──彼女に、会いたくなった。
 
「鹿雄先生!」
 
車の行き交う音に紛れて、ななしくんの声が殊に鮮やかに耳に届いた。ついに空耳まで聞こえるようになったのかと右手で何度か顔を擦ってみる。そうして恐る恐る声のした方を見れば黒塗りの車がハザードランプをたいて歩道に寄せられていた。後部座席の窓が全開になって、奥からななしくんが顔を出している。彼女はもう一度、鹿雄先生と声を張ったかと思うとドアを開けて自分に向かって脇目もふらず走り出した。
 
「ななしくん」
「こんばんは。何処かにご用事でもあらはったんですか」 
「ああ……。庭に水撒く為のホースが壊れてしもたから、買いに来たんやけど。あれはあかんなあ、歩いて持って帰るには重たくて止めた」
「昨日までちゃあんと使えたはずですけれど……」
「そうやったかな」 
 
特に思案せず口からでまかせを云うが、ななしくんはそれでも納得したようだった。
 
「ところで君は何でここに」
「お琴のお稽古帰りです。先生、車に乗って下さい。お家までご一緒しましょう」
「いや、折角やけど……歩いて帰れるから」
「ここから?歩かはるんですか」
「変かな」
「……遠いですから。どうぞ」

半ば強引な言葉のあと背を軽く押されるので言葉に甘えて車に乗り込んだ。

「鹿雄先生のご自宅に寄って下さい」

ななしくんは運転手に向かって丁寧に頼むとすぐに俺へと視線を遣る。
 
「先程から、何だかお顔の色が優れないようですけれど」
「気のせい。光の加減やろ」
「いいえ」
 
ななしくんは俺の横に置かれていた鞄を除けると、臆面なく一歩近づいてくっと顔を寄せてきた。丸みを帯びた手が額にぺたりと触れて、彼女もまた自身の額に手を当てる。瞼を閉じて人の熱を測るが自分でも分かっているとおり具合が優れないわけではなかった。体の方ではない。強いて云うのであれば精神の問題だった。

「先生のおでこ、冷たい……」
「いつもの事やわ」
「お顔も真っ白で。血の巡りが悪いんです」

彼女は自分が掛けていた膝掛けを俺の膝へ広げて載せた。断ればきっとその表情を曇らせるのを分かっているのでするがままに任せることにする。
ななしくんは、俺が何かしら心許ないとき電話であれこうして直々であれ何かしら関わってくるものだから──ななしくんには、俺の行く先行く末が透けて見えているのではないかと思うほどだった。いっそのこと、彼女に、俺は一体どうなるだろうかと吐露したくなった。
 
「ななしくんは……」
 
そう云いかけて半分もしないうちで止めた。

「何でしょう」
「いや。ななしくん、枇杷は好きやったかな」
「ええ」
「関根くんから貰たんやけど、一人で食べるには勿体無いし。──君、飯まだやろ。俺もまだやし、夕飯をご馳走するから、枇杷も頼まれてくれへんか」
 
ほんとうならば別に俺の家で食べていかずとも幾つか袋に入れて渡してしまえば良いものを、態々家に上げて遣りたくなるのはただ今は兎に角ななしくんの顔を見ていたいからだった。きっと満足がゆくまで見さえすれば自分の精神衰弱を多少は紛らわせる事が出来るだろうとする勝手都合である。

「私と、先生と二人ですか」
「それでもよし。──ああ、あなたもご一緒にどうです」

俺が唐突に運転手へ言葉を投げかけると、不意のことで随分と驚いたらしい。バックミラー越しに一寸俺を見たかと思うと困った顔をして遠慮しますわと苦笑された。

「わあ。あの時、歩いてはるお姿に気がついて、お声掛けて良かった……」
「大袈裟やなあ」
「それに、大会の前に鹿雄先生を独り占め出来るなんて……皆に羨ましがられてしまいます。お食事の前に、少しだけお稽古つけてくださいませんか」
「うん。そら、かまへんよ」
 
ななしくんは少し考える素振りをしながら携帯電話を取り出して家政婦へ宛ててメールを送った。
車の中で、いよいよ明日への景気づけに何が食べたいかと聞くと寿司が良いと云うので出前を頼む事にする。今度は俺がたまたま懐に持ち歩いていた携帯電話を使うのを珍しそうにみつめていた。 
 
運転手へは彼女は自分が送っていくからという旨を告げれば、此方へ軽く会釈をして車を走らせていった。
家の鍵を開けて中へ入ると、ななしくんは自分の後ろにぴったりと着いてきた。そして当然の仕草で内鍵を掛ける。その行為に危機を覚えた。自然の事であるのにこれをいつか彼女が顔も名も自分が預かり知らぬ男の家で、そう振る舞うことを連想させるようだったからだ。それは最早父性を起因とする感情ではないことは明白だ。
俺は不安を覚えたとき、自身の感情と向き合うとき、あらゆる切欠から件の写真を眺めていた。以前再検査の旨を聞いた折も、云い知れぬ不安に心がざわついた時にはそれを確かめたくなった。どんな時もそうだった。それは阿知波皐月という存在は俺の良心であり指標であり、現在に至るまでの人生を形造るそのものだということに他ならないからだ。
しかし、同等の頻度で──それよりも心易くななしくんが心の片隅に有り続けたことに気がついてしまった。愛情を注ぐべきだと手をかけて居たはずが、いつの間にかくるおしいほど純粋な情を向けられて、俺はそれを気兼ねなしに自分の中へ取り込んだ。だのにその情が種子から芽を出し育っていくのを、青々とした茎が伸びる過程を見ないふりをして幾度もそれを蔑ろにした。騙し騙し過ごしてきた。その結果、自身の分別のない感情の暴走を招いたのだ。痛いほどに自覚をした今、最早観念して触れなければならない。
 
「お寿司が来るまでお稽古です。せんせえ、早く」
「分かった、分かった。……あんまりにもななしくんが腕引っ張るから、外れてしまいそうやなあ」
「あっ」
「嘘や」
「鹿雄先生、嘘つき……」
 
ななしくんを、もうこの手の中から離したくないと願う感情の根本に。
 
20171125