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『かど、わかす…』


物騒な言葉を不思議そうに唱えるななしくんの声を聞いたとき、自分は何を幼気な子に云ったものなのかと、一瞬でその発言を恥じた。恥じて、忘れてほしい、と云いかけたが余計ともおかしな事になり兼ねないと思い、誤魔化しながら半ば無理やりに彼女を家の中へと押し込んだ。タクシーを呼んでくれるという家政婦の申し出を丁重に断り、挨拶もそこそこに広い敷地を抜けたとき、背中にいやな汗が滲んでいることに気がついた。
一人元来た道を歩いている、その道のりは不思議と長く長く感じられる。人の声が聞こえない夜というのは、こんなにも寂しいものなのか、あの和やかな時間が与えたものは大きかった。熱に浮かされた頭を押さえる。どうにかしてはやく冷やしてしまいたい。
──ななしくんは、本当に健気な子だと思う。直向きで、優しく、嫋やかで。特に、あの凛とした澄んだ声音は、聞いているだけで心が鎮まりもすれば疼くような気持ちにもなる。──それは、あの人と重なるふしがあった。 だからといってあの人と彼女とはすこしも似ていない。全く別の人間で、俺が心に留めているものはけして代わりはきかない。──弟子たちの中でもとくに彼女を可愛らしく思うこと、ましてやその声を欲しがることなどあってはならない。
ななしくんは、自分とは一回り以上歳が離れている。幼い頃から見ているからこそ、背が随分と伸びたことも、顔つきが以前よりもずっと女性らしくなったこともわかる。──そして情動ばかりはどうにも大人びているから、彼女から投げかけられた問いが難しく思わず答えに詰まるときがある。その言葉の一つ一つは、たしかに単純でいるのに、音にはならないなにかが隠されているのではないかとつい勘ぐってしまいたくなる含みがあった。ただしい答えをしてやれているものなのか、誤りのない解答をしたつもりでいても、それは彼女にとって満足のいくものではないのかもしれない。大人のつまらない嘘や建前は、容易に見透かしてしまうだろうと思うから、彼女にはまず正直に答えるようにしていた。ただ、あの瞬間ばかりは、思わず口をついて出そうになる言葉を慌てて言い換えた。食卓で、白米をよそってもらったときだ。嬉しそうにこちらに手を差し出した彼女を見て、思わず、めおとの様なやり取りだと内心笑った。──刹那なぜか、少し成長したななしくんの面影を見た。十数年経った頃のような、それでいてあどけなさを残したななしくんを。驚いて思わず目を擦ると、そこにはやはり、幼顔の彼女がいた。

『別にななしくんが可笑しいわけやない。このやり取りが…──親子、みたいやなと思っただけや。嫁はんもおらんのに』

今日という日が、彼女の云うように『幸せなひととき』であるのは、けして彼女にとってだけのことではなく、俺にとってもそうであったのに、それこそ自分の中の言葉にはならない含みがどうにもそれを言いかねた。──それは導く者としての矜持が漸く働いたからだった。俺は平等で無ければならない立場にあるのに、彼女との時間だけをそうそう特別であると明言してはならない。この矜持は常に持っていなければならないのに、あの顔を見ると、そんな気持ちなどいとも容易く崩されてしまう。本当に始末に負えない。げんに──夜更けに、ななしくんを歩いて送って遣ろうと云ったのは、彼女が言葉ではあっさりとしてしながら、寂しそうにしたのを見ないふりは出来なかったから。
考えを巡らせていればあっという間に家に着いた。玄関の鍵を閉めて、ふと顔を上げた時、鼻腔に甘い匂いが残っていることに気がついた。月の明かりの下のくせに香った、ひだまりだった。それが分かるとまた頭が熱くなる。もう、今日は早く寝てしまおう。何も済ませず寝床へ向かった。





目覚めはあまり良くなかった。
ここのところ、起きぬけの視界がはっきりとしないことが多く、それが日中にも度々あらわれるようになったので、遂に眼鏡を作らなければいけないものかと思っていたところだ。朝刊を取るため、引き戸に手を掛けたところで電話が鳴った。慌てて廊下に戻ると四回目の音で受話器を取る。

「朝早うにすんませんな」

聞き馴染みのある若い男の声がした。

「矢島くんか」

矢島くん──矢島俊弥くんは、皐月会の会員の中でもずば抜けた実力を持った、もう長いこと懇意にしている青年だ。出会いは関根くんの好敵手であると聞いたことから。何故か三人で、彼の行きつけの店で食事をした日を覚えている。育ちの良さのわかる立ち振る舞いの中に、時折とげのある言葉を零すものの、柔らかな物腰と気の回る質は此方としても親しみが持てた。

「突然ですけど、今日の夜、飯にでも行きまへんか。祇園の方にでも」
「うん?そら、ええですけど」
「なら18時に。前に関根と三人で行った店、覚えていますやろか」
「間口の狭ぁい所やろ」
「通りの前で待っていますわ、ほなまた夜に」
「あ、関根くんは。俺から連絡しとこか」

当然関根くんも呼ぶだろうと、気を利かせたつもりだった。しかし矢島くんは暫し沈黙したあと、今回は二人でお願いしますと早口に云い、そのまま電話を切った。
受話器を元の場所に戻し、今度こそ外のポストにささった新聞を引き抜いた。三面記事から見ていく。家の中へ戻りながら、洗面所へ向かう間に大方目を通していくと、中大路醸造のインタビュー記事が目に飛び込んでくる。使われている写真は、ご両親とななしくんが三人で写った、少し前のものであろうか。今よりも頬がすこし丸い彼女を見て、口元が緩んだ。事業を遂に海外展開するといったような、前向きな内容を斜め読みしながら、片手でタオルや下着を洗濯機へ放り込むと、電源ボタンを押した。
とくに急いで済ませなければならないことはないけれども、午後一には用事がある。そのまま矢島くんとの約束が済むまでここには戻らないから、忘れないうちに、まず眼科の予約を入れなければならない。





約束の時間を十分ほど過ぎていたため、通りの前まで小走りで行くと、矢島くんの姿が人混みの中に紛れて見えた。

「矢島くん、すまん。待たせた」
「お気になさらず。随分日が長うなりましたなあ」
「うん、この時間でも明るいわ」
「そうですね。──立ち話も何ですし、ほな、行きましょか」

挨拶もそこそこに歩き出す。今日のように二人きりで会うのは初めてだった。 初めこそぎこちなさがあったものの、薄明かりに照らされた通りを抜けてゆく間に、二三取り留めもない会話をすればそれも消えた。例の間口の狭い店が見えた。先に彼から入ると自分も続いて暖簾をくぐった。案内されたのは以前と同じ、離れた個室である。対面に座ると、既に和紙でできた品書きが置かれていた。

「今日は飲めますか」
「飲める」
「良かった。日本酒でええですか」
「ああ、それやったら前に飲んだ冷の、……なんて云ったやろか」
「"あだし野"ですか?うちの酒です」
「それで頼みますわ」

頃合いを見たかのように、着物を着た妙齢の女性が来ると丁寧な挨拶を矢島くんへ済ませた。注文を聞くと、恭しく厨房の方へ戻っていく。ややあって酒と、お通しが来た。水茄子に箸をつける。

「名頃さん、どうぞ」

空になったお猪口にすかさず酒が注がれる。此方も注ぎ返す。矢島くんはざるだから、余り飲みすぎないようにしなければなるまい。
品書きの料理が半分を過ぎた頃、俺はすっかり気分よく酔いが回って来ていた。お互いに近況など話しきったところで、早朝の電話のことを思い出し、触れることにした。

「ところで、今日関根くんを誘わへんかったのには、何か理由があるんやろ」
「ええ、まあ」
「どないしたんです」
「……前に名頃さんのところでお会いした、中大路醸造のお嬢さんおりますやろ。あの子のことで」

思いがけずななしくんの話題になり、酒を煽る手が止まる。

「ななしくん?」
「こんど、僕と見合いする話が出てまして」
「……君やったんかいな」
「見合い話自体は知ってはったんですね」
「丁度昨日聞いたところですわ。けど、矢島くんが相手とは」
「まだ、未成年の学生さんやないですか。僕、そういう趣味ありまへんし。丁重にお断りさせて頂こう思てました。ただし」
「ただし?」
「あの家の女社長、あれ少ぅし厄介ですなあ。意地でもええとこの家と、結婚さそう思てるようやと聞きましたわ。──今の時分に自分の子供、そないな風に扱って、頭おかしいんとちがいますか」

珍しく矢島くんが僅かに憤りを覚えているのか、淡々とした口調で話す。あの家の女社長、と云えばそれはななしくんの継母のことを指すものだった。確か最後に彼女の継母とまともな会話をしたのは、彼女が名頃会へ入ると決めたとき。何年も昔のことで、それ以降は一切会う機会もなかったため正直顔もはっきりと覚えていなかった。かろうじて、今朝方新聞で見た写真を思い出し、なんとか過去の記憶と結びつけることができる程度だ。普段の練習終わりの迎えは家政婦が務めているようであるし、会費はななしくんから手渡しで貰っている。残りは大会にその機会があるけれども、多忙だと聞いていたから、一度も彼女の出る大会へ顔を出さなかったことに対して違和感を覚えていなかった。しかし、その継母の名前だけは良く知っていた。過去それなりに実力のある競技かるたの選手であったからだ。──本来ならば、良く考えてみれば、自分が励んでいたものを、後を追うように努力する子供の姿ならば、無理を押してでも一度は見に来るはずであろう。しかしそれはなかった。思えばあの子が、家について度々俺から触れるたび、苦虫を噛み潰したような顔をしてはぐらかしていたこともあって、僅かな違和感が徐々に明確さを帯びてくる。そして今回のことだ。遂に合点がいった。
 
「今回の縁談が好く進まへんかったら、また違うお人と引き合わしますやろな。……で、どないしましょ。取り敢えず食い止めておきましょか」

思わぬ申し出だった。勿論、出来るものであればそうして貰いたい所だ。この見合い自体が本人の望むところでもないのは明らかであるし、昨日のこともある。矢島くんは、流暢に続けた。

「形だけでも、気に入ったからと云えば双方納得しますわ。そうしたら、僕もしょうもない見合いの席に暫く行かんでも済みますから。まあ、後はご破算にするまで適当に会うたふりしておけば……」

そんな話を聞きながら、ひとつだけ分からないことがあった。

「なんで、矢島くんがそこまでななしくんの為に」

矢島くんとななしくんが、顔を合わせたことがあるのは一度だけだ。他のかるた会の練習の様子も見てみたいからと、彼が掛けた電話にたまたま出たのが彼女で、約束の日に留守をした俺の代わりに彼女がお茶を出し、話し相手をした、あの日だけ。そんな些細なきっかけにしては随分と情深いではないか。そう訝しげに問うた俺を見て、彼はあからさまに眉間に皺を寄せた。高めの位置にあったはずのグラスの底と机とが鈍い音を立てる。

「は?何云うてはるんですか。あの子の為やない、名頃さんの為や」
「俺のため?」
「あの子の事、特別目ぇかけてる様に思てましたけど、ちがいましたやろか」
「いや。……」
「それに、今の態度で色々と、よう分かりました」
「……君、ええ性格してはるわァ」

図星だった。熱の入った俺の言葉を目敏く察したらしい。珍しく矢島くんも少し酒が回っているようで、こちらに向ける目がわずかに据わっているのが分かった。

「……俺はただ、あの子に倖せになって欲しいだけや」

自分でも情けない声が漏れる。普段ならば云わないような言葉が次から次へと零れてきそうになるのは、きっと飲みすぎたせいだ。手元が覚束無くなるのが分かるけれども、それでも尚水のように遂に徳利の中身を飲み切った。

「へえ…、──名頃さんが幸せにするんとはちがうんですか。そら、つらいことを先延ばしにするだけになりそうやわ」

俯く俺に更に容赦なく矢島くんは、返しようも無い言葉をなげかけた。──彼には、自分の葛藤を伝えたことはないはずだのに、恐ろしいほど俺のことをよくよく分かっているようだった。
どちらから云うこともなく、自然と食事はお開きの運びとなった。矢島くんが勘定の旨を伝えると先程の女性が伝票を持ってきた。金を払おうと財布を取り出した。が、彼は俺の手を制す。払わないわけにもいくまいと食い下がるが、失礼をした詫びだと云われれば何も返す事ができない。
店を出ると雨が降っていた。石畳に様々な店の提灯の灯りやらが乱反射している。いつの間にか矢島くんが呼んでいたのだろう、黒塗りのタクシーが目の前で扉を開けた。

「今日は、えらいすんませんでした。酒が入ったからやと、言い訳したないですけど」
「いや。全部ほんまの事やから」
「例の件、済んだらまた連絡します」
「おおきにな」

矢島くんは最後までばつがわるそうにしたままだ。車に乗り込み、シートベルトを締めた。扉が閉められる直前に隙間から矢島くん、と声をかけると彼は少し驚いた顔をした。

「また、改めて飲みに行こう。次は関根くんも誘ってやらんと」
「……そうですね、ぜひ。お願いしますわ」

車が走り出して早々に目を閉じた。雨粒が車体に当たる不規則な音が静かな車内に響いている。

20170621