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ななしくんは誰のものでもない。そういった次元の話ではない。彼女は俺の弟子で、名頃会を支える大切な会員で、だから。

『へえー、それだけ?』
『関根さん。怒りますよ』

雨戸などとうに締め終わった筈であるのに、和室に居るのは大岡くんのみでななしくんの姿が見当たらなかった。彼女は細かな所に気がつく質であるから、またどこかにでもいて甲斐甲斐しく何かの世話を焼いているのだろうか。「ここの事はななしくんに聞けば大凡よい」と会員の間では暗黙の了解となっている。本来であればそれは褒められるべきではないのに、なあなあで任せたままにしているのは、俺の我儘や甘えであるような気がしてならない。
家の中を探して歩き回った時、不意に玄関から関根くんとななしくんの声がした。なんだ、こんな所に居たのかと曲がり角から顔を覗かせたとき。丁度土間に腰を屈めていた彼女に向かって、関根くんが手を差し出した所だった。彼の手を取って、屈託なく笑う。その姿を見た俺は久方振りに胸に降りた淀みを自覚したとき、思わず吐き気がした。ただ談笑しているだけではないか。何に対しての淀みなのか。──俺は一つの思いだけを、それには誤りなく生きてきたつもりだ。
そんな自分の心持など当然のように知らず、ななしくんは戸惑いながらも、ここで洗濯がしたいのだと云った。使ったタオルや関根くんの汚れた衣服を洗っておきたいというのだ。どこまで親切なものなのか──彼女の世話好きな性格は生来のものであったか。何故そこまで尽くすのか。思わず反射的に彼女に投げかけた言葉は、はからずも自分が自覚するほど無機質な物言いとなった。その感情がどこに根差したものなのかは分かる。これもまた、詰まらない独占欲から来るものだ。それでも、俺の家のものもあるからと懇願されれば頷くしかないのは、最早俺は彼女に対してすっかり弱くなってしまっているからだと実感をする瞬間だった。
古い洗濯機には度々難儀させられるが、こうしてななしくんと子どものように顔を見合わせて、自然と笑みがこぼれたとき、これも悪くはないと思った。彼女の目映いほどの微笑みは確かに刹那俺だけのものだった。それを見たのは自分ひとりだけなのだという心持になった。 
そんなななしくんは、真っ白な顔をして俺の所によれよれの封筒を握って持ってきた。それは、家の中で暫し行方知らずになっていた大学病院への紹介状だ。彼女はまさか中を見ただろうかと封を確認したが、杞憂だった。何処か具合がわるいのかと問われ、それに対して何でもないと言葉を遮るように返したとき、俄に顔が強張るのを見つけた。彼女は嘘がとても下手だ。これに俺が云ったものが入っていないことをなぜだか知っているらしい。
不意にななしくんの体がよろけたとき、咄嗟の行動であったのだろう、勢い良く俺の手を掴んで支えにした。慌てて離そうとするその姿を見て、何故か俺はその手を手繰り寄せた。抵抗無く指先が絡むと、彼女の一回り小さな掌は力無くされるがままに握られて、自分の冷たい掌の強張りを溶かしていくような熱を帯びていた。
随分と前にはなるが、何度も幼い彼女とは手を繋いだことがある。触れたことが無いわけでもないのに、この時はまるで初めて肌に触れた気分になった。それがまた己の感情の危うさを露見させるので嫌になる。方便を述べながら彼女に視線を合わせてみるとやはり視界は霞んでいた。はっきりその目が見たいと思った。ななしくんの顔を徐に上へ向ける。雨がすっかり汚れを落として、澄んだ空気は夜の僅かな光を殊に美しく縁側に届けた。大きな丸めがちの瞳は一点の曇りもなくただ俺だけを見ていた。思わず喉の奥から何かを云おうとして、そうして直ぐに噤むとななしくんは不思議そうに首を傾げる。──今、この手を離したら俺はきっと何か後悔をするのではないか。しかし漠然と過ぎった感情に従うにはあまりにも考えることが多すぎるのだ。すっかり平生通りになった血色の良い頬は触れれば作り物のような滑らかさで、親指でなぞると眩しそうに瞳を細くする。やがて重ねた手ごと逃げるように離れると、彼女はひどく寂しそうな面持ちでこちらを見た。
 
『私より、よっぽど……。やっぱりどうかなさったんでしょう』
「何も。ななしくんの考え過ぎやろ」

当然だが、彼女は誰のものでもない。
 




家の中が賑やかでいる時間が多いためか自分ひとりだけがこうして和室に居ることは却って違和感を覚える。ゆっくり体を倒して手を頭の後ろで組むとざっと天井を眺めた。すると、所々しみがあるのを見つけて幼い大岡くんとななしくんがよく怖がっていたことを思い出した。確かに薄暗い部屋にぼんやり浮かんだ大きなニつのしみと、その下の横長に伸びた某かの木の年輪の名残は口を大きく開けた化物の顔に見えない事はない。懐かしさから笑みが零れた。

『名頃せんせ、和室にお化けの顔が浮かんでいるんです』
『伊織、うちとななしちゃんの前に立って……!』

しみはただ単に経年劣化に依るものだが、幼い目には余程恐ろしく見えたのだろう。そう言い出してから次の練習日には二人して玄関に座り込んだままてこでも動かない有様だったので、伊織くんと、関根くんと三人でどうにか天井に白い紙で目張りをしたことでその日事なきを得た。二人はそんな事などもう忘れてしまっているだろうけれども。
額の上に掌を載せれば手は温かだった。普段は指先から氷のように冷えているから、ななしくんの熱が、まだ微かに残っているのだと思った。彼女の内側から輝く無自覚の熱は、確かに俺を少しずつ蝕んでいる。これは心地がよく気を抜けば流されてしまいそうになる。俺は、きっといつかななしくんを手元から離した方が良いのだろう。そう危惧することと同じ位、そんな身勝手な事情で長年世話をしてきた弟子を追い出すようなことは、けしてあってはならないとも分かっている。それこそ取り返しがつかなくなる。段々と頭が回らなくなるほど睡魔が訪れたところで、意識が途切れた。
 


 

「先生──名頃先生!」
 
大きな声で名前を呼ばれ体を揺さぶられる。重たい瞼を無理矢理開けてみれば、すぐ顔の前にしゃがみこんで、俺を呆れた様子で覗き込む関根くんが居た。

「関根くんか。……なんで中に」
「玄関、鍵開いてました。何でこんな所で寝て……」
「うたた寝のつもりが、しっかり休んでたみたいやわ。ううん、背中痛い」
 
大きく背伸びをすると肩の辺りからべきべき、と骨が軋むような音が自身の身体の中から聞こえる。呑気でいる俺に、視界の隅の関根くんは安堵しているようだった。
寝乱れていた浴衣の袷を整える。夜明けの冷え込みのためか体は気怠かった。起きぬけで喉が渇いたのと、関根くんも何か口寂しかろうと冷蔵庫の中にたまたま入れて置いたジュースを持ち出して手持ち無沙汰な彼に渡すと、小さく会釈をしてからそれを受け取る。プルタブを引いてほぼ同時に一口含む。
すると卒然、膝の隣に置かれていた荷物を俺の前にずいと差し出した。
 
「今朝実家に寄ったら、新鮮なうちに名頃先生に持っていけってオカンが喧しくて……」
 
関根くんがきまりが悪そうに不承不承差し出したビニール袋の中身を見れば、枇杷が入っていた。
 
「ほおー、お母はんが。また礼云わんと」
「お節介なオバハンなんで」 
「そない云うたらあかんて」
「ほんまの事ですから」
「──ところで、こんな時間に君が来るやなんて珍しいなあ」
「仕事が先方の都合で止めになって。一日オフなんです」

そう云いながら肩をすくめると、缶の中身をあっという間に全て飲み下してみせる。
 
「ほんなら、うちで昼飯でも食っていき。起こして貰たことやし」
「ええんですか」
「来客と三人でも良かったらやけど」
「へえ、来客。……僕その方と面識あります?」
 
困り眉で問うてきたので、面識はあると返すと彼は軽く一度だけ頷いた。
 


玄関に水を撒くために庭の水栓を弄っていたところで、家を囲む古い土壁の向こうから車のブレーキ音が響いた。男二人が二三会話を交わしたような気配のあと、摺り気味の軽い足音がこちらへ近づいてくる。小走りで玄関の方へ先回りすると丁度うちの呼び鈴を押そうとしたところだった。すぐ俺の気配に気がついて振り向いた来客──矢島くんが愛想よくほほえむ。戸を引いて案内すると、土間に並べられた履き慣らされた運動靴を見るなり誰かいてはるんですねと抑揚なく呟いた。

「宜しいんです?」
「ああ、かまへん」
 
何に対しての問いなのかは主語が無くとも分かる。
和室に入ってすぐ関根くんは件の来客の顔を見るなりうわ、と息を漏らした。
 
「何やのその態度。えらい“嬉しそう”に見えるなあ」
「この間矢島くん、二人で飲み行ったとき次は三人でもって云うてくれはったし、丁度ええなと思たんやけど」
「ま、世の中には社交辞令なんて言葉もありますわな」
「ほらー、名頃先生。こういう奴なんですって」
「……昼飯は蕎麦でもええか、うん。ええな」

矢島くんが手近な座布団に腰を下ろした事を見届けてから馴染みの蕎麦屋へ電話を掛けに向かう。電話台の棚の中から年季の入ったチラシを取り出した。手作り感のあるそれの下部に書かれた番号を入力する。昼食の稼ぎ時であるにもかかわらずワンコール鳴り終わる前に快活な女性の声が応えた。どうやら今日は客が少ないようだ。注文を済ませて部屋に戻る頃には、先程のどこかぎこちない空気はすっかり消えていた。
ややあって、届いた蕎麦を三人ですすりながら当たり障りのない話をした。宇治の某寺の紫陽花の開花が例年よりも遅れて今が丁度見頃だということや、ここ最近の天気のこと。矢島くんは家業である酒蔵について問われればほんの少し嬉しそうにして多弁になる。彼はこの時間の中で何度となく口を開いたものの、本題を切り出すことはなかった。
自分の所用もあり、この日は短い時間でお開きになった。タクシーを呼ぼうとした矢島くんを見て、関根くんはしぶしぶといった様子であったが帰りがけに乗せていくと申し出た。
煙草を吸いたかったのだろう、エンジンをかけた車から離れた関根くんを一瞥してから後部座席に既に乗り込んでいた矢島くんは、俺に向かって手招きをする。近付けばすぐにパワーウインドウを開いた。

「上手いこといきましたので」

彼は一言それだけ呟いて、そっと視線を前に戻した。
矢島くんの振る舞いや言動は歳の割に老成しているためか、お世辞にも人付き合いが上手いとも云えない自分にとってふしぎと気が置けない彼を勝手に頼りにして、友人のように見ている節があった。矢島くんからすればはた迷惑な話だろうけれども──今回自分の我儘に付き合わせてしまったことに対して多少なりとも罪悪感を抱いている。そして、自分が詰まるところただやきもきしただけで、何もしていない事実こそが悪い。そんな情けなさから気の利いた言葉など述べることすらできず、か細い声でありがとうとだけ云った。
遠ざかる車が曲がり角で消えるのを見届けてから、家に戻ると直ぐに外へ出かける支度を始めた。
今日は病院へ行かねばならない。
 
20171023