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外はひんやりと涼しく、火照った頬を程よく冷やしてくれた。
鹿雄先生と夜道を一歩ずつ進むたび、少しずつ夢から覚めていくような心地がする。あの、不思議な空間で先程まで過ごしていたことなど、まるでなかったような気分になるのがいやだった。それをどうにか取り戻していたくて、私は先生へ矢継ぎ早に話し掛け続ける。

「冷蔵庫の中に、幾つか作り置きがありますので。良かったら召し上がってください」
「そら楽しみやわ」

雪駄の底がコンクリートに擦れる音と、ローファーの踵が当たる音とが静まった街中に響いている。
近所のコンビニの看板が見えてくると、いよいよこの幸せな一時も終わりなんだと、いやでもそう思わざるを得ない。正直云えばもっと一緒に居たかった。特段家に門限があるわけではない、ただ自分の感情一つの振る舞いによって、先生が悪く云われてしまうようなきっかけはなるべく作りたくはない。視界の隅で先生が小さく伸びをした。

「鹿雄先生」
「なに」

少しあくびが混ざった、くぐもった声の返事だ。
"ここで毎日先生のお夕飯お作りしたいから"
──先刻、紅葉ちゃんが冗談交じりに私に云った、あの台詞が脳裏をよぎる。鹿雄先生の日々をつくる食事を拵えること、そんな事が出来たらどんなに幸せだろうか──到底叶わないことだ。開きかけた口を閉じ、いちど唇を噛み締めてから、再び開いた。

「今日、とっても幸せなひとときでした」

私のその言葉に、先生は黙ったまま口の端だけをゆがめている。見慣れた生垣の隙間からほんのりと灯りが洩れていた。玄関先についた電灯はこの辺りではとくべつ明るい。ここまでくれば流石にのんびりと歩く事も出来ず、躊躇もなく真っ直ぐに進むとそのまま玄関の扉に手をかけた。鍵は予め開けておいてくれてあるらしい。先生が、二歩分ほど離れた石段で立ち止まる。

「……ああ、そうや。ななしくんに渡さなあかんものがあった」

卒然なにか思い出したのか、懐を幾らか探るような仕草をする。あった、と小さく呟いてからこちら迄歩み寄ると、温かい両手を私の右手を握るように重ねたのだ。思いもよらないことに身を硬くすると、懐紙に軽く包まれた何かが、有無をいわさず差し入れられたことに気がつく。手のひらの上に残ったそれに触れれば、中身が確りと三つ折りにされたお札だということがすぐに解った。しかもそれは、自分が遣った金額よりも遥かに多い。確かに、そのままの形で渡されれば私はまず受け取らないであろうし、だからといって包んで形を変えたところでそれは変わらない筈だ。けれども先生は私がこうされれば弱いということを、分かっているような気がした。──私は、気を回されたかった訳ではない。二人きりで過ごせたことで十二分に満たされたいるのに、この形は却って無粋なように思える。
手の中の包をそのまま先生へ突き出した。

「こんなもの、頂けません」
「肉やら買うてくれたやろ」
「それでも」
「……なら、ななしくんの気ィが向いたときに、それでまた飯拵えて欲しいわ。あかんか」

面倒な質の私へ包を受け取らせる為のその場凌ぎのものかもしれない。ただ、それだけを聞いてしまえば、次が約束されたような、余りにも魅力的な響きに思わず思考が止まる。これが両思いの男女ならきっと誤解をする。告白めいたその言葉にそれ以上の意味はなくとも、ここで使われてはいけない。

「そないな事云って──た、たとえば明日も、明後日もっ、私の気が向いてしまったら。先生お嫌でしょう」
「……いや。悪ないなあ。君のご飯、美味しかったから」

素直に云い切った鹿雄先生へ、遂に何も告げられなくなってしまう。私にもう一度、今度はつよめの口調で、あかんか、と云うので、それを突き返すことなど出来るわけもなく、渋々胸の前で握った。どこまでが冗談で、どこまでが本気かも解らないような大人の言葉を、すべてまともに受け取ってはいけないのだろう。ただ先生が、嘘をついてまで人を悦ばせるような言葉の選び方をしない人だということだけは識っている。悪くないだなんて返されたら、まるで、想うことを許されているのではないかと自惚れてしまう。──そんな自惚れついでに、先生へ聞いてしまいたいことがあった。尤も玄関先などでいつまでも長話をするより、これに相応しい機会は今日の中でいくらでもあった筈だというのに、決断出来たのが今更だなんて、やはり自分は自覚できるほど話題を選びすぎるきらいがある。

「──鹿雄先生」
「うん?」
「一つだけ、ご相談してもええでしょうか。一日、ずうっと思っていたんですけれど、云われへんかったので…」

私からそう聞くと、先生は黙って足元の石段に腰を下ろした。その隣を軽く手のひらで叩く。おいで、とやさしく云われたとき、それがとても愛おしく感じた。 促されるまま隣に座ると、御影石の冷たさが服越しにも伝わってくる。
こうして出会ったときから、ずっと当たり前のように私の我儘を聞いて呉れるのは何故か。答えはそう、私はただの一弟子にすぎないこと、先生にとってそれ以上でもそれ以下でもない存在だということは、側にいる私がよく解っている。解っているのに、こうして優しくされるたびにまたわけが欲しくなる。…わけがない優しさなどこの世にありえないから。しかしそのわけさえも、また弟子だからだと思い知るほどに、もう、本当にただ幸せの中にほんの少し辛さを感じるのだ。──きっと、これもまた理由付けを求めてるのでは無い。だから『どうして』とももう聞くことができない。

「夜風が冷たなってきた、寒ないか」
「ちっとも」
「相談。云うてみ」

左側だけがほんのり暖かい心地がすると、自然と正直になれる気がした。

「私今週末にお見合いをする、らしいんです」

これは、どうやら鹿雄先生の予想を大きく超えたものだったようだ。表情があからさまに曇る。たしかにこの歳にしては早すぎる、当人ですらそう思うのだ。改めて口に出してみたところで、実感はやはりどこにも無かった。私自身がそれを聞いたのも、つい先日母親と食事をした朝、あの人が出掛ける間際のこと。挨拶代わりのように告げられたのだ。その事実しか知らないから、らしい、としかいえず、相談をするに相応しい内容かといえばそうではないのだけれど。

「見合い?…ななしくんが?誰と」
「正式には、お相手とのお顔合わせやと聞いています。けどお相手のことはよう解りません。ただ、ええとこの、…私よりお歳が上の方だと」
「…それは」
「どないしましょう…」

鹿雄先生にこんな事を問うたところで、困らせることは目に見えているのに、云わずにいられるほど私は人間が出来ていない。
自分でもそれが正しいことだったのかわからず、堪りかねて先生を見上げると、私のその仕草はよほど不安そうに思えたらしい。だらりと下がっていた右手が遠慮がちに伸びてくる。少しがさつな手つきで視界が大きく揺れるほど、先生は私の頭を撫でた。それが何度か繰り返され、すっかり目を回しかけたとき、漸くくしゃくしゃに乱れた私の髪を一筋一筋梳いてみせた。月明かりに照らされた先生の顔を見ると、すこしだけ怖い顔をしているのが分かる。しかしそれは、私へ向けられたものではないと察することができるから、穏やかな気持ちでいられた。

「──俺は、自分の弟子に後悔する様な生き方はして貰いたない。色んな選択肢の中から、迷ってもええ、自分で選んで、精一杯生きてほしい。……もし、ななしくんが誰かによって、取りたない選択肢を取らなあかんときが来たら。そしたら、」
「……そしたら……?」

鹿雄先生の言葉を鸚鵡のように繰り返す私を、きのどくそうにしてから軽く肩を抱き寄せた。壊れ物かなにかへ触れるような、手つきのあやういこと。その骨ばった手がやがてゆっくり耳を塞いだ。吹く夜風の音が大きく反響する中、拐かしたろうか、と、ごく小さく囁いた先生の声はたしかに私のもとに届いていた。


20170618