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「そんなことは、私には出来やしません」

そうきっぱりと言い切った。
鹿雄先生があの方に、──皐月会長に、並々ならぬ気持ちを抱えていることを知ったのは、あの例の古い本に挟まれた写真を見たからで、実のところそれ以上何かを知っているわけでもない。先生の口から直接それを聞いたことはなかった。
気のせいではと思ったこともあった。しかしどうにも以前先生が見せた、熱を帯びたあの目を、ずっと忘れられずにいたのだ。そうして、矢島さんのこの一言で改めて確証が持てた。

「私は、鹿雄先生がどうしてあの方をあんなに思ってはるのか、わけを知らないのですから」
「聞いてみたらええ」
「ずけずけと踏み込んで、嫌われたないんです。……こんなに単純な理由では、駄目ですか」

彼が云う、あの方と絡んだえにしとやらを解くのは、きっと私ではない。鹿雄先生自身がそう願わねばならないものだから。
私はただ先生の事を好きでいる。だからこそ、そんな先生の気持ちをなおざりにしてまで、一方的に感情をぶつけてしまうことで困らせたい訳ではなかった。

「自分の気持ちだけを満たして、幸せやと思える訳がないんです。そこに、先ずどんなかたちでも先生の幸せがあって──そして初めて、私は幸せになれるんです」
「名頃さんが、違う人と好き合うても?」
「……はい」

どんな方でもいい。鹿雄先生を幸せにしてくれる誰かが、先生を心から支えてくれる誰かが現れたのだとしたら。そうしたら。その方が先生の気持ちを心から安らげてくれる存在であるならば、私は自分自身のこの気持ちも、全て無かったことにしてもよい。ただ日常だけは変わらないように、先生へ笑顔を向けていたい。
矢島さんは私の言葉に何も返さないまま、小さく鼻を鳴らすと自身の乗ってきた車へ乗り込んだ。





次の日、布団から起き上がってからも暫く妙な倦怠感が続いていた。体調が悪いわけではない、おそらくこの消化不良な心持ちがそうさせているのだと思った。
身支度を済ませようとする最中、机の上に昨日あの場で貰った矢島さんの連絡先が書かれた紙を見た。今日、帰ってきたらこれを登録しておかなければ、……。
箪笥から足袋とハンカチを数枚取り出して鞄にしまう。練習の開始時刻にも家を出るにも大分早い時間帯であったけれども、支度が済んでしまった。家の中は水を打ったような静けさで、まるで自分以外の人間はここに存在しないようだ。空調で冷えた床を裸足で歩くと、ぺたぺたと気味の良い自分の足音だけがした。
外は今日も暑かった。じりじりと肌を灼く様な日差しが視界いっぱいに広がるので一瞬目の前が眩さで白くなる。そろそろ庭から蝉の声が聞こえるようにもなるだろう。庭先の散水機から、水が吹き出して地面を濡らす。水溜りを踏んだ。
広い道から商店街を通れば、先生の家が近くなってきた。その頃には背中にしっとり汗をかいていた。呼び鈴を押すと、しばらくの静寂のあと大きな物音がした。勢いよく開いた戸からは少々慌てた様子の鹿雄先生が顔を出す。

「お早うございます、鹿雄先生。今日も暑いですね」
「……おはようさん」
「上がってもええですか?」
「ああ……」

すると先生は、ほんの少し言葉を詰まらせて、珍しく少し待ってくれへんか、と云うとまず私を土間まで促した。ふだんここを訪れる時間よりも、今日は少し遅めであるというのに、ましてや、待っていてくれなどと云われたことなどここへ通う中で一度もなかったため少々驚いた。違和であったけれども、ここは先生の家であるし、なにか不都合なことでもあったのだろう。素直に頷くと先生は安心したのか、それでどうにか取り繕ったような笑顔を見せた。

「此処へ座って待っていますので。またお声かけてください」
「うん、悪いな」

先生は私がその場から動かないことを何度か確かめながら廊下の向こう側に消えていった。
鞄からタオルを取り出して汗を拭った。外に比べれば木に囲まれたこの家の中は涼しくあるし、特にこの玄関はいつもひんやりとしていた。手のひらを床に垂らしてみれば、小さい頃夏場の練習の途中よく紅葉ちゃんと涼みに来たことを思い出した。ここで飲んだよく冷えたお茶は美味しかった。
あの頃は、一つ一つの支度全て先生がお一人でやっていらっしゃったのか。そう思うと、別に私がこうも、先生のお世話をやくことに一々やきもきしていることは、少々押し付けがましいものに思えて仕方がないのだ。──はじめは先生の喜ぶ顔がどうにかして見たくて始めたことで、そう、気を引きたくて構ってほしくて、仕方のない時期があった。勿論それはある意味でも、変わっていないところなのだけれども。
廊下の先を見た。電話台の上にある壁掛けは私がここへ通い始めてから一度も変わった事がなかった。備え付けの年季の入った靴箱も、式台も、この家は何もかもが変わらない。まるで時代の流れから取り残されたような、そんな言葉がぴったりな戸建てだ。私はこれに無意識の安堵を覚えていた。
それはつまり、それまで空っぽだった水差しに季節の花を挿し替えるのも、壁に掛けられたホワイトボードの文字を書き換えるのも、こうした、ほんの少しのこの家へ与える変化は他の誰でもない、自らの手のみで行われていることだとはっきりとわかるからだ。いつか先生が他の誰かと幸せになることを、受け入れるつもりで生きているのに、日常の営みは私の心をここに縛り付けるので、あの時矢島さんに、わかったような口で物を云ったことはただ単に虚勢であった。そんなことはきっとあの人は見透かしている。

「もうええ。上がりや」

鹿雄先生が戻って来た。脱ぎかけた草履を揃えると、漸く家の中へ入ることができた。

「ななしくん」
「はい?」
「見合いはどうやった」

先生はこちらを見ないまま問う。

「滞りなく終りました」
「そら良かった」
「皐月会の矢島さんが、お相手やったんです」
「知ってる。君から話聞いた次の日に、矢島くんとたまたま会うたから」
「ああ……、そうやったんですね」

これで、暫くは心穏やかにいられるかもしれない。しかし近い将来、あの家を継ぐために、自分は見ず知らずの人と、姻戚関係を結ばなければならない根底の事実は、何一つ変わってはいない。それだけは忘れてはならない。この事は救われたようでいて、そうではない。矢島さんに引き延ばしてもらったこの僅かな猶予期間の中で、どう過ごしていけば良いのか。1年後は、3年後は、5年後は。──全く浮かばない将来の展望を考えようとする事は不毛だった。勿論、理想ならある。不可能に近い理想なら、夢ならば。

「矢島さんは、先生の事がとてもお好きみたいでした」
「──これ、彼が聞いたら嫌ぁな顔して怒りそうやな」
「そうでしょうか?」
「うん。それに……」

私に何かを云いかけて、鹿雄先生が急に口を閉ざした。不思議に思っていると、少し先を行っていたはずの所を、こちらへわざわざ戻ってきて正面を向く。少し屈んでから私の顔を覗き込んだ。そうして卒然、白い指が額に触れる。しっとりと濡れた前髪をかき分けてゆくので、恥ずかしくなって少し顔を背けた。汗だらけの自分の肌に触れられることは躊躇われた。

「先生。私、汗かいていますし。き、汚いです」
「別に汚いなんて思わへん。そんな事より、君、和室に先に行って涼んどき」
「でも……」
「早う」

渋る私に対して鹿雄先生は珍しく強い口調ですごむので、次ぐ言葉もなく半ば無理矢理部屋へと押し込まれてしまう。先生はそのまま給湯室の方へ向かった。
和室は驚くほど冷えていた。床に転がったエアコンのリモコンの液晶画面を見ると、随分と低く設定がされている。道理で少し寒く感じるわけだ、と無意識に自分の腕を擦る。畳に直に座ったままでいると、ややあって襖が開いた。手にはよく冷えた麦茶に、手拭いや、冷却剤を持った先生がいる。私が暑さにあてられたのだろうと、気を遣わせてしまった申し訳なさから詫びを云おうと立ち上がった時。軽い吐き気を覚え、その場へへたりこんでしまった。頭も痛む。目の前が霞んでいる。ひどい耳鳴りもあった。

「ああ、──やっぱりそうや。横になれるか」

手を畳についたまま動けないでいると、手際よく仰向けに体を倒された。見上げた天井はぐるぐると回って、益々具合が悪くなりそうで目を閉じる。先程まで汗をかいていたはずなのに、今は何故かぴたりと引いている。それでいて体は熱を保ったままなので、頭の中はぼんやりとしていた。先生は、和室の隅に重ねられた座布団を持ってくると、私の足元に幾つか折り重ねて入れ込んだ。少し遠慮がちな声で袷を緩めてもいいか、と問われたので二三度頷くと、冷たい手が首筋に触れる。胸元が緩められれば息苦しさが和らいだ。脇や頭へ氷があてられて心地が良い。
鹿雄先生の胸に支えられるように抱き起こされると、口元にグラスがあてられる。少しずつ口の中に入る水分がからからに乾いた喉を潤した。何度か先生は麦茶を飲ませ続けた。容れ物の中身が減ったところを見て、小さな溜息が聞こえる。漸くまた私の体を横たえさせる。頭は座布団ではなく、先生の膝の上に載っていた。自分の頬や額へ触れる手は、これも間違いなく先生のものだった。まだ体に残った熱を、すべて何処かへやってしまいたいという一心で、一回り大きい冷えた手の上から、自分のものを重ねると、ほんの一瞬ぴくりとその手が跳ねる。

「吐き気は」
「ほんの少し」
「吐きたなったら、俺の手にでも吐いたらええ」

そんなことは出来るわけがなかった。こんなに綺麗な手のひらに、そんなことをしてしまったらずっと悔やみ続けることになる。慌てて首を横に振ると、先生は小さく笑う。

「君はすぐ熱出すし、ふらつくし。いつまでたっても子どものまんまやなあ」

呆れたようにそう云われた時何故か嬉しくなった。私が子どもであるうちは、どんな事でも気に掛けて貰えるという、妙な自信がきっと何処かにあった。そして先生は、私や紅葉ちゃんが大人になっても、同じように、優しく有り続けてくれるに違いない。それこそが数年に渡り注がれて積もった愛情によって、作られた先生への信頼だった。
頬にあてられた手は私の体温を吸って徐々に温くなる。

「手、……気持ちええです」
「氷持ってたからやろ」
「せんせ、鹿雄先生。傍に、居ってください……」

熱に浮かされた、譫言のような私の言葉を聞いて、先生がごくりと息をのむ音を聞いた。どんな顔をしているのか、気になって重い瞼を上げようとすると、丁度その上から冷たく湿った手拭いが充てられる。

「ここに居るから。……ずっと」

もしかしたら、都合の良い夢でも見ているのだろうか。規則的に優しく肩を叩く音を聞いていると、意識が急に遠くなった。


◆ 


鹿雄先生の甲斐甲斐しいお世話のおかげで、すぐに体調は元通りになった。何なら、自宅を出る前よりもずっと調子が良かった。
先生は私の頭を膝に載せたままでいた。何事もないように、読書を続けている。部屋の中は頁を捲る音が聞こえるのみだった。すっかり顔色が戻った私に気がつくと、目を細めて時折頭に触れた。それがいつになく優しい手つきで撫でてくれるので、それが終わるのが惜しくて、暫くそら寝をした。
遠くから鹿雄先生の名前を呼ぶ紅葉ちゃんの声がした。彼女の声はよく通る。雑踏の中でもそれと分かるくらいだ。半分ほど開いたままの襖の隙間から体を滑り込ませて入ってきて、私のすぐ脇に腰を下ろしたらしい。

「しっ、静かに」

先生は紅葉ちゃんを少しだけ窘めた。

「……すんまへん。ななしちゃん、お気持ちでも悪いんですか」
「暑さにあてられたんやろなあ。帽子被りもせんと、この暑い中歩き回るから……」
「うち、扇子持っていますし、扇いであげても……?」
「うん、頼むわ」

直ぐに涼しい風が顔を撫ぜた。扇子の骨に香木が使われているのだろうか、甘い香りが鼻を擽る。

「──ななしちゃんと、ひやしあめ一緒に飲もう思て、今、伊織に冷やして貰てるんです」
「何や、俺は仲間はずれか……先生寂しいわあ」
「名頃先生の分もありますよ。……たぶん?」
「多分な」



紅葉ちゃんはゆったりと手を左右に動かしながら、時折先生と世間話をした。自分がこの場にいるにも関わらず、まるでいないもののように交わされる二人の会話は、身勝手にも置き去りにされたような、それでいて本来であれば聞いてはならないものであるから後ろめたい心持ちになった。
寝返りを打つふりをして、二人から顔を背ければ庭と空とが見えた。厚く重なった入道雲が、鮮やかに絵の具を零したような青色を割くように連なっていた。夕方にはきっと土砂降りをもたらすのだろう。
投げ出した自分の手の指先を見ながら、賑やかな声を遠くに聞いた。

20170731