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ななしくんが初めて大会に出た日のことを思い出していた。
たしか、あの時は皆揃ってバスで移動をしたか。それがふだんよりもよく揺れるバスで、そんな揺れに合わせて、座席のシートから、まだ幼い彼女の髪が僅かに見えて、ふわふわと浮いたり沈んだりしていたのを覚えている。あの髪が非常に柔らかく、よく指に絡むのを以前頭を撫でたときに知っていた。それを眺めていると、隣に座る大岡くんに頻りに励まされているのを見た。期待と緊張とか入り混ざる複雑なおもいを胸に、気持ちを膨らませる少女がほんの少し眩しかった。
早朝ということもあり、ほんの少し重い瞼をどうにかこうにか上げながら、目的の会場──阿知波会館に着いた。今日は皐月会が主催の大会だった。
久々に踏み入れるこの敷地にほんの少し心がざわついたものの、手続きを済ませているうちにそれも徐々に薄れていった。

「あ、中大路くん。ちょっと、こっち」
「はいっ」

試合が始まる前に、一人じっと持ってきた自分の札を見るななしくんに向かって手招きした。小さい体がぱたぱたと軽い足音を立てて近づいてきた。何です、と首を傾げるななしくんにその場へ座るように促すと、素直に正座をする。自分もそのまま真正面に胡座をかいた。

「別に大会云うても、ふだん通りにしたらええから」
「はい、名頃せんせえ」
「緊張してるか」
「少し。でも、とてもたのしみです」 
「今回は、まず、決めた得意札を確実に取ることが目標やな」
「心えています」

相変わらず年不相応の、生真面目な返事が飛んでくる。
ななしくんが此方へ頭を下げて、それを上げたとき。ここに来たばかりの頃は気にするほどの長さではなかったのだが、頬に緩く髪がかかるのを見た。気心の知れた会員同士の練習ならばまだしも、大会では、試合の相手の目の前で揺れるものは試合中の集中を削ぐものとしてあまり好ましく思われないのだ。無いとは思うけれども、何か言いがかりでもつけられてはいけない。大きな丸い目をこちらへ向けるななしくんの顔を少しぐいと横へ向けると、また彼女は不思議そうな様子だったが、されるがまま大人しく真っ直ぐ背筋を伸ばした正座を続けている。

「うーん……。髪、括るもん持ってへんか」
「持ってません」
「そうか。……ああ、君、ちょっと」

丁度、髪の長いうちの女性会員が横を通った為咄嗟に声を掛ける。何か余った髪留めがないかと問うと、手持ちの小物入れから幾つかのゴムとピンを出してこちらへ寄越してくれた。
勿論、生まれてこのかた一度も、小さい女の子の──少女ばかりでなく女の髪などこうして結わえた経験などはないけれども──テレビドラマなどで時折流れる場面を思い出しながら、見真似して、先ずは僅かに絡んだ髪を手櫛で軽く解してやる。毛先が思ったよりも強く絡み合っていたようで、髪を後ろに引っ張るような形になってしまったとき、ななしくんは小さく声をあげた。

「堪忍な。こんなん、したことあらへんから」

俺がそう謝ると、ななしくんは大丈夫です、と子供ながらに気を遣って明るく返す。
そんなやり取りをしていると、卒然横から木製の細い櫛が差し出された。櫛を持つ白い手の主を見ようと顔を上げたとき──思わず、ここで何が起きているのか分からず、相手の顔を凝視したまま声も出なかった。それが、皐月さんだったからだ。皐月さんは此方の態度など全くもって気にも留めていないようで、俺の腕の直ぐ真下で座るななしくんに久しぶりやね、などと声を掛けた。
皐月さんは徐にそばに腰を下ろすと、何も云えないでいる俺にまず櫛を強引に握らせた。取りやすい様にと思い、床に散らばらせていた幾つかのピンを一つ一つ丁寧に拾い上げて、手のひらの上に広げている。

「名頃くん。その櫛で、上からゆっくり梳かして。下の方は絡んでることがあるから、優しゅうしてあげてね」
「こ、……こうですか」
「横は左手で抑えながら一纏めにして、そう。試合中解けてきたらあかんから、少し強めに結んであげたほうがええと思う。──中大路のおひいさん、痛ない?」
「痛ないです」

皐月さんが云う通りに髪を結わえていくと、驚くほどすんなりと一纏めになった。皐月さんが此方を向くように云うと、振り返ったその姿には一筋の乱れもなく、綺麗に結ばれた髪にななしくんも嬉しそうにした。

「せんせえ、皐月会長。有り難う御座います」
「いいえ。試合頑張ってね」

皐月さんはななしくんに激励の言葉を掛けてから、俺から櫛を受け取り、あっさり立ち上がる。足早にその場を立ち去っていった。
──ここ数年、まともにあの人と会話をする事などままならなかったというのに、こんなにも突然機会がやってくるものだから、俺は一言も気の利いた言葉を云うでもなく、あの人の名前ただ一声でさえ呼ぶこともなく終わってしまったではないか。暫く何も考えられないまま座り込んでいると、いきなり両側の頬に小さな何かがばちんと触れた。それが、子供の手のひらだと云うことはすぐに分かった。さほど力は入っていなかったものの妙に痛いところに当たるものだ、一寸目の前がちかちか、と瞬く。鼻と鼻が触れそうな距離にななしくんが居る。少し、むくれた顔をしていた。
あと数分で試合が始まるようで会場の中央には人が集まり始めていた。――そうだ。こんなところで呆けている場合ではなかった。二三自身でも顔を叩くと、夢を見ていた訳でもないのに漸く現実に立ち返ってきたような気持ちになる。ななしくんと共に人の集まるところまで行ってやるのだが、その途中で彼女はぴたりとその足を止めてしまった。かつてない黒山だかりに怯んでしまったのだろうかと、しゃがんで彼女の顔を確かめたとき。

「せ、せんせえ。……わたし。……か、可愛いですか」

ななしくんは、まだ首筋に結わえた先が触れることが、少し涼しい襟元に慣れないのか、和服の襟をぐいと上に上げるような仕草を見せ、そう云った。その余裕とも取れるような一言に思わず拍子抜けしてしまう。やはりこう幼いなりをしていても女性らしく、見た目が気になるらしい。それに対して、さてなんと言葉を掛けようものかと暫し黙っていれば、彼女の方は少し恥ずかしそうに俺に目を遣った。ずっと言葉を待っているようだった。此方の袴の裾をきゅっと握ってくる。

「うん。その髪、よう似合うてる」

驚くほど自然にその一言が云えた。
ななしくんはこの言葉を聞いたとき、まるで世界を救った英雄に出会ったかのような明るい顔で俺を見た。握られた所に手を重ねてやると、その手が熱を持って汗ばんでいるのが分かった。この子は、肝が据わっているとばかり思っていたけれども、やはり随分と緊張していたのかと知ると、先程のななしくんへの浅薄な心情の推し量りに対して、妙に恥ずかしくなった。
今日という日は自分の大事な弟子達の姿を、心乱さず見届けねばならないものだ。とりわけ、初めての大会出場となる彼女には、色々な意味で忘れられない日になるやもしれない。
小さな両肩へ手を当て、自分でもわかる程のひどく優しい声で彼女へ問うた。

「君の得意札は、何やったか。云うてみ」
「た、……玉の緒よ、の。式子内親王の歌です」
「よう云えた。ほら、行った」
「はい!」

今度こそ、真っ直ぐな自信に満ち足りた顔をしてななしくんはあっという間に人混みの中へと紛れた。大勢の中へと飛び込んでも不思議と力強さを見せる彼女の姿を見失うことはなく、冷静な闘志を燃やすその姿はまるで──、どこか同じ年の頃のあの人を思わせるような勢いがあった。きっと、ななしくんは強い選手になる。俺のあの日の出会いは、見立ては、まんざら間違いではないのかもしれない。
関根くんや、大岡くんと同じように、あの子もまた研けば研くほど一際光る選手になるだろう。そうするならば、俺の持つ技術はまた、すべて与えて、靭やかに異彩を放つその君を見たいと思うことは、導く者の純粋な心一つに依るものなのだろうか、只の自惚れなのだろうか、それとも、なにか別の。


「ななしちゃん、最近髪下ろさへんね」
「うん。結った髪気に入ったから」


20170715