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アラーム音が普段よりも余計に五月蠅く聞こえる。
寝床から出もしないで、音のする方向へ手を差し出せば、慣れたもので普段と同じように止めることができた。随分と深酒をしてしまったらしい。起き上がろうとしたけれども、頭が割れそうなほど痛んで、低く呻く。思わずまた枕に顔をつけてしまう。それを何度か繰り返した。
昨晩、矢島くんと食事を済ませたあとは、まっすぐ家に帰り、千鳥足でそのまま布団に倒れ込んだ。その後なんどか夜中にトイレへ立った記憶はある。体を横たえたまま身の周りを見渡すと、脱いだ足袋は丸められているし、開きっぱなしの財布からは小銭が溢れて部屋の隅に転がっている。ここまでひどい有様なのは、学生以来のことだった。枕元の携帯電話の画面を見た。普段は固定電話で事足りてしまうから、必要以上に使うことはなく、電話番号を知っている知人や友人も少ない。唯一重宝している機能がアラームであるので、これは随分高額な目覚まし時計だと笑われたことがある。漸く渋々起き上がるが、渡り廊下を歩く足は重たい。ひどく喉が渇いていたため、台所へ向かい手近なコップを取って水道の蛇口を捻る。今日も朝から暑いせいだろうか、温い水が出た。
特に腹は減ってもいなかったけれども、徐に冷蔵庫を開く。中には整然と並べられた容れ物が鎮座していた。それを見て、ななしくんが作り置きをしておいてくれたことを思い出した。たしか早めに食べてくれと云っていたような。一番扉に近いものを一つ開いてみると、胡瓜と冥加の浅漬けが入っていた。爪楊枝を刺して食べてみる。──程よい塩気が丁度今、自分が欲していた味だった。つい先ほどまで、自分の具合の悪さの方に精一杯であったのに、この料理の山を見た瞬間、また彼女の事が頭の片隅に浮かぶようなこの単純さに対して、ほんの少し、自分にうんざりした。
新聞を取りに玄関まで向かうと、裏返しになった雪駄が転がっていた。玄関で限界を迎えず、きちんと部屋まで歩いたため御の字であろうと思うことにした。昨晩の夕刊と、朝刊とが乱暴にポストに折り込まれているのを無理矢理引き抜いてから、朝刊の方を開く。読みながら離れの方に戻る前に、もう一度台所に寄り、積まれた容れ物を幾つか取り出した。その頃には何かしら腹に入れたい気分になっていた。冷たい飲み物でもないかと引き出しを見れば、大きなボトルに麦茶が入っている。ななしくんが日頃作り置いて呉れてあるものだ。当たり前のように注いで、料理も持って、離れの食卓の上へ並べる。朝食から随分と豪勢になった。どれもさっぱりとした味付けのものが多いのは有難かった。
──咀嚼しながら先日の、新聞越しに見た、ななしくんが料理を作る姿を思い出した。ゆるく跳ねた髪を揺らしながら、気分が良くなってくると時折鼻歌を歌い出す。聞き覚えのある一節に目を閉じれば、驚くほど安らいだ。偶然振り向いた彼女は、俺がいたことに全く気が付いていなかったようだった。何か聞きましたかと恥ずかしそうにする姿がおかしくて、歌の名前までは分からず、歌手の名前を答えると、彼女は俺のことがきらいだと呟いた。──さすがに嫌われるのは御免被りたい。
金糸瓜の和え物に箸を伸ばしつつ、テレビをつけると、ちょうど例の歌が聞こえてくる。流行りなのだろう。あの時と全く同じように瞼すると音だけを捉えてみた。──するとやはり、自分がただ単純にあの旋律が好きなわけではなかったのだと改めて分かった。番組を変えようとリモコンを握ったところで、電話の音が響いた。先日に引き続いてのことで、不承不承立ち上がると先方の番号も確認しないまま受話器を耳に押し当てる。

「名頃です」
「鹿雄先生、お早うございます」

名乗らずとも解るやわらかい声がする。ななしくんがここに電話を掛けてくることは珍しかった。無意識に受話器を持ち直す。

「ななしくんか。お早うさん」
「先日は、有り難う御座いました」
「うん。……ああ、今冷蔵庫の中のおかず食った所やわ」
「辛うありませんか」
「丁度ええ」
「良かったです。奥の方に、おなますとかありますので」

心なしか声色が明るくなるのが分かった。ななしくんは、自分が数ある容れ物の中からどれを選んで、何を食べたかだなんて知らぬはずであるのに、なぜか知ったようでいた。
ふと壁に掛かった時計を見れば、午前中の用事のため動き出さねばならない頃まで差し迫っていた。ふだんであればゆっくりと会話を続けても差し障りないのだが、早々に話を聞くことにする。

「どないしたん」
「今日、練習をお休みさせて頂きたくて……」

遠慮がちに口にしたのは珍しい申し出だった。ここしばらく、ななしくんが休んだためしが無かったからだ。
たしか今日は夕方から練習が入っている。けれども、これは定期的な集まりとは異なり、大会が近い会員のため臨時で場所を設けたものだ。この場合は人数も把握しないまま、和室だけを開放して会員同士に任せてある。会自体の人数が少ないからこそ出来ることだった。それにも関わらず、律儀に連絡を寄越すあたりに彼女の生真面目さをみた。

「分かった」
「もし来客がありましたら、戸棚の二番目を開けて下さい。お茶菓子はそこに。すぐ分かるはずやと思います」
「ああ。週末はどないする。休むか」
「まさか。行かせてください」
「そう」
「すみません」
「うん?謝ることないやろ」
「……そうでした。それでは、失礼します」

ぎこちない会話ががあっさり切れると、また居間に戻った。
今度こそリモコンを握って幾つかチャンネルを回してみたものの、結局観たいものも無く、例のバラエティ番組をつけたまま食事を早々に済ませた。
身支度をして家を出る。予約を入れた眼科は、駅の近くにあるためここから少し歩く。いい加減車を持たねばならないと思うが、生活を営んでいく中で徒歩や公共の交通機関を使えば十分に事足りる環境が、どうにも自家用車を持て余すような気持ちにもなり躊躇わせた。小難しいことを考えながらも、単純に、歩き回ることが好きな質でもあるからかもしれない。財布の中にしまいっぱなしの免許証は、数年に一度の更新の折にしか日の目を見ることはない。
まだ人影も少ない商店街を抜けていくと、所々でもう惣菜の良い香りがした。甘いものと、しょっぱいものと、混ざりあって生暖かいような、それでもけして不快ではない。いつもであればそれを衝動的に買って、今日の夜に食べようか、明日の朝にしようかなど連想するものなのだが、今はただ家にあるものだけを思った。
目的の場所につくと、早い時間にも関わらず混み合っている様子が硝子越しに見受けられた。殆どが老年の患者ばかりである。自動扉を抜けてすぐに大きな待合室があった。

「九時から予約しています、名頃です」
「名頃さんですね。初診の方は診察券を作りますので、此方もご記入ください」

問診票を受け取って空欄を埋めてゆく。自分の症状を書き込みながら、結局のところしたいことは眼鏡を作る為の検査だけなのだが。これを書きながらも時折やはり見えづらさを覚えるので、この煩わしさが少しでも和らげばそれに越したことはないと思った。
大方手元の紙を仕上げると、受付の女性に手渡した。また同じ長椅子に戻って、深く腰掛ける。呼ばれるまで何かしようと、手近な週刊誌を手にとってみたもののさほど興味も分かずざっと捲ったところで戻してしまった。
長椅子から溢れてしまうほど人がいた待合室も、徐々に少なくなった頃、漸く診察室のある方向から自分の名前が呼ばれた。手招きをされるままに向かうと改めて視力検査ですね、と中年の女性に確かめられ小さく頷いた。検査機と向かい合う簡素な椅子に座ると、表示にしたがって答えてゆく。

「此方はわかりますか」
「右。……いや、下でしょうか」
「これは」
「……見えませんね」

検査を進めてゆくなかで、自分は思ったよりも遠くが見えなくなっていることがわかった。慣れぬ光や色を見て時折頭痛もする。やがて全ての項目を終えると、最後に診察があるようで、再び待合室へと戻される。あまり目を使いたくなかったので、瞼を閉じて椅子にもたれ掛かる。うつらうつらと、意識を手放したり、引き戻されたりする中で、院内の控えめな有線放送からまた件の歌が聞こえてくる。――それは何故かついに頭のなかでななしくんの声になった。





「名頃さん、――名頃鹿雄さん」

卒然名前を呼ばれ大袈裟に立ち上がった。
ぼんやりと定まらないような頭を動かしながら、呼ばれた診察室へと入る。暗がりの中で、機械に顎をのせると、若い男の医者が俺の目をみた。それをされながら、何度か問われたことに答える。細い光が何度かちかちかと目の前を過ぎる。漸く全ての行程を終えたようで、部屋の明かりがついた。

「大きい病院で再検査をお願いします」

思いもよらないことだった。聞き間違いかと、訝しげな顔をしてみせると、もう一度、次は紹介状を書きますからと云う。

「はあ。――いや、今日は眼鏡を作りたくて、視力を測って貰ただけのつもりやったんですが」
「此方の検査の中で、少々気になる所が見られましたので、念のため。お忙しいかと思いますが、お早めの受診をお願いします」

医者の答えに、これ以上なにも云うこともできずに、結局手元に残ったものは本来望んだ眼鏡の処方箋と、ここから少し離れた大学病院への紹介状である。半日がかりで受診をした結果、おかしな方向へ話が進んでしまったものだと、受付で金を払いながら思った。
病院を出ると蒸し暑い外気が一気に肌に触れた。頭上から注ぐ陽光が暗さになれた視界を侵してゆくようで、目映さに目が眩む。貰った紹介状やらを胸元にしまいながら家路についた。
家について真っ先に、なぜだか直ぐに置きっぱなしのあの本を手に取りたい気分になった。少し散らかったところから古い本を見つけた。開き慣れた頁から挟んであった、あの人の写真を見る。

「──皐月さん」

目の前の笑顔が欠けて見えた。


20170629