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思っていたとおり、練習中にバケツをひっくり返したような大雨が降ってきた。
紅葉ちゃんと二人で慌てて家中の雨戸を閉めて回る。この家には広く大きな窓も、狭く小さな窓も沢山ある。一つでも締め忘れれば吹き込んできて、すぐ畳を濡らしてしまうのだ。縁側沿いの一番大きな戸を引くが、ここの建てつけがすこぶる悪く、開けるにも閉めるにも時間がかかる。袖を湿らせながら引き続けると、卒然横から強い力がかかって、一気にぴしゃりと戸が閉じた。振り返ると、長い腕の主が涼しい顔で私を見下ろしている。

「ここは全て閉めておきますので」

執事の伊織さんは、気がついたときにこうして時折、力のいる所をさり気なく手伝って呉れる。お礼を云いながら会釈すると、この場所は任せて他へ行くことにした。
下足入れの、丁度真上にある窓を閉めようと玄関へ向かうと、仕事を終えて遅ばせやってきた関根さんと行き会った。彼はふだん車でここまで来るにも関わらず、何故かこの土砂降りをもろに受けたようでスーツの上着には色が変わるほど水が染みていた。履いた革靴から鈍い水音を鳴らしながら此方へ歩み寄ると、べったりと湿った髪を掻きあげる。

「こんばんは。……えらい濡れてますね」
「傘、車に入れるの忘れてん。駐車場からここまでであっちゅう間に……。拭くもん借りてもええかな」
「先生に頂いてきます。ええと、一先ずこれを」

何も無いよりは、とポケットに入れていたハンカチを関根さんに渡すと、早足で鹿雄先生の元へ向かう。和室の中央で会員と話をしているところへひっそりと声を掛けた。

「鹿雄先生、お話中失礼します。タオル貸して頂けますか。関根さん、ずぶ濡れでいらっしゃって……」
「服収納してる部屋の棚にある筈やわ。取ってきてええよ」
「離れですか」
「うん。ななしくんなら場所分かるやろ」
「はい」

鹿雄先生は軽く目だけを此方へ向けて、私が頷いたのを見ればまた会話の中へ戻った。
離れへはあの日一度行った為、何がどこへあったかなどはぼんやりと覚えていた。しかし今鹿雄先生が無意識に、ふだん誰も立ち入る必要も無い離れの造りを、私が当然識っているかのようなものの言い方をしたので、先生の肩越しに、数人の会員が不思議そうな顔をしているのを見た。確かにおかしな話だった。いくら私がここの古株だからといって、先生の生活に関わるものの場所を把握しているなどというのは──。
仕切り代わりの戸を引くと、直ぐに居間になっている。どこへ行くにも必ず全てここを通っていかねばならない様になっていた。入って真っすぐに進めば、暖簾の奥に服がしまわれた部屋があった。壁に取り付けられた吊り棚に真新しいタオルが重なって置かれているのを、二つ程手に取った。ふわふわと柔らかく、ほんのり先生の家の香りがする。床に置かれた籠には、洗濯済の洋服が山のように積まれてあった。肌着が籠の縁からはみ出しているのを、片手で恐る恐るそっと中へと押し込んだ。
雨粒が屋根に叩きつけられる音だけが響く空間である。すると、ふとこの離れの方の窓は開いていないかが気にかかった。この風を伴った豪雨は暫く続くだろうから、布団や家具が濡れれば困るはずだ。先生の居住スペースであるここに、本人不在のままあまり長居してはならない気もしたけれども、部屋の中がびしょ濡れになってしまうよりは、という親切心からだった。関根さんを待たせている事もあるので、薄暗がりの中を急いで進んで、母屋に比べて多くはない窓を一つ一つ見て回った。するとどうやら先生は予め大体の窓を締めていたらしく、殆ど取り越し苦労だった。
再び居間を通ったとき、ちゃぶ台の上に白い封筒が置かれているのを視界の隅に捉えた。何の変哲もない、只の小さな封筒である。ここに来たばかりのときは目に入らないほど存在感を消していたそれであるのに、何故だか今になって急に気にかかったのだ。居間の電気を態々点けてまでその文字をまじまじと見れば、ここから少し離れた小さな眼科の名前が印字されていた。それを見たとき、僅かに心臓が跳ねる。──このざわめきは丁度、皐月さんの写真が挟まれた本を覗き見してしまった、あの日の心持とよく似ていた。これは、先生にとって他人へ見せるべきものではなく、ふだん自分以外の人間がここに足を踏み入れる事が無いから、当然これは他所の人の目に触れることはないという前提で、ここに置かれている。だから、私がこうして今関心を持ってしまったのはいけないことだ。何もなかった素振りをしてここを立ち去らなければならない。そう分かっているのに、わざわざタオルを机に一度置いてまで伸ばした指先は『それ』に触れる。汗で湿った手で既に封を切られたものの中身を覗いた。すると中には。

「眼鏡の処方箋……」 

それを見たとき最近目が悪くなってきたから、とどこかでぼやいていたのを思い出した。すっかり呼吸をするのも忘れていたようで、漸く深く息を洩らした。紙を折り目通りに折り畳んでから、寸分違わぬ場所へ戻す。
電気を消して玄関へ向かうと、すっかり待ちくたびれた関根さんが腰を下ろして、携帯電話の画面を見つめていた。

「関根さん、お待たせしました」
「おう、助かるわ」
「濡れた服はどないしましょう」
「今は練習着に着替えるからええけど。帰るまでに乾くかが問題やな……」
「一応、風通しのええ所へ掛けておきますね」

此方に背中を向けていた関根さんの背広の肩口へ触れた。脱いでもらった上着はずっしりと重たい。持っていたタオルを代わりに渡すと、すぐに濡れた場所を拭い始める。

「なあ、矢島と見合いしたってほんま」 

関根さんが顔を拭きながら唐突に問うた。

「事実です。けれど、何で関根さんが知ってはるんですか」
「矢島本人から聞いた」
「それでですか」
「……余計なお世話やと思うけど、考え直した方がええんとちがうか?確かに顔は悪ないけど、けったいな性格してるでー。あの男」
「確かに、女性顔負けの綺麗な方ですね」
「それにしても驚いた。僕はてっきり、君は名頃先生の事が好きやとばかり思てたから」
「それは……」

矢島さんから直接話を聞いたはずの関根さんがその子細までは知らないようであったので、きっと何か理由があってあの人は黙っておいたのだろう。話の上手くない私から、一々それを話すのも却って良くはないだろうと敢えて何も触れずにおいた。それでも、紅葉ちゃん以外の人に冗談交じりにとはいえそうはっきりと自分の感情について言及されたので、思わず言い淀む。長い付き合いとはいえ急に恥ずかしくなったからだ。誤魔化すように土間に降りて、関根さんの足元に屈むとズボンの裾の泥を拭った。
 
「靴下脱いだらここで足拭いてください」
「おおきに。けど、ほんまに君くらいのもんや、此処で、大人より気遣て動き回れる子は」
「──有難う御座います」
「……名頃先生かてそう思てはる」
「私はただ、……名頃会のお役に立ちたくて」
「へえー、それだけ?」
「関根さん。怒りますよ」

足首が少し締まる様に強めに裾を絞る。からかってくる関根さんを少しでも窘めるための、せめてもの小さな仕返しだった。初めこそ気が付かずに笑っていたけれども、片足を上げかけたところで漸く気がついたらしい。

「わあ、許してや。面白くて」

関根さんはほんとうに悪気なくそう云うと、跪いていた私に向かって徐に手を差し出した。その姿を見たとき、状況こそ違えど前にもこんな事があったことを思い出して、少しおかしくなる。伸ばされたままの右手を躊躇いなく掴むといとも容易く自分の体が持ち上がった。
すっかり水を含んで重たくなったタオルや、靴下やらも纏めて預かったとき、丁度床を歩く音ひとつもなく鹿雄先生が曲がり角から顔を出した。

「ななしくん、関根くん。遅いやないか」

珍しく不機嫌な声色にも関わらず、それとは不似合いな、心配げな顔をして此方に近づいてくる。関根さんはそれを見て「直ぐに行きます」と申し訳なさそうに何度か鹿雄先生へ頭を下げると、見慣れたトートバッグを抱えて先に和室の方へ向かった。
玄関には私と先生とだけが残された。先生はそれきり何も云わない。
預かった物の余分な水気を切るために、外へ出て一度水を絞りきって戻ってきたものの、相変わらず何も言わずに関根さんの向かった方向を見つめているので、様子を伺おうと目線だけを上げると、口元をほんの少しへの字に曲げている。何度か声を掛けてみたものの、気がついていて敢えて無視をしているのか、それともほんとうに此方を気にしていないのか──四度目の「鹿雄先生」と云う呼び掛けで、大層驚いた様子で私を見た。どうやら今迄の声は全く聞こえていないようだった。

「衣紋掛けをお借りしても。関根さんの背広、掛けておきたいんです」
「ええけど。これもう、クリーニングださなあかんやろなあ」
「あと、このタオル。お洗濯しますので、洗濯機もお借りしてもええですか」
「──ああ、その辺に放しといて呉れたら、俺が適当に洗うわ」
「一度濯いで泥を落とさなあきませんし。それに、関根さんの靴下もありますから」
「靴下?」 
「早めに洗わないとしみになりますから、ついでに預かったのですけど」
「君がする事ないやろ」

卒然、鹿雄先生の驚くほど冷たい、感情の籠もらぬ声にたまらず息を飲んだ。私が何も云えずに、ただ先生を見上げていると不思議なことに自身も今の言葉を発した事実に驚いたらしい。何度か私の顔を見なおしたあと、視線をあちらこちらへと向けて、ばつが悪そうに頭を掻いた。

「いや……違うな、何て云うたらええのか──ああ、嫁入り前の娘が、人の家で洗濯なんか……」
「汚れたものは洗濯機が洗います。私は干すだけで」
「ななしくん、屁理屈こねるなぁ。そら、そうやけど」
「──先生の、お家のものを汚したまま帰りたないんです。それに……お詫びも兼ねてます」

勿論私自身が汚したものではなかったけれども、私が鹿雄先生から直接借りたものだから、これを置いて帰ることを考える方が難しい。ただし、この家の洗濯機を借りなければならないから、本来であれば無理強いは出来ない。そのために返す言葉が屁理屈、と云われてもそれは仕方が無かった。──しかし、もし他人の家で何かをすることが、先生が掲げた“嫁入り前の子が云々”というものに当て嵌まるのならば、私はここで、ずっと前から色々なことを許してもらっていた。それは一体どうなのか。ほんとうに、今更ではないか。
駄目ですか、と遠慮がちに聞くと、ついに私の強情さに折れたのか小さく溜息をつきながら、頷いてくれた。先生は土間にきちんと並べられた関根さんの靴を踵を上げるように立てかけてから、見えない所にしまわれていた平置きの新聞の束の中から二三枚紙を取り出すと丸めて詰め込んだ。こうすると水分が取れやすくなるとのことだ。

「家の洗濯機は癖があるし、後で教えたるさかい、先に練習」
「癖ですか」
「一寸叩かな動かへん」

そう云って少々茶目っ気を含んで手を空を切るように振った。その後少し話しながら和室に帰った頃には、もう平生の鹿雄先生に戻っていた。


20170814