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丸い頬をほんのり赤くして俯いている少女の横顔を眺めていた。静かな部屋に鉛筆の芯が紙と擦れる音と、時計の秒針が動く音だけが重なって聞こえる。
昨晩から気温が下がって寒いので離れからわざわざ和室へ運んできた炬燵にあたりながら、天板へ頬杖をつく。暇つぶしにと本を持ち出したのだが何度も繰り返し読んで内容もすっかり暗記してしまっていたため、読書というよりは最早ただ文字を目で滑らせるだけの作業になってしまっていた。活字から目を離して、壁に掛かった万年カレンダーを仰ぎ見る、日付を指折り数えてみた。気が付けば年明けまであとふた月ほどになっている。
今日は練習日ではない。その為ななしくんがここに来る理由も無いのだが、何かと名目──と云うには余りに子供らしく稚拙な内容なのだけれども──もっともらしい理由付けをして彼女は頻繁にここに来たがった。その事に関して、此方としては何か不都合な事があるわけでもないのでするがままに任せていた。だから、この光景はもう珍しいものではなかった。
天板の上にはななしくんが家から持ってきた豆大福が二つ、紙に包まれて置かれている。これが今日の『名目』だった。

「名頃先生、この字は何て読むんですか」
 
不意に高い声が飛んでくるので、読みさしの本に栞を挟むとななしくんへ視線を遣った。白い指が指す本の文字を見る。『椛』とあった。
 
「紅に葉っぱを書いてもみじと読むけど、これももみじ。大岡くんとおんなじ響きやな」
 
すっかり芯が丸くなっている鉛筆を手に取ると、ノートの隅の方に『紅葉』と書き足す。
 
「紅葉ちゃんとおんなじ……」

それだけ聞くとななしくんは一度顔を上げてから有難うせんせえ、とふだんの間延びした声で呟いて視線を問題集に戻した。そうして、直ぐに文字の隣に大きく振り仮名を振った。
彼女の宿題は終わるまでまだ暫く掛かるだろうか。筆箱の隣にここを尋ねてきてすぐ出してやった煎茶があったが、一度口をつけたきりで、集中するうちにすっかり忘れ去られ湯気も消えて冷たくなってしまっている。きりの良いところで温かいものをもう一度淹れ直してやろうと思った。
思い出したように先週開催された公式大会のデータを纏めていた所で漸く終わりました、というあかるい声が聞こえた。広げていたノートや鉛筆をさっさと手提げの中にしまう。飲みさしの湯呑みをひと目見て、腕を伸ばして取ろうとするので慌てて飲み口へ手のひらを翳す。

「先生」と、ななしくんは不思議そうに首を傾げる。
  
「新しいの淹れるさかい」
「でも……。せっかく淹れてくれはったので」
「急須に葉っぱ突っ込んで、お湯入れるだけやから」
 
そう云ってやると渋々といった様子ではあったがゆっくりと湯呑みから手を離した。ななしくんのものと、自分の方の中身が空になったものと、件の大福を持って台所へ向かった。やかんに水を二人分入れて火にかける。無機質に燃える青い炎を見ながら、もう少し寒くなってくれれば部屋にストーブでも出しておいて、その上にやかんを載せておけばいつでも温かいものが飲めるのにと横着なことを思うのだった。
茶葉が入った缶の蓋をぽん、と気味の良い音を立てて開けたところで、ななしくんがいつの間にか自分の横へ気配なく立っていた。それより前に木製の飾りの付いた暖簾をくぐる僅かな音だけは聞こえていたので、然程驚きもせず特に話しかけることもなく手を動かした。
 
「お手伝いしますね」
「うん。菓子皿ふたつ出して、持ってきてくれた大福載せて貰てもええかな。場所は……」
「全部分かります」

ななしくんは一つも迷うことなく戸棚を開けると菓子皿を取り出したので驚いた。この頃には既に台所のありとあらゆる物の場所を把握していたようで、近い未来彼女にここのことを全任してしまうようになるなどとは、まだ想像もしていなかった。彼女は──否、彼女だけでなくここに来る子どもは皆出会ったときとまるで同じ幼子に見えていた。大人でさえもそのままのように見ていた。こうして、自分の中ではいつまでも皆きらきらとして時が止まっている。それでも進級だ、入学だ卒業だと聞くたびにしみじみと、他所の家の子供はあっという間に大きくなるものだなどと矛盾した心持でいる。それは他ならぬ自分自身こそが何一つ変わっていないと信じていたからだろうと思った。
ななしくんは云われずとも大きなお盆をどこからか出してきて、上に菓子皿と黒文字を置いて、そうしてまた隣に並んだ。銀色の鈍く輝くやかんの蓋にぼんやり彼女の顔が映っていた。
注ぎ口の笛は水蒸気に押されて、かたかたと鳴っている。

「君、ところで本は好きやったっけ」
「好きです。読むのも見るのも」
「おやつ食べたら、少し出かけへんか」
「先生とお出かけ……。する!します!」
「まだ場所も云うてへんけど、ええの」
「でも、でも、行きますから。どちらへ行くんですか」
「それは……」



外は陽の光の暖かさがゆき届かぬほどの寒さだった。もう冬の匂いがする。先日クローゼットから出したばかりのコートを羽織って草履を履いた。ななしくんは足元でブーツの紐を強く結んでいた。靴箱の上に平置きしていた鍵を握って手渡すと、玄関を出るなり慣れた手つきで建付けの悪いこの引き戸の鍵を締めてくれる。戸の引手を少し押し上げて閉めるのがこつだ。鍵の頭に猫の顔を象った鈴がついているのは、彼女と大岡くんがいつか二人で出かけた折に呉れた土産物だった。大切にしているのだけれども僅かに鍍金が禿げてきてしまっている。差し出された鍵を受け取ると同時に自分の手のひらで彼女の手を包み込んだ。
 
「せんせい」
 
すると妙に上ずった声で名前を呼ばれる。
 
「どないした」
「は、恥ずかしいです。お友達に見られたら……」 
「ああ。……そうやな、もう急に道路に飛び出したりせえへんか」
「子供扱いして……」

手を離すとななしくんは俯いて、それきり目を合わせてくれなかった。バスに乗っている間も、降りてからもほんの少しむくれているので並んで歩く道すがらどうにか宥めていると、いい匂いをさせる鯛焼き屋の前を通った。駄目元で食べるか、と聞くと目でおねだりをされたため買って遣る。嬉しそうに尻尾まで食べ終える頃にはすっかり機嫌もほぼ元に戻っていた。
寺町通りを中ほどまで歩いたところに小さな古書店はある。
入り口からして暗い為か、不安そうなななしくんの背を軽く押しながら押戸に手を掛ける。硝子扉に備え付けられた鐘は少し錆びているようで余り響かず、曇った音でからんと一度だけ鳴った。すると空っぽのカウンターに向かって奥から人影が忙しなく此方へ向かってくる。

「ああ、名頃はんでしたか。今日は一人やないんですね」
 
髪を清潔に上向きに纏め上げ、細ぶちの丸い眼鏡を掛けた優しい面の男だ。
彼の名前は、西条大河という。ここはいつかふらりと古本屋巡りをした折に何気なく立ち寄った店舗の一つだった。長らく探していた本を見つけてもらって以来よく足を運んでいた。彼は穏やかな人柄でありながらも意志ははっきりとしていて好ましい。
西条さんは腕を擦りながら椅子に掛かっている上着を羽織る。エアコンの電源を入れた。暖房も点いていなかったこと、日も差し込まないこともあり店内は冷え切っている。古本屋特有の黴臭さをななしくんは不思議そうに嗅いでいた。
 
「こんにちは。ええ、俺の弟子です。中大路ななしくん云います」
「初めましてななしちゃん、店長の西条です。宜しゅう。此処は背の高い本棚ばっかりやから、取れへん本があったら気軽に云うてな」
「西条さん、おおきに。有難う御座います」
 
ななしくんは愛想よく挨拶を済ませると、興味有りげに自分の背丈よりも高い本棚を一つ一つ見上げに行った。
西条さんはいつものように椅子を二つ奥から持ってきてレジの横に置いた。自分に座るように手で促すので、腰を下ろす。

「何か探してはるものでも?」 
「ああ、今日は特にそういう訳ではなくて。何か新しい本でもあったらええなあ思て……」 

「丁度先週買い付けした所やから……幾つか見繕ってきましょうか。まだ棚に並べてへんので少し待って下さい」
「うん、お願いしますわ」
 
西条さんはそう言い残すとカウンターの奥へ消えていった。ふと、何の気配もなくなってしまったななしくんはどこに居るだろうかと店内を軽く見渡すと、奥の方で白い手だけが見えた。どうやら一番上の本を取りたいようなのだが指の先が引っかかる気配がない。彼女が何度か姿勢を持ち直すたびに、連鎖的に周囲の本は僅かに揺れた。このまま放っておけば頭の上に本の一つでも落ちかねないだろうと思うと、立ち上がって彼女のすぐ後ろの通路へ体を滑らせる。
そのとき、示し合わせたかのように本が棚からずり落ちた。声も出さずに彼女の体を自分の方へ引き寄せた。何が起こったのかわからない様子で、勢い良く振り向いたななしくんを一瞥する。落ちた本は元の場所へ、代わりに赤と黄のカバーがかかった本を引き抜いて懐の中にいる彼女へ抱かせた。
 
「取れへん本は、西条さんが取ってくれる云うてたやろ。危ないことする」
「お話、邪魔したら良くないかと思たんです。有難う御座います」
「また渋い本を選ぶなあ。この本やったら俺の家にあるし、貸したるから別の本選んだらええのに──」

気を利かせたつもりで云った言葉に応えるように、ななしくんは此方を見上げる大きな瞳を揺らした。
 
「駄目です。先生のお家の本とおんなじものを……少しずつ揃えているから。先生とおんなじものを読んで、先生みたいに頭良うなったら……!そうしたら……」
 
珍しくむきになるので驚いていると、ななしくんは我に返ったらしい。ばつが悪そうに口をぱくぱくさせた。白熱灯に照らされた白い顔へみるみるうちに紅がさす。
 
「──ななしちゃん。その本は僕からプレゼントさせて貰うわ。一所懸命勉強してはる偉い子に」
 
張られた声が店内に響く。二人して横を向けば自分を探していたらしい西条さんが、通路から顔だけを出していた。大きな箱を両手に抱えたままより狭い此方へ歩み寄ってくる。
 
「いやあ、戻ってきたら名頃はんはいてはらへんし、奥から本が落ちる音もしたから……。怪我ありませんか」
「心配かけてすんまへん。少し本の列を崩してしもただけで……」
 
そう云って埃が立った周囲を軽く手で何度か煽ると、西条さんは安心した様子で微笑んだ。
 
「西条さん、私、お小遣いちゃんとありますから……」
「そんなん貰えへんわ。大事にしもとき。久しぶりにかいらしいお弟子さん見て、羨ましゅうなったから……。その代わり、また名頃はんと来てな」
「勿論です!有難う御座います。本、大事にします」

ななしくんは本を抱え直すと嬉しそうに背を撫でた。
袋に入れてくれると云うので一度西条さんにその本を預けると、少し待っているようにと、奥からもう一つ小さな椅子を引っ張り出してきて同じようにレジの前に置いた。
 

西条さんから幾つか本を見させてもらうために先程の場所へ居直した。まだ整理もされていない箱の中から一冊ずつ手に取って眺めて、気になったものを二三取り出して買うことにした。少々値のはるものも有ったけれども、暫くはこれで楽しめるだろうと思うと財布の紐も緩んだ。
ふと箱の下に噛んでいる雑誌の大きな見出しが目に入る。
 
「源氏蛍……」
 
自分の独り言のような小さな声に西条さんははっと顔を上げる。
 
「──ああ、窃盗団の。まだ特集組まれているみたいですね」
「暫く世間騒がせてたからなあ。西条さんのお店にも貴重な本があらはるやろ、気い付けてや。なんて」
「うちは見ての通り小さい古本屋ですし、源氏蛍は骨董やらしか狙わへんから……。ああ、名頃はん、この本ええですよ。これは差し上げます」
「いや、えらいすんまへんな──今日、実は俺誕生日やから。お言葉に甘えて、貰ておこうかな」
「へえ、そらおめでたい。尚更良かった」

本を見繕って貰ってからも幾つか雑談を交わす中で、西条さんが少数流派の師範をつとめていることを今更ながら聞いた。廃寺になった寺の本堂を道場代わりに貸してくれている知人のお陰でどうにか弟子を抱える事が出来ているのだと話す彼の顔を見ていると、鏡を覗くような気分になった。きっと、自分が抱く感情は彼のそれとよく似ているはずだ。
話し込んでいるうちに外はすっかり日も陰って暗くなっていた。それまでななしくんはといえば文句一つ言わず、ずっと西条さんから貰った本を読み耽っていた。帰ろうか、と肩を叩くまで此方がお開きになったことに気が付かなかったようだった。
シャッターを締めながら見送りをしてくれた西条さんに向かって、ななしくんは何度も振り返って手を振った。

 
帰りのバスの中、生温い暖房の風を受けるたびにななしくんの柔らかい髪はそよそよと額をくすぐっている。徐々に下向きになる頭の綺麗な巻き旋毛を見ていると、唐突に彼女が自分の袖の裾を何度か引いた。
  
「名頃先生」
「どないした、眠いか」

此方の問いに大きく首を横に振る。
 
「私、先生のお誕生日を知らなかったです」
「ああ、聞こえてたんか。この年になると誕生日なんて、そうすすんで人に云わへんしなあ」
「──もう、今日も殆ど終わってしまって……お祝いどころか、鯛焼きまでお強請りして……」 
「そないなこと気にして……」
「何も出来なくて」
 
ななしくんは顔を上げて曇った窓ガラスの先を見つめた。繁華街のネオンの彩りが浮かんでいると分かるのみで、何があるのかまでは見えそうになかった。彼女の肩がバスの揺れに合わせてこつり、こつりとぶつかる度に不思議と気持ちが沈んでいるのだと伝わってくる。両腕で大切そうに抱えている、本の入った紙袋は皺になってしまっていた。
徐に彼女の肩を軽く抱くと体が跳ねた。こわごわと見上げられそうになるので、髪がくしゃくしゃになるまで撫でてやると、されるがまま子犬のように目を閉じている。

「そら、特別なことをして貰えたらその気持ちは嬉しいけど──今日はもう、じゅうぶん貰たから」
「私、何も渡してないです」
 
心底分からない、と云う顔で眉を下げたまま居る。
 
「考えてみ。分かったら……そうやな。あの家の本全部君にあげるわ」

この日の問いにまだ、ななしくんは答えていない。
 
20171112