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「体調は」
「もうすっかり。只の立ち眩みでしたから」
「大事にし」
「有り難う御座います」

廊下を抜けていく。二人で並んで歩くには狭い幅のため、鹿雄先生は私の二歩ほど前を進んでいた。時折此方を振り向きながら、言葉を投げ掛けて呉れる先生との会話は心地がよかった。
──鹿雄先生から、読手にならないかと云われたとき、実のところ、刹那すっと腹の底が冷える心地がしていた。それは私が純粋に選手として活躍するだけのことを、心から求めていなかったことを、先生が察したのではないかと思ったから。
名頃会は少数精鋭で練習が行われている。そのため会員一人の些細な変化でも先生は気がつくのだと云っていた。だからそんな私の不誠実さを、見透かされるのではないかと思ったら少々怖くなったのだ。自分を見てくれる先生が好きなのに、そんな先生を怖がるのは矛盾だった。
平生通り和室の方へ向かおうとする私に、先生は思いついたことがあったのか、「ななしくん」と、軽く肩を引くように呼び止められる。

「はい」
「一寸先に、こっち」

返事をすれば、和室とは真逆の離れた台所の方へ向かいながら手招きをするので、慌ててその後を追う。先生は専ら最近ここには顔を出さないので、不思議に思いながら暖簾を潜ると、そこには──大量の野菜が置かれていた。新聞紙に包まれた中身はキャベツ、麻袋に目一杯詰められたじゃが芋、葉っぱの付いた大根、不揃いの胡瓜等がこれでもかと言わんばかりに机の上を埋めているではないか。ひとつひとつ見ていくと、どれも土が付いている。

「鹿雄先生、これは」
「野菜」

先生は、手近な人参を手に取り私に手渡した。

「貰いもん。一人身にこないたんと……ななしくん、帰りに持って行ったらええわ」
「あ……有難うございます」
「遠慮せんでたんと取っていき、俺は料理出来へんし。そのまま食える胡瓜は兎に角、他はあっても腐らせてしまうやろうから。勿体ない」

心底困ったような調子でいうので、ほんとうに始末に悩んでいるのだろう。
『料理は出来ない』と云ったことから、鹿雄先生は普段台所に立つことはなさそうだ。
ふと、先生は日頃何を食べているのだろうかと思った。鹿雄先生とはこうして長く接してきたのに、当然だが私的な交流は無かったため、どんなふうに生活をしているのか等見えていなかった。急に、頭の中に先生があり合わせの何かを買う、店屋物を食べる、そんな姿を浮かべる。
(先生、お一人なんやわ)
そう感じたものとほぼ同時に、躊躇いもなく口をついて出た言葉は自分でも驚くほど積極的なものだった。

「私でよければ、お夕飯お作りしましょうか」
「君が?」

先生に聞き返されたとき、その声が大きなものだったので、自分が、差し出がましいことを云ってしまったかと思わず竦む。

「勿論、鹿雄先生がお嫌でなければのお話で……味も、保証出来やしませんけど」
「嫌なわけあらへんわ、ええんか」
「は、はい」
「へえ……楽しみやなァ」

そう屈託なく笑う鹿雄先生の顔は可愛らしく、まるで子供のようだった。
頼りきりの私が先生に頼られることなど、滅多に無い。うれしさに逸る気持ちを抑える。
鞄から携帯を出し、今日の夕飯は不要のことと、遅くなることを含めて手早く連絡を済ませた。

「俺からも連絡しとこか。流石に二日も遅うなったら、ええ顔しはらへんやろ」
「ええ、そうでしょうか……」

言葉を濁す私に特段触れもせず、先生は長廊下の途中にある卓上電話へ向かった。いつもの調子と変わらない声をうしろに私は一足先に和室の方に向かう。足取りは軽い。





練習が終わり、足早に台所へ行くとすぐ、器具や調味料の確認をする。鍋や箸などは一通り揃っていた。醤油や酒などの調味料のボトルは奥にあるのを知っている。そのどれも封を切られていないものばかりで、恐らくお歳暮かなにかで貰ったものを嵩張る箱から出して、しまってあったのだろう。
流石に練習着で料理を作るわけにもいかず、制服に着替え直し、財布だけ持つと足りない材料を買い足しに行くことにした。
近くの小さなスーパーでパッキングされた肉を籠の中に入れながら私は、古い記憶から先生が何を食べていたのかを思い出していた。嫌いなものはあまり無かったような気がする。
それに伴って浮かぶのは、私や紅葉ちゃんが何かを食べているとき、鹿雄先生が此方をじっと見つめていたことだ。先生は、私達と目が合えば、少しだけ笑ってから、何事も無かったように視線を下にする。それが何度かあったとき、遂に紅葉ちゃんが不思議そうに問うたのだ。「名頃先生は何でうちらがご飯食べてると、こっち見てはるんですか」と。
──先生は、あの問いに対して、何と答えて呉れただろうか。随分前の事だったので子細まですぐ思い出せそうにはなかったけれども、確かあの時ゆるりと頬杖をついた先生の顔だけははっきりと覚えている。
買い物を済ませて戻ると、玄関先の靴が殆ど無くなっている。今日は早めに人を帰したようだった。残っている履物は紳士物の茶色の革靴がひとつと、女性のローファー、それから雪駄が一つ。






髪が垂れぬよう一纏めにして、早速取り掛かることにした。料理をすることは嫌いではない。
あまり作る機会には恵まれなかったけれども、一通り家に揃った料理本には目を通すことが多かった。知識に偏りはあるかもしれない。それでも思うより手際も悪くなく進められている。ぽこぽこ、規則的な音のする鍋の中身の味見をしていたとき。

「わあ、ええ匂い」

弾むような声のあと、紅葉ちゃんが暖簾を潜って私の直ぐ側にぴったりとついた。

「紅葉ちゃん、これから帰るの」
「うん」

返事もそこそこに横で珍しそうに私の手元を眺める。

「何でここで、ごはんなんて……」
「せ、先生がお野菜を沢山頂いて。でも、先生あまりお料理しはらへんみたいやから、だから……」
「ふうん」

しどろもどろになる私を横目に紅葉ちゃんはいじわるく笑うと、私から匙を取って鍋の中の肉じゃがを掬う。一口、ぱくりと食べて──そして。

「──美味しい…!」
「ほんまに…?」
「うん、ほんまに美味しい。これ、きっと先生喜ばはるわ。お米もお鍋から炊いて……?」

深鍋の、すぐ横で既に火を止めて蒸らしを始めていた土鍋を見る。

「ここ、炊飯器が無くて」
「……先生に云って、炊飯器買うて貰たら。"ここで毎日先生のお夕飯お作りしたいから"って!」
「む──無理!」
「でも……この肉じゃが食べたらきっと、先生断れへんと思うけど」

紅葉ちゃんはもう一口、とせがむので頷くとまた嬉しそうに鍋の中身を掬った。
彼女が名残惜しそうに帰ったあとも、まだ作り続けていた。今日頂いてもらう分は既に仕上がっていたけれども、机上の食材を少しでも減らし、なるべく長く食べられそうなおかずを作り置きしておこうと思ったからだ。時刻はもうすぐ19時になる。窓からみる空には星が出始めていた。
そろそろ鹿雄先生の様子を見てこようか、と振り返ると。そこには小さな椅子に腰を掛け、夕刊を読んでいる先生の黒い頭だけが見える。私の気配を察したのか、紙面へ顔がぺったりついてしまうほど近づけていたところから、ぱっとこちらへ向けた。

「し、鹿雄先生」
「気ィついた。えらい集中力やな」
「居たはるなら声かけてください……」
「君が一所懸命夕飯拵えてるから、急かしたらあかんと思って」

無心で作り続けていたためか、先生が少し前からここにずっと居たことに全く気が付かなかった。私としたことが、それも知らずひとりごとを呟いたり、時折鼻歌も披露してしまっていたような気がするけれども。

「先生……途中、何か聞こえました?」
「……うーん」

私の絞るような小さな声の問いに、鹿雄先生は少し思案して。ああ、と皺になった夕刊を折りたたみながら頷いた。

「沖野ヨーコ。君、歌上手いなあ」 
「………先生きらい」


20170603