×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -




母がこの日のためだけに戻ってきた。珍しく、父の姿もあった。
どうやら心待ちにしていたようで、私の支度が成されてゆくのを鏡越しに、微笑みを浮かべながら眺めていた。この状況を額面通り取るのであれば、なんと娘思いの親だろう。けれども、そもそもこの話自体がこの人達の起こしたもので私自身は全く納得のいっていないところをみると、やはりそこにひとつも愛情と呼べるものは無いのだと思う。
昨日練習を休まなければならなかったわけは、この日のための着付けだの、化粧だの、髪を結うだの打ち合わせが終わっていなかったからだ。正直大会が近いこの時期に、時間を割かれることは不本意そのものだった。しかし、抗えば次の面倒を生みかねないことを随分と前から知っているから、従うより他の選択肢がない。滞りなく進む様子をぼんやりと眺めていれば、自分がとうとう本物の玩具にでもなったつもりで、遂に感情さえすべて殺してしまえば、この棒に振るような一日もあっという間なのだろうと思った。少し瞬きをするうちに鏡の前には、まるで知らない人が現れた。驚くほど化粧が不似合いな子供だった。お綺麗ですよと目を弧に歪めて笑う女性が恐ろしかった。──これがもし間違って、鹿雄先生とのご縁であればどんなに嬉しいだろう。それならばこの盛装も幾らか喜ばしく、幸せしか先に見えないような心持ちにでもなれるのだろうか。朱色に彩られた晴れ着を、先生が好んでくださるかどうかは別にして。この姿を見てただあの少し困ったような顔をして、何か一言でも云ってもらえれば救われるような気がするのだ。……先生は優しいから、きっとどんな姿でも褒めてくれるだろう。
車に乗り、シートベルトを締める。着付けが崩れないように注意しなければならない。暫く道なりに進んでゆく。交差点を曲がれば、鹿雄先生の家が近づいてくる。すると、ちょうど先生が家から出てくる姿を見た。大きな背格好であるのに、それを少し縮めて猫背になる先生はすぐに分かった。

「せんせえ……」

無意識に声が漏れて、思わず口を手で覆った。車の窓は濃いスモークガラスのうえ閉め切ってあるから、私の声が聞こえるはずもない。姿も当然見えない。まかり間違っても鹿雄先生がこちらに気が付くことはない。先生は玄関先で何をするわけでもなく、ぼんやりと立っていた。
信号待ちで丁度車が停車する。 私は一方的にそのかたちを捉えていた。窓を下げれば、声を掛ければきっと先生は此方に来てくれると思うのだが、なぜか、急に見られたくない心持ちになった。この着飾った姿が、途端に恥ずかしくなったのだ。ボタンを押しかけた手を引っ込め、ガラスへ手のひらを当てる。ただ少しでも見ていたかった。こちらを振り向けばもっと良かった。
車が再び進みだしたとき、ふと鹿雄先生が顔を上げてこの車を見た。窓越しに、目が私と合ったような気分になる。この道は車通りが激しいから、幾多の通り過ぎる車の一つとして何気なく視線を遣ったのだろう、この車に私が乗っているから見たわけではない。――そもそも私がこれに乗っていることを、先生が知ったからとしても。……。
私はすぐに、あの夢のような夜を思い出した。鹿雄先生が私だけを見てくれたあの日のことを。その視線の先に何も感じさせない、『向こう側の誰か』を思わせない、あのひとときを。
先生は私へ向けたあの例の言葉を、どんな気持ちで云ったものなのだろうか。絞るようなせつない響きで、塞がれた耳をすり抜けて、それは確かに私を揺さぶった。そして今も、私はその甘さを忘れられないでいる。その言葉通りに――どんなに時間がかかってもいい、いつか、何かしらの形で、自分を拐かして欲しいと思った。

「ななしはん、きょろきょろするんは止めて。着付け、崩れてしまうやろ」

冷たい声がした。母は鹿雄先生の家の方へ目を向けると、少しだけ嫌な顔をしてからまた前を見た。





料亭に着いた。相手はまだここに到着していないようで、道が混んでいるからだなどと忙しない声を聞いた。先に案内された広い部屋で両親と待っているのだけれども、誰からも特に会話が振られることもなく、重い沈黙が続いていた。否、重苦しいと思っているのは自分だけかもしれない。

「遅うなりました」

居心地の悪さを感じていたところで、初老の女性の声とともに襖が開いた。頭を深々と床へ垂らす。

「いいえ、此方が早う着きすぎてしもたんです」
「今日は宜しゅう、おたのもうします」
「相変わらず、眉目秀麗云うんはこの事ですなあ。……さあ、ななしはん、俊弥はんにご挨拶して」
「はい」

俊弥はん、と呼ばれる人を見ようと、下げた頭を上げたとき。──そこには見知った人物が立っていた。

「お久しゅう」

あの矢島さんだった。向こうは此方の顔をみても動揺などはまるで見られず、ただ外向けの笑顔を貼り付けている。知っていたのだろう、私が相手なのだと。
後は若い者同士で、とあっという間に矢島さんと二人きり残された。立ち尽くしたままでいると、いつの間にか見たことのあるすっと澄ました表情に戻っていた。矢島さんの方はといえば緊張も何もなく、座ろうかと云って対面の座布団を指差す。あわせて腰を下ろした。机の中央に置かれた急須と湯呑みを取ると、脇に置かれたポットからお湯を汲んで、緑茶を注いだ。前へ差し出すと、矢島さんはそれを早速飲み下す。溜め息をひとつ洩らした。

「あの日以来やわ。俺が名頃さんの所を訪ねた時。今日は緑茶やけど、あの時は確か──麦茶を淹れて貰て。他愛もない話をした」
「覚えています。まさか、矢島さんがお相手やとは、思いませんでした」
「俺もや。何でこないなお子様と」

嫌そうな声でそう云うと、矢島さんは手近な菓子を手に取り、包装を破いた。

「……ええ、そうですね」
「相変わらず、ばか真面目な子やな。真に受けた顔してはるけど」
「いえ、ほんまにそう思います。私まだ、お見合いなんて」

──比較的年の近そうな矢島さんでさえ、私のことを"お子様"だと云うのだ、鹿雄先生も同じように私をそう思っているのだろうか。お子様だから、先生の内側に何かどうか踏み込むことすら叶わないのか。──事実は、事実として覆しようのないことだ。生まれる日は選ぶことが出来ない。
矢島さんの言葉は鋭く、それでいて素直であるから余計に胸に刺さるものがある。
先生からの優しさや、手厚い世話には愛がある。しかしながら、愛こそあれどそれは私と同じ類のものではけしてない。それよりずっと邪な気持ちを、私が強く抱いている。これは先生の方には無いものだ。そう考えれば、私は都合の良いお子様なのかもしれなかった。そんなお子様の仮面の下には、胸のうちにはそれは不釣り合いな、どろっとした感情が幾つかある。情愛が、羨望が、一人前の嫉妬がある。そんな自分は、よほど汚く感じられた。
庭の鹿威しが水を吐いた。つられて外を見る。広い窓から覗く景色は、まるで写真からくり抜かれたような美しさだった。苔生したまるい石がいくつも木々の下に隠れて、木漏れ日で時折光る。私がいつまでも横を向いたまま何も語らずにいれば、遂に矢島さんが立ち上がった。布ずれの音が聞こえると、自分のすぐ真隣の、座布団もひかれていない畳の上へ改めて座った。予想外のことに驚いて身を引こうとすると、それを防ぐように右の手首を握られる。

「や、矢島さん、何を……」
「──これはあくまで提案やけど。この機会、折角やしお互い生かす方向で考えてみたらどうやろ」
「機会を生かす……?」
「仮初めの"縁談成立"を演じること。――面白そうや思わへんか」

矢島さんのいい分はこうだ。自分との縁談を断ったところで、私はまた違う相手と見合いをしなければならないと。確かにここまでの一連の流れからそれは容易に想像がついた。この後に、私が一言『矢島さんを気に入ったから、前向きな未来を前提に交流をしていきたい』とさえ宣言すれば、今後の心配は当分無くなるというのだ。不思議なことに、彼は私の家の事情に精通しているようだった。しかし仮にでも縁談を是とすることは、やはり自分の中でどうにも受け入れがたかった。言葉を失っている中でも、矢島さんは話を続けた。自身も度重なる気乗りのしない縁談に時間を割かれて辟易しているような事を述べてから、終いには約束など結んだところで無かったことにすればよい、などと乱暴なことを事も無げに云う。

「そないな事、出来ますか」
「俺は出来る。ただ、偶に会うて仲良い素振りは見せなあかんけど。その時はせめて甘いもんでもご馳走したるわ」
「どうして、そこまで」

甚だ疑問だった。何故、たった一度、会ったことのあるだけの矢島さんが自身の有益なところも一部ありつつ、それを差し引いても面倒なことをわざわざ買って出ようとしたのか。今日までに予め色々と考えていたかのような提案を聞くことが困惑でしかない。そんな疑り深い目を私がしていたのだろう、矢島さんと私の視線がここで漸くしっかりと交わされたとき。何故か彼はそんな中、面白そうに笑ったのだ。

「驚いた。師と弟子、やり取りまでそっくりやな」
「え?」
「君自身の為やない。他でもない、名頃さんのお弟子さんやから。―――これと似たようなこと、最近何処かで云うたけど」
「鹿雄先生のことを、案じて下さっているのですか」
「まあ、そんな所やわ」



やがて話に一区切りつきそうになった所で、まるで聞いていたかのように襖の向こうから声がかかると、両家の親が戻ってきた。どうやら今日の予定は、昼食を済ませたあとお開きになるらしい。絢爛なお膳が運ばれてくると、隣に腰を下ろしていた矢島さんはさっと立ち上がって、何事も無かったかのように元の席ヘと戻っていった。

「ななしはん、かるたの腕前も相当やし、話す事も多くてええですね。それに、ほんまに別嬪さんで……」

穏やかな会食の中、矢島さんの口から滑るように並べられた言葉は、どれも私に向けられているというよりは、この場を円滑にお開きにする為の口弁だということは、すぐに分かった。私は、思ったよりもこの人の事を理解出来たようだ。私の方もどうかと途中問われたので、是非にと云うと母の方はあからさまに嬉しそうな様子だった。
帰り際、互いに車に乗り込む前に再び矢島さんとニ三言葉を交わした。あの数時間の会話の中で、特に互いの事を教えあった訳ではないけれども、話しやすい距離感にまで落ち着いたのは、やはりあの空間のなかで、唯一自分の味方であるような気分にでもなったからだろうか。

「色々計らって下さいまして、有難う御座います」
「礼云われるような事はしてへん」
「……一つお伺いしたいことがあります」
「何や」
「今回の事を、私の為やなく鹿雄先生の為や云うてくれましたけど。でも何故、これが先生の為になるんですか」

私の言葉に矢島さんは一瞬、言葉を詰まらせた。やがて、何も取れないような白紙の表情をして呟く。

「強いていうなら。──君なら名頃さんの、あの方へ絡んだえにしを、解ける筈やと思っとるからやろか」


20170709