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胸の奥がどきどきしている。
特段何かが起こるわけでもないのに、ただ、踏み入れたことのない場所へ向かうことに対して昂ぶりを覚えているだけなのか。
奥の方へ進んでいくと、鹿雄先生が平生暮らしている所へ辿り着いた。引き戸一枚で隔てられたここは、外からでしか眺めたことのなかった、いわゆる離れのようなものだった。聞くと、会を立ち上げて暫くは住むところとなあなあで済ませてきたらしいのだが、会員が増えてからいっそ分けてしまおうと、私が名頃会に入る前の年に建て増しをしたのだという。
今迄一度も関心を持たなかったそこへ、知ってしまえば興味が湧かないはずがない──鹿雄先生は、このお部屋でどんな暮らしをされているのだろうか。どんなふうに起きて、どんなふうに寝て、お食事をして、何もない時間をどの様にしてつぶすのか。私が知らない鹿雄先生をこの部屋はたしかに知っている。

「この時間やと流石に暗いなァ」

外からの薄明かるい月の光だけを頼りに、手探りで壁をなぞる音がしてすぐ、目映い灯りが部屋を照らした。
想像していたよりも広いここは、向うの和室などと同じような造りをしている。置かれた調度品や家電等の一昔前で時が止まったかのような佇まいは、どこか懐かしさを覚えるばかりだ。入ってすぐ、部屋の中央に置かれたつやつやした表面の木製の食卓に先生は持っていた深鍋を置く。障子を閉めながら、そこへ置いて、とすっかり立ち呆けていたわたしに向かって机の上を指差す。慌てて右手で握っていた布の鍋敷きの上に、土鍋を置いた。

「和室の方と離れと、よう似てますね」
「似せて作って貰たから。でも向うの方がだいぶ古いわ、たまぁに雨漏りもするし」
「雨漏り……。あ、残りのおかず、取ってきます」
「俺も行く」
「座ってらしても大丈夫ですけど」
「ななしくん一人で何巡するつもりや。二人の方が早いやろ」

結局鹿雄先生と二人で残りを運びきる。箸や皿を並べればあっという間に夕飯前の食卓らしくなる。
向かい合うように座り、先生へ机越しに手を差し出す。初めはなんの事かと不思議そうな顔をしたけれども、直ぐにその意味に気がついたのか、手元にあった少し大きな茶碗をこちらへ渡す。炊きたての白米をよそって手渡したとき、先生が小さく喉を震わせて、くく、と笑う。

「鹿雄先生…?」


その意図がよくわからず、なにか不出来なところがあったのだろうかと見渡した。

「別にななしくんが可笑しいわけやない。このやり取りが……」
「……?」
「お──親子、みたいやなと思っただけや。嫁はんもおらんのに」

茶碗を眺めながらそう云われたとき、嬉しいような、それでいてなにかがっかりしたような不思議な気持ちになった。確かに先生の歳のことを考えれば、私くらいの子どもがいてもよいのかもしれないのだから、そう云われても何らおかしいことはない。
私が先生に、この時、どんな言葉を望んだものか。もし例えそれを、言葉のあやであったとしても、何の考えもせず云ってもらえていたなら──本来ならば、思うことすら烏滸がましいことであるのに、どこかこの失望めいた感情が、心の内で芽吹くこともなかったのかもしれない。

「不思議ですね、先生。私も……そんなふうに、家族みたいやなって、思ってました」 

どちらからともなく戴きます、というと先生は食事に手を付けた。心臓が跳ねるような心地がする。自分が作ったものを人に振る舞う事自体が初めてなのだ。先生の一口目が咀嚼されるまで、自分の箸は動かない。肉じゃががしっかり喉を通るところまで見届けると、先生は徐に私の方をまっすぐ見つめた。

「うん……美味しい」 

たったその一言だけで、思わず泣きそうになってしまう。 

「ほんまに?ほんまですか?」
「嘘なんかつかへん──米も美味しい。若いのに鍋で飯なんか炊けて、えらいわあ。俺には出来へんな」

そこから、幾度も美味しい、美味しいと云いながら目の前の器の中身を次々と摘んでいく姿を見ていると、急に目の前がぐにゃりと歪む。膝に、ぽたりと雫が落ちて制服を濡らしたとき、そこで初めて自分が泣いているのだと気がついた。私が鼻をすする音で、鹿雄先生はぎょっと顔を上げた。慌てて箸や茶碗を置いて、床に置かれたボックスティッシュを此方に寄越してくれる。しかし、それを取る余裕もなく、ただ顔をくしゃくしゃにして嗚咽を上げる私に、先生はついに傍に座ると二三枚のティッシュを纏めて私の顔に軽く押し付けた。少し乱暴にすっかり濡れた頬を拭ってくれる。その最中、時々鹿雄先生のすらりとした指が顎下に触れるので、こそばゆさに思わず背を向けようとすると、「動いたらあかん」と、しっかり頬を掴まれてしまった。

「……美味いって云うたのに、何で泣くんやろなァ」
「嬉しくて……」
「おちおち褒められへんな」

おもしろがるような声色だった。
涙もすっかり乾いた頃、漸く食事を再開した。
自分のせいもあっておかずが少し冷めてしまっため、温めてきましょうかと問うたけれど、鹿雄先生が冷めても美味しいと云うので結局そのままだ。
私も漸く自分の作ったものに箸をつけた。口にするとだ、思った通りしっかりと味がする。人参もしっかり味を含んでいた。
名頃会で、ここで食べるものはみんなそうだった。例え西瓜割りで形も留めずぐずぐずに潰れた西瓜でも、時間を間違えてすっかり伸びてしまったカップラーメンでも、どんなものでも美味しかった。
箸をすすめていたとき、ふと部屋の隅のテレビが目につく。

「先生はご飯を食べるとき、テレビつけます?」
「そうやな、大抵ついてる。声が有ったほうが辛気臭くなくてええし。君んちは」
「まちまちです……。先生、今日はつけへんのですか」
「今は、ななしくんの声が有るやろ」

鹿雄先生は一息にそう云うと味噌汁を飲み干した。






「ご馳走様。美味しかった」
「お粗末さまです」
二人でも食べきれない程の量を作ったつもりだったのだけれども、気が付けば皿の上には何も残っていなかった。
頂いたお野菜の中に、小夏の箱もあったため、幾つか持ってきておいたものを机の上に出すと、先生は早速手を伸ばした。私もそれにつられて黄色い実を手にとって皮をむくと、柑橘の爽やかな香りが辺りに広がった。口に含めば水気も多くさっぱりとしている。
鹿雄先生も私も饒舌な方ではないため、ここの会話はぽつりぽつりと、思いついたことをゆっくり交わすようなものだ。ふと訪れた静寂に、庭から虫の声がほんの僅か聞こえるほどの、この空気が穏やかで心地が良い。

「再来週、ななしくん大会やな」
「ええ、そうですね」
「結果によっては推薦状書くつもりや」
「──読手の?」
「そう。講習会もある。忙しゅうないか」
「その頃には夏休みになりますし。大丈夫です。」
「そうか……早いなァ」

鹿雄先生は壁に掛かった大きなカレンダーを見る。
確かに、自分もそう云いながら、ついこの間桜が満開になっていたような心地がする。目まぐるしく季節が移り変わっている。
──たしかに今の段位なら、講習会などを受けることはできる。先生はこれも全て先の話だと云っていたような気がしたが、きっと、あれは頷かせるための建前で、本当の所は早急にこの経験をさせたかったのだろう。それ程までに私を読手へと薦めるその原動力は、どこにあるのだろう、いつか問うてみたくなった。
ふと、手元の腕時計を見ると、思うよりも遅い時間であることに気がついた。あまり長居をしてしまうと、迷惑になってしまうだろう。皿を片付けようと立ち上がると先生もつられて腰を上げた。

「そのまま置いとき」
「でも、お鍋もありますから」
「──皿くらい拭くわ」
「有難う御座います」

鹿雄先生と両手に一杯のお皿を持つと、給湯室へ持っていく。離れには台所と呼べるものはなかった。普段使わないのならば、それも不便ではないのかもしれない。水洗いが住んだ皿は水切り籠へ入れていく。その中でも場所をとる大皿と鍋だけは先生に拭いてもらった。洗う物も少なく、二人で作業をすればあっという間に終わった。迎えを呼ぼうと鞄の中の携帯を探していたとき。

「歩きでもええなら、送っていこか」

車を持たない先生は遠慮がちに云う。

「──鹿雄先生。私、歩くの大好きなんです」
「君は昔からそうやな」

20170610