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風呂場で砂の付いたタオルを一度濯いでから、洗濯機の中へ入れる。促されるまま試しに一度電源を押してみたものの、うんともすんともいわなかった。「ほんまに動きませんね」と呟くと鹿雄先生は慣れた手つきで年代物のそれを強く叩いてみせる。すると、大きな起動音の後動き出したので、先程の事は冗談ではなかったのだと分かると、思わず顔を見合わせて笑った。その後は至って当り前に操作をするだけなので一時間もしないうちに終わるはずだ。
こうして、この家の中のことで鹿雄先生しか知らないことを少しずつ自分が知ることは、これもまたまるで何か先生自身の事を見つけた様な気分になって嬉しかった。
それと同時に脳裏にふと一瞬、先程私に向けられた訝しい目が過ぎった。そこでは特段何かを云われたわけでもないのだけれども、自分の行いを何処かで後ろ暗く思っているから相手もまたそう思っているのだと、決めつけてしまうような事は、いたずらに気を揉むだけだからやめたほうがいい。但し、もしそれが先生の迷惑や名誉に関わることにまで及ぶのならば、考えなければならないだろう。ここの所気の落ちることと同じ位嬉しいことが起こる連続で、少し浮かれていたのだと、自覚するまでに時間が掛かってしまった。
洗濯機の蓋に目線を落とす鹿雄先生の横顔を見た。通った鼻に、弓なりに上がった眉。二重瞼ははっきりとしている。目尻こそ鋭いものの、それを打ち消すような黒目の丸さがあるので平衡が取れていた。ここ最近何かものを見る時、眉間に皺を寄せてその目を少しだけ細めて、おかしなほど顔を近づけようとする。そうして今も、こうどこか難しそうな面持ちをしている。きっと眼鏡を買えばそれもなくなるのだろうかと思った。
機械が起こす水の音と、雨樋から雨水が伝って地面に叩きつけられる音とが重なると、これが私と先生との合間にふと訪れる静寂を際立たせた。

「今度出はる大会、久々の公式試合ですね。楽しみにしていますから」

そう云うと先生は、落とした視点を私の方へ合わせた。
近日私自身が控えている大会の翌日に、同会場で鹿雄先生もまた出場が決まっていた。今、名人に近い選手として各方面から高く評価されているから、きっとその日は終日注目される。そんな先生がその実力を気兼ねなく振るうことが出来る相手がいるのはやはりこうした試合の時で、今や貴重な機会なのだろう。私もまた先生が見せる一際鋭い真剣味を帯びた姿を観るのが楽しみだった。
この家に、記者が取材が来ることがしばしばあった。新聞や雑誌に先生が載るたび、その記事一つひとつを手にとって眺めるたび、そこには余所行きの、まるで知らない人が写っていた。けれどこの家に来て、玄関で出迎えて貰えたとき、やはり先生はただの先生でしかないと分かる。紙の上をなぞった筈のこの手は、ほんとうに優しいのを識っている。  

「ななしくん、観に来てくれるんか」
「勿論です。お嫌でなければ」
「嫌なわけないやろ」

気張らなあかんなあ、とのんびり明るく云った。

「終わったらすぐ干してしまいますね」
「物干しの紐はここ、空いた部屋好きに使てかまへんから」
「分かりました。……あ」

雑多に積まれた洗濯バサミの下から出てきた紐を受け取ったとき、足元の脱衣籠がはからずも視界の中に入った。裏返しになった靴下や下着が諸に見えたので、ついに何故かいけないものを見てしまったようで此方のほうが気恥ずかしくなる。
自分の家にも父が、曲がりなりにも異性がいる筈なのだけれども、ふだんは殆ど姿を見ることもなければ、思えばこうして自分の家では洗濯物が投げ出されていることはなかった。そこには当然のように母の物もない。脱衣籠はいつだって私が使うまで空で、そして家政婦の手によって直ぐに綺麗になった。それが当たり前であったので、あの家に足りないものは"生活感"なのだと気が付いたのは、こうして先生の傍でそれを肌で感じたからだった。
初めて公共の交通機関を使ったのは名頃会に来てからだった。様々な年齢層の人達と喋りながら同じものを食べることを、誰かの為にお茶を淹れること、そして──愛情をもって料理を作ることを、ここに来なければ、鹿雄先生に出逢わなければ、私はこの胸の奥からぽかぽかとあたたかくなる気持ちを知らないままで生きていたのかもしれない。

「宜しければこちらも洗いましょうか」

脱衣所から出ていこうとするところへ声を掛けると、ごく自然の仕草を作って足元の籠を指差した。一つ洗濯をするのも二つするのも変わりませんし、と早口で付け足したところまで聞いた先生は、二三歩廊下の方へ下がると暖簾の間から頭だけをこちらに向かって差し入れた。まるで子供がするような所作だ。

「……悪いけど、籠の中身適当に入れて、回すだけ頼んでもええか」

そう申し訳無さそうにしておきながら、はじめから向けられた声音は甘かった。私が笑顔で快諾したのを見届けてから、足音を響かせて今度こそ戻っていった。
練習中に何度も部屋の中を出入りする会員は余り居らず、そう、私くらいだろうか。お湯を沸かす、頂いた差し入れの菓子を取り分ける。誰かが欲しがるものを探しに行ったり、時折家にかかる電話にも出る。鹿雄先生は当然練習時間中は忙しいから、度々あちらこちらへ姿を消す訳にはいかない。そうして代わりに私が動くと、私自身の練習時間が多少短くなる場合があるけれど、その補填は皆が帰りだした頃にでも当たり前のように残っている関根さんや、紅葉ちゃんが、時折先生までもが相手を申し出てくれるので不自由はなかった。もしこれが、名頃会の練習場所が先生の自宅で無ければ、こんなこともないのかもしれないと思った。私はここでしか指南を受けたことがないので、他のかるた会がどんなものなのかは想像がつかない。
気がつけば休憩時間が近づいていた。お茶の準備の為に給湯室へ向かうと、不思議と既に明かりがついている。どうやら先客がいるらしく物音もした。部屋を覗いてみれば、紅葉ちゃんが丁度二回目の湯沸かしを始めようとしたところだった。やかんをコンロの上に載せると、背後の気配に気がついて振り返る。私の顔を見るなり心細そうな目がたちまち嬉しそうに開かれるのを見た。

「ななしちゃん……!取り敢えずお湯だけ沸かそう思て来てみたけど……、葉っぱこれで良かったやろか」
「うん、大丈夫だよ。有難う」

紅葉ちゃんが湯呑みを温めてくれている間に冷蔵庫を開いて、折箱を取り出した。箱さらよく冷えている。賞味期限が刻印されたシールには見慣れた店の名前が載っていた。先生が贔屓にしている、八十を優に過ぎたお婆さんが切り盛りしている近所の和菓子屋だ。爪を外して蓋を開けばみずみずしい生菓子が並んでいる。小豆餡を使ったものばかりなのは、それを好んで食べる方がいることを識っている人が買い求めたから。大きなお盆に小皿を並べて、菓子を取り分けた。

「そういえば、さっき関根さんえらい格好で和室に来はったからびっくりした」
「玄関に居てたときはもっと凄かったよ。土砂降りやったから」
「でも、もう雨止んだみたいやね。……音もせんようなったし」

やかんの笛がけたたましく鳴った。
保温瓶にお湯を入れて、紅葉ちゃんと和室に幾度かに分けて運んで、机の上に並べた。練習の区切りが良い人から取ってもらうようにしてある。ふと部屋の隅に腰を下ろした関根さんを見ると、稽古着に着替えていた。まだ髪だけがうっすらと湿っているのか所々毛先が束になっている。こちらと目が合うと片手を小さく挙げてみせた。
鹿雄先生は、丁度最年長の石角さんと練習試合をしていたので特に声もかけずに再び脱衣所へ戻った。
洗濯機は止まっている。身を乗り出して中から服を取り出すと、頼まれたとおり籠の中身を一つ一つ洗濯槽へ入れた。時折裏返しになっていたものは元に戻す。一番下にすっかり皺になった上着が出てきたので、念のためポケットに手を差し込んで確かめた時、指先に固い紙が触れた。引き抜いて取り出してみれば、それは二つ折りにされた真っ白な封筒だ。広げて折り皺を伸ばすと口にはしっかりと糊付けがされてある様で、何が入っているのかは知る事はできない。ただ、先程見た例の眼科の名前がまたここにも出て来たので、流石にぎくりとした。──これをすべて干してから考えよう。懐に封筒を押し込んだ。



本来の練習時間が終わり、その後は紅葉ちゃんと練習試合をした。
帰り際鹿雄先生を探していると、誰も居なくなった和室の戸を全て開けて、縁側に腰を下ろしている所を見かけた。薄暗がりに明かりもつけずにいるので、先生まで夜に溶けてしまいそうな心地がした。
扇風機が一台だけ動いている。外から入る風を上手く導いて、部屋の中は涼しい。
入り口から声を掛けようとした時、思わずそれを躊躇った。先生が何度も何度も手元を確かめるように掌を広げたり、握ったりを繰り返していたからだ。恐る恐る、摺足になりながら一歩ずつ近づいていくと、どうかしたんですかと漸く尋ねる事ができた。ゆっくり此方を向く。

「ななしくん、洗濯物悪いなあ。俺のぶんまで干してくれてたんか」 

私の問いには答えてはくれない。

「少しでしたから。──今日はご心配をお掛けして、すみませんでした」
「元気になってくれたし、かまへん。明日からは、ちゃあんと帽子被って来てな」
「はい。……そういえば、先生にお渡しせなあかんものがあって」

腰を下ろす鹿雄先生の側に正座をしてから、先程見つけた白い封筒を差し出す。私と封筒とを見比べるようにしてから、さっとそれを受け取った。

「洗濯物のポケットの中に入っていました」
「ああ、道理で見当たらへん訳やな。おおきに」
「あの、どこか悪い所が……」
「ん?違う違う、眼鏡の処方箋」
「眼鏡の……」
「前に、視力下がったって云うたやろ。君が心配する事は何もないから、安心しい」

そう云いきって口の端だけを歪めて微笑んだ。
昔から嘘が下手だった。それは私が見たどんな大人の中でも、一番分かり易い嘘のつき方をした。そして必ず人を傷つけないようにする為のものに限られているのも知っている。
それにこれに関して云えば、先生が不器用でなくても、その封筒には処方箋ではなく、何か別のものが入っていることは知っていた。──居間の机の上にほんとうはそれがあって、既に私は見てしまっていたから。
鹿雄先生が嘘をつく理由は分からない。事実として他人が心配するほどの事がないのかもしれないし、そうではないのかもしれない。しかしこれ以上追求すれば、私はまた見透かされてしまう。写真の時に十分に懲りていた。懲りていたのに、また同じことをしてしまったから、もう二度と、『人の事を一々詮索する嫌な人間』に思われるような姿を晒したくはない。

「どないした、ななしくん」

そんな思いも虚しく、鹿雄先生は私の違和を目聡く見つけたらしい。何か云わねばと返した返事は吃ってしまって、余計に顔が曇る。せめて表情が読めないところまで離れて取り繕おうと体を引いたが却ってそれが悪かった。話に夢中になる間に自分の袴の裾を踏んでしまっていたらしく、体の平衡を崩した時、咄嗟に先生を頼りにした。手を確りと掴んでしまったのだ。慌てて離そうと掌を緩めた筈なのにそれは叶わないでいた。先生の右手が私の手を逃さない様に包んでいる。それも何故か指の一本一本を絡め取るように、まるでその存在を確かめるように。

「せ、せんせ……」
「……うん。手が、大きゅうなったな。あんなに小さかったのになあ」

懐古に溢れた声を聞きながら、触れた所から私の指先だけが熱を帯びた。

「ああ、こうしたら君の顔もよう見える」 

やがてすぐ、顎の下に手を添えられたかと思うとくっと上に向けられた。反らそうにも反らせず、否が応でもかっちりと目が合う。鹿雄先生はずっと涼しい顔をしていた。こともなげに、面白味もない私を見つめている。先生の黒い瞳にぼんやりと自分が映り込んでいた。

「私より、よっぽど……。やっぱりどうかなさったんでしょう」
「何も。──考え過ぎやろ」

振り絞った言葉にさえ何もない、と改めて云われてしまえばもう次の言葉を出す事はできなかった。二三度頬を緩く親指で撫でられたあと、あっさり先生の手は離れた。

「ななしくん」

触れた手が、名前を呼ぶ声が、名残惜しそうに感じたのは、ただの私の願望だろうか。

20170916