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思わぬ人物がリビングに居た。殆ど眺めたことのないカレンダーに目をやれば、細かに両親の予定が記入されている。成程、今日は母の帰宅日だったらしい。
数ヶ月ぶりだろうか、母と朝食を摂っている。
もっとも彼女が私と対峙し、話すことといえば父への不満や愚痴が殆どである。この家にちっとも顔を出さないだとか、経営方針が先代のそれを踏襲しない不敬者だとか、これは、彼女の満足がゆくまで返事をしていればいい。 答えは同意か肯定のみを求めていることは経験で解っている。
それが終わればこんどは一方的に此方へ質問を投げかけてくる。
母の、きっちりと着付けられた、臙脂色に金糸で誂えられた着物は見たことのない代物であった。また新たに作らせたのだろうか、年不相応に華美だ。特徴的な香水だけが、昔と相も変わらず部屋の中に薫っている。

「そういえば。かるた、続けてるんやな。あんたの名前を新聞で見かけて…。まぁ関心やわ」

匙を持つ手がにわかに震えた。

「有り難う御座います」
「──けど、中途半端な才能はいらん。家さえ継いでくれたらええのよ」

感情も込められていない言葉に息を飲んだ。母は云いきると、お茶を口に含む。私もよそわれたお粥をひと匙口にするが食べた気がしない。ここ数年、この家の中で摂るものは、どれもそれなりの品々であるにも関わらず、舌の上に乗せればまったく味がしなかった。──自分自身の心持ちが原因であるという事は明らかだ。素っ気もないそれを飲み込む。早々に食べ終え、膳を下げてもらった。
粉をはたく母に次はどこへ行くのかと聞けば、海外へ飛ぶとのことだった。また暫くは帰らないらしい。彼女の見送りは玄関までだ。外を見れば黒塗りの車が停まっている。

「ななしはん」

母は唐突に私の名前を呼んだ。段差の上に立つ私のほうが些か目線が高い。伏し目がちに、何でしょう、そう問えば、くっと顎の下に扇子の骨が当たる。背中にいやな汗が伝った。

「あんたの──」







普段であれば終業後、このまま練習へ向かう日であるというのに、昨日の鹿雄先生の言葉を思い出し、どうすれば良いのか分からなくなってしまっていた。先生は、ただの立ち眩みでさえ心配をし、私のことをとても労ってくれる、それを無下にするのは自分のなかで蟠りとなって残るはず──しかし、校門を出て、悩み抜いた末結局自分が向かう先は名頃会のあるところだった。見慣れた曲がり角で足取りが急に重たくなる。──ほんの少しだけ、ここを曲がって、表を見れば満足するかもしれない。入らなければ良いのだ、そうすれば気持ちの整理がついて家に戻る気持ちにもなる。電柱ごしに顔を出そうと玄関先へ視線をやった時。深緑色の着物に薄灰色の羽織りを纏ったあの人が、切れ長の目をこちらに向けた。鹿雄先生が表に立っていたのだ。しっかりと目が合えば、私の方に向かって歩いてくる。先生は気だるそうに腕を組み直した。

「今日は遅いなァ」
「鹿雄先生は今日は来るなって、私に云いました……」
「其れでも来るやろうと思てた。そんで、やっぱり来た」
「なんで……」
「分かるって。ななしくんの先生やから」

私の先生だから。──私の先生なんかでは無い、皆の先生だ。だのに鹿雄先生は、こんな時ばかり『君達の』とは云わない。
向かい風が吹くと、ただでさえ崩れていた髪型は益々ひどかった。きっと見られたものではない。それが恥ずかしくなって垂れた髪を隠すように後ろへやってしまった。
ふと、風に乗って優しい香りがした。目を閉じてそれを確かめればやはり懐かしいお香のような薫りがする。わたしが初めて心地よいと思った、生涯忘れるまいと思った、記憶の中に強く残る先生の匂いだった。

「親でもきっと、私のことなんか分かりません。それなのに」
「そら、君の親御さんは損してはるわな」
「……可笑しい、せんせ」

そうやな、変やな、と鹿雄先生はくつくつ笑う。玄関の引き戸をゆるりと引いた。沢山の靴が乱雑に敷き詰められる様を見る。

「ななしくんおらんとこんな感じや、あかんなあ……」

鹿雄先生は誰かの靴を拾い上げ面白そうに云う。その言葉と振る舞いに遂に、思わず笑ってしまった。今朝方からついさっきまで、まるで自分が一等不幸で、いくら大きく息を吸っても吐いても、詰まるような苦しさから解放されずにいたはずなのに、不思議な事だ。先生の姿を見るだけでまるで呪いでも解いてもらったかの様な心地がした──私は信じてよいものをはじめから識っていた。自分が分からないのならば、この人の傍に居ればいい、そして私の道まで委ねてしまえばいい。私のゆく先は常にところどころ、誰かの手の中に握られてきたのだ。
そんな手を一度初めて振りほどいたのは、名頃会に入りたいと私自身が決めたとき。 今は、一番大切な人に。鹿雄先生に握られていたい。私を一番解ってくれているであろうこの人に。
私はきっと、選手でいることに深い拘りがあるわけではないのだろう。ここに居ることに強い執着と価値を見出している。関根さんに昨日の夜『読手になりたいのか』と問われ答えられなかったのは、そういうことだ。 こんなことを知られたら、きっと呆れられてしまう。

「──鹿雄先生、ええ読手になれたら褒めてくれはりますか」

嘘みたいに晴れやかな声が出た。
私の言葉に、鹿雄先生は一瞬ぎくりとした顔をした。何か思うところがあるとき目元のあたりに人差し指と中指を添えて──そんな仕草をするのは先生の癖だ。

「……俺に褒められたいんか」
「当たり前です。紅葉ちゃんも、関根さんも、わたしも──会員は皆、先生に褒めて貰たら、嬉しいです」 
「そんな……なんぼでも褒めたる。もう止めてくれって云うまで褒めたる」


遠くで誰かの大きな声が聞こえる。
わたしはこの場所が好きだ。居場所があるここが、優しい先生が待っているここが大好きだ。先生が私へ期待をくださることがどんなに嬉しいことか。

「やってみたいです、目指したいです。読手。手解きしていただけますか」

20170529